目次

第9章 絶対信仰、絶対愛、絶対服従

信仰生活で一番危険なこと

どんな人でも十人を代表すれば、その人は父母の立場になるのです。そのような立場に立つようになる時には、十人の人の全ての困難を全部、責任を持って、十人を全部、面倒見なければならないのです。このような立場にいる時には、たった一人でも困難の中にいたり、不足な立場にあったりしていたら、その人の心をなだめて、引っ張っていくべき責任感を感じるようになるのです。

しかし、十人が1人に対して“私は引っ張られる立場にいる。あなたたちは私より高い36家庭、72家庭、124家庭、430家庭なので、全ての面において私の見本にならなければならないし、私を導き、私のためにしなければならない!”という立場にいれば、そのような立場はいつも不平不満の立場なのです。

食事をする時でも、仕事をする時でも、寝る時でも、自分を中心として行動すれば、その結果に対して常に自分の利益を願う立場に立つならば、十人ならば十人を中心として生きたとしても、その十人全部が怨讐になりやすいのです。しかし十人を中心として生きる生活において十人を代表する立場に立つようになる時、十人の人の困難が自分の困難になるのです。ですから、“十人に対して不平を言うのは、自分が自分に対して不平を言うのと同じだ。自分が自分の悪口を言うことだ!”と、このように考えれば、不平不満を持つことができる心が起こっても一番後ろになるのです。

信仰の道において一番危険なことは何かといえば、不平不満なのです。不平不満を言う所には、発展する法がないのです。そのため、サタンが我々、信仰者をいつでも狙うのは何か?サタンが武器を我々の前に、いつも提示するのは何か?不平不満だというのです。

では、不平不満をいう立場はどのような立場か?自分を中心として個性を出そうとすると不平不満が出るのです。例を挙げれば、十人いれば、その中でいつも自分という観念を持っている人は、十人の人がそこに和合してくれずに、動いてくれなければ不平不満を言うようになるのです。

不平不満を言う時には、必ず、サタンがつかんでいることを、皆さんは知らねばなりません。サタンを除去する一番良い方法は、不平不満を言う道を塞ぐことです。不平不満が広がれば、どうなりますか?昔、どんなに良く信じたとしても、不平不満を言うようになれば、半信半疑になるのです。半分だけ信じて、半分は疑うというのです。これは、信仰の基準が高くなるのではなく、半分は信じて、半分は疑うわけですから、その足場は半分ほど狭くなるのです。半信半疑というのは、半分になる、ということなのです。信じていた分が、半分、小さくなるのです。

半分ほど小さくなるというのは何か?倍、遠くなるということです。信じていた時よりも、半信半疑になった分、神様から遠ざかるというのです。神様から遠ざかるので、サタンがそこを見つけて、入ってきて、占領するようになるのです。不平不満を言えば、私に何が来るのかといえば、必ず、半信半疑の心がやってくるというのです。

皆さんの家庭生活において、妻や夫に対して不平不満を言えば、“夫が私を愛していないのではないか!”という半信半疑が必ず介在するのです。このような半信半疑が広がれば、どうなるのか?夫に対して昔、ついていった基準、或いは、昔、愛した基準が、全部、減っていくのです。

半信半疑が度を過ぎれば、どうなるのか?反抗と闘争が生じるようになるのです。初めは、反抗が生じ、反抗すれば、その次には、闘いが生じるのです。ここで反抗をすれば、あちらでも反抗するようになるし、このように2回、3回となれば、闘いが生じるのです。闘いが生じれば、全部、死んでしまうのです。分かれてしまうのです。必ず、一方は消えるようになるのです。

一方がなくなるようになれば、誰が消えるのか?まず、不平不満を言った人、半信半疑になった人、反抗して先ず闘いを始めた人が除去されるのです。みなさんは、これをはっきり知らねばなりません。また、誰が滅びるのかと言う時、先ず、そのような動機を持った人が滅びるのです。

何もしていないのに不平不満を言い、特別なこともないのに半信半疑になって、反抗して、闘うようになる時は、必ず決判が起こるのです。その中で一人は滅び、もう一人は勝つのです。では、誰が滅び、誰が勝つのか?どれが正しくて、どれが間違っているのか?このようなことが問題になるのです。ここには、必ず、善悪間の闘争が介在するようになるのです。悪が先ず、動機となって、不平不満を始めるようになりますが、不平不満と半信半疑の群れが必ず除去されるのです。皆さんは、これを知らねばなりません。十人を中心として生きるにおいて、わけもなく腹を立て、不平を言い、打つ人は、結局、十人の圏内から出ていかねばならないのです。

(1971.5.4.信仰者の注意点)

終りまで残る人

 

皆さんは不平不満を言う世界を防止しなければならないので、絶対不平不満を言うことができません。また絶対、半信半疑ではいけません。100%信じていかなければならないのです。疑いがあっても信じなければなりません。一回だまされて、二回だまされて、三回だまされればそれ自体は自然に解決するのです。そのような思考方式をもって現れれば、皆さんはたとえこのような環境に立っている個人であっても、全世界の為に復帰摂理される神様の責任を一つの焦点で代行するのです。皆さんは神側を発展させるのにおいて、主導的な責任を果たす場所にいることを感じることができなければなりません。そのような思想をもつ所は、最も貴い場所であることを皆さんが知らなければなりません。そのようになるのです。

 

それ故に、自分が全体の為の立場にいるという観念をもつ人は、いちばん後まで残ることのできる人です。いちばん後まで残ればどのようになるのか?十人が生きたのち、皆滅んでその人だけ残るようになれば、滅んだ元を得ようとすれば自分がもつことのできる分け前の分よりも多くなるのです。何のことかわかりますか?十人がそれぞれ百万ウォンずつあれば、全部合わせて千万ウォンです。その千万ウォンをもって生きて、すべて破綻して滅びたならば、滅びたものが百万ウォン以上もなることもあるのです。

 

もし統一教会がどの位かいって滅びるようになれば、統一教会は滅びても私は滅びないという人になろうとするにはどのようにしなければならないのか?統一教会が滅びて皆逃げていって散らばっても、私はいちばん最後まで残って葬式をして全部整備しておいていくと言わなければなりません。このような考えをもっている人がいれば、もし統一教会が終りになっても、神様はその人をのちに他の目的に使うことができるのです。このような人は、ほかのところに捨てられても神様が使おうとされるので新たに導かれる道が生まれるのです。

 

それ故に、聖書にも“終りまで忍耐する者は救いを受ける”と言われました。中間に立つのではありません。行って途中で放棄するものではありません。二人残っているのに終りですか?自分一人残っても終りまで忍耐していきなさいと言うのです。死ぬ時まで不平不満、半信半疑ではなく、反抗せず忍耐していきなさいと言うのです。

 

イエス様も終りまで“わが父よ、私の思いのままにではなく父のみこころのままになさって下さい”と言ったのです。イエス様個人のみ旨はイスラエルのためのみ旨にだけしかなりませんが、父のみ旨は世界のためのみ旨なので死ぬ時までそのようにしたのです。世界のためのみ旨の前に、自分のみ旨は指導を受けなければならないのです。

 

世界のみ旨を残せば自分のみ旨は生きるのです。それ故に、イエス様は自分のみ旨ではなく父のみ旨を中心にしていこうと自分を否定する場所に立ったのです。故に、イエス様は死んだけれど、滅びたように見えても興ったのです。それは何故か?神様が共にいらっしゃるからです。そのように死んだ人は復活するのです。歴史的な聖人、賢哲たちをみるとき、そのように死んだ人は後代に必ず褒めたたえられるのです。そのようになるのです。

 

(1971.5.4.信仰者の注意点)

 

 

現実を克服して神様の代身として闘っていけば

 

みなさん方、神様のためにする仕事は何ですか?出かけて伝道することが、神様のために仕事をすることではありません。まず、十人を代身して生きようとしてはじめて、世の中に出て神様の仕事を広げることができるのです。家庭に完全に責任をもって、十人を代身して責任をもつことのできる責任者となれば、どこに出かけても百人に対することができます。十人に責任をもったにもかかわらず、9人を率いる立場であるならば不合格者です。そのような立場で、どのように11人の人を救うことができますか?救うことができないというのです。

 

そのような立場では不平不満、半信半疑、反抗の事柄がおびただしいのです。なおかつ、統一教会の伝道隊員として出ている人達に、そのような事柄がおびただしいのです。姑舅が口やかましく叱り、義弟、夫の兄はもちろんのこと嫁ぎ先の食口がみんな反対します。また、自分の家でも不平を言います。夫と子供達が“これはなんだ”と不平を言います。不平の塊にしっかり上がって座ったのです。“何のみ旨がこうなのだ”と不満を言うのにちょうどよく、不平を言うのにもちょうどよく、半信半疑にもちょうどよく、反抗するにもちょうどよいのです。合っているの、違っているの?これ以上、反対して不満を言って半信半疑でもこれ以上することがないのです。

 

イエス様は死ぬときに一人であり独身でした。しかし、みなさんが死ねば一人ではなく夫と子供まで一緒に死ぬことと同じなので、不平不満の塊だというのです。それ故に、疑おうとすれば限りがありません。“何のみ旨がこうなのだ”と言いながら不平を言えば限りがありません。そうでしょう?“もしかして先生が我々を利用して、食べるためにしているのではないか?”と、疑えば限りがありません。これが、尻尾を噛んで疑いはじめたならば終わりがあるの、ないの?終りがありません。終りがないというのです。その次にはたぶん“私は統一教会に訳もなく入った。私が昔、大学に通ったときには学校で運動をして先生の賞賛を受けたけれど、隣近所にいくところどころで賞賛の代わりに後ろ指を指され内密にしてこれで生きていけるのか?”このように不平不満を言うのにちょうど程よくなっているというのです。

 

このような不平が残っていることは事実です。それでは、これがこの地で、不平の種の最高の停車場なのか、終着点なのかということを考えてみてください。みなさん自身がいま伝道している場所が、人間世界で不平をいうことのできる最後の場所なのかを考えるときこれよりひどい場所もあるのです。復帰をしようとすれば、完全復帰をしなければなりません。故に、みなさん自身が最高に不平を言うことのできる場所までいって、そこで不平をいわず勝利して帰ってこなければなりません。そうでなければみなさん自身は、完全復帰ができないのです。このように考えるとき、みなさんはまだ完全復帰できない場所に立っているのです。先生はこのように考えています。

 

蕩減復帰というのは逆さまに回るのです。蕩減復帰をしようとすれば、左に回ったことが右に回らなければなりません。逆さまに回して、回って他の世界をつくらなければなりません。

 

それでは、皆さんの心が不平不満でしっかり塞がったときに天国がその中にありますか、ありませんか?天国がその心に入る隙間がありますか、ありませんか?天国は不平不満をいうところにはありません。天国は不平不満をいうところからは遠くに離れていくのです。その次に、半信半疑で反抗すれば完全に離れていくのです。不平不満を言って半信半疑で反抗する場所はいつもサタンの巣窟になります。

 

故に、神様のみ旨を中心にして神様の一戦をつくらなければなりません。もし不平不満を言って、半信半疑で反抗する心があればそのような心をおさえて“私は神様を代表する人だ。みんな滅びでも私は滅びず残る。滅びようとすることをつかんで私が滅びないようにしよう”という心をもたなければなりません。このような心をもつ人は、神様がその時代においてその場所においてその環境において、誰よりも愛さざるを得ないのです。わかりましたか?そのようになるのです。それ故に、彼がいる場所は神様を代身して闘う場所です。神様のみ旨のために闘う場所です。

 

(1971.5.4.信仰者の注意点)

サタンのものを神様のものに作る方法

 

みなさんが伝道するのにおいて、まず十人を伝道しなさいというのです。わかりましたか?伝道するようになれば、お互いまず十人を伝道しなさいというのです。伝道しようとすれば犠牲にならなければなりませんか、ならなくてもいいですか?犠牲にならなければなりません。それだけ行なえば間違いなく神様が助けてくださるのです。そうすれば神様は反対の立場で助けてくださいます。

 

ところでみなさんが十人を伝道するのに不平不満をいって伝道すれば伝道ができますか。十人いますがみなさんが“み旨なのか、何なのか、これはなんだ?”と不平を言ったならば、その人達が皆さんの言葉を聞きますか?聞きますか、聞きませんか?どれ程賞賛しても、自分の言葉を聞いて見なさいと言っても、不平を言うようになれば絶対に伝道ができないのです。

 

それでは、どのようにしなければならないのか?不平不満を言わず忍耐して、犠牲にならなければなりません。忍んで犠牲になる方法しかありません。そうでしょう?忍んで犠牲になるようになれば、十人が私を悪いと言いますか? 「いいと言います」 わかっていることはわかっているのだね。全体が私を敬ってくれますか、切り落としますか?敬ってくれるのです。忍んで克服できなければ、敬いながらも敬うことができなくなることもあります。しかし、忍んで克服することを継続すれば、敬うことを継続できるようになるのです。故に、最後まで耐え忍ばなければなりません。忍耐して克服しなければなりません。耐え忍ばなければなりません。

 

我々が神様に侍るときにおいて、いちばん最初の順序は耐え忍ぶことです。誰のために耐え忍ぶのですか?全体のために、耐え忍ばなければなりません。全体の目的のために、中心的な思想をもってそれが成し遂げられるときまで耐え忍ぶのです。そこには不平不満が同居することができません。そのようにするとことから、天の国と天の基盤が広がるのです。

 

神様はいつも宇宙の中心でいらっしゃり、全体の責任をもつ方であるので、私自身も全体の中心の場を代表したという信念をもつことが何よりも貴いのです。みなさんは、これをはっきり知らなければなりません。わかりましたか?

 

私は全体のためにいる、と言わなければなりません。自分のためにいる、というのは滅びるのです。これは不平不満をおびただしく言うことができるのです。しかし、皆さん方が3千万の民族を代身したという時には、3千万の民族の中で私よりかわいそうな人がどれ程多いか?この時間にも死んでいく人がいるのではないか?この瞬間にも、病床でうめいている人がいるのではないか?この時間、自由にあの庭を散歩したいし、自由にあの山に登りたい心があるが、そうできない人も多いのではないか?或いは、誰かの前に自分の事情を言いたいけれど、言うことができない悲惨ななかでうめいている人がいるのではないか?このようなことを考えながら、“私は不平不満が一杯であるこのすべて全部を代わりに蕩減復帰するための祭物であり、それ以上の不平まで有り難く受けよう”と言わなければなりません。

 

そのように不平を有り難く受けようとすることが、不平の富者になるということではありません。不平を受ければ不平の富者になりそうであるが、不平の富者にならず返って天の富者になります。それでは天の富者になろうとすれば、どのようにしなければならないのか?サタン世界のものを奪ってこなければなりません。そうすれば、サタン世界のものを奪ってくることに比例する富がもっと訪ねてくるのです。人間の不平不満、或いは半信半疑、すべての反抗の与件(与えられた事柄)を私が受けようとするときは、全体について不平不満の代表者になるというのですか?半信半疑、反抗する代表者になるというのですか?私が責任をもって屈服させるというのです。このように思想は信仰生活で最も切実です。

 

そのようになって全国家の不平不満の圏、半信半疑の圏、或いは反抗の圏が頭を下げて従順になるときは蕩減が始まるのです。誰によってそのようになるのですか?自分自身によって蕩減が始まるので、私はその国において神様の代わりに仕事をする人になるのです。それ故に、国における祝福を受けるようになるのです。祝福を受けるときにおいては、時間が少しかかります。時間がかかるので、終わるときまで待たなければなりません。国が全部すべて降伏するときまで、忍耐しなければなりません。耐え忍ばなければなりません。

 

(1971.5.4.信仰者の注意点)

 

 

善の側を導いてこられた神様の作戦

 

我々、統一教会のどこかの地区長とか部長が“私が15年、17年、或いは20年が過ぎるほど信じながら、今まで耐え忍んできたのでもういいだろう。これ以上耐えられない”というならばそれでいいですか?先生がもう耐えられないと後退するのならまだしも、その人がそうだと言って統一教会が滅びるのか?先生が、粘り強く耐え忍んでいくようになれば滅びません。また、不平不満を言う人が先生を見るようになれば晴れやかか?中心の場に立って責任をもっていく人の前には、恥ずかしさを感じるのです。これが、今まで善悪の闘いにおいて蕩減という秘法であることを、皆さんが知らなければなりません。

 

それ故に、どこにいってもこれができなければ問題が大きいのです。不平不満を言うことはサタンが喜ぶ要件です。それを、かたづけるために“こいつめ、さあやってみろ”と言いながら闘わなければなりません。皆さんが伝道に出でかけるならば、隣近所が騒ぎ立て、悪口を言って反対して迫害をします。そのような時、皆さんが一人いるよりは自分の周囲に自分側がいるのがいいのです。約10人がいっしょにいるときには、なんだかんだと言っても、サタン世界で迫害すれば“アイゴー、これはだめだ!”と言いながらその時には味方になろうとするのです。

 

それ故、自分たちだけで一つになれなかったとしても、怨讐と大きな闘いが起こるようになれば一つとなるのです。誰かが出かけて問題を起こして隣近所が騒がしくなればもっと大きなサタンが現れて発動するようになります。近所の人たちがじっと見ると、良心的な人たちを悪い奴らが迫害をするのです。故に、良心的な人の側に回って立つのです。同じです。サタン側にいることのできる立場にいても、もっと悪い悪団が現れて騒ぐようになれば、善の側になって味方になるのです。そのような原則的作用で糾合することができるのです。

 

例えば、ある家の中で母親と父親が朝早くからケンカをしましたが、怒った婦人は夫が外に出かけるときに“あいつめ、今日出かけて死んでしまえ”と罵ったとしましょう。ところが、夫が外に出かけて事故に遭って死ぬようになりました。その時、その婦人はどのようにしますか?“アイゴー、私が間違っていた”というようになります。大きな事件が前に起こるようになれば“アイゴー、間違っていた。許してください”というのです。

 

それ故に、神様はこの作戦をされるのです。ある場所で責任を持つ人がいなければ、彼らよりももっと悪い群れをして強く打つようにされるのです。強く打つことによって、一つになるように作るというのです。このような作戦をされるのです。イスラエル民族も、神様を信じることができなかったので強く打ったのです。その方法です。わかりましたか?

 

それ故に、外部の迫害が悪いことではありません。皆さんが完全に一つとなる時には迫害ができません。十人の駄々っ子が束になって我々の家を攻撃してきても老親(老人のこと)を中心にして、8人の食口が全部すべて一人ずつしっかりつかんで回っていけば引いていくことができないのです。手ごわくなれば騒ぎ立てることができないのです。

 

皆さん自身が十人を中心にして、責任を持って出て闘うようになれば外部の迫害はなくなるのです。わかりましたか?一つとなって出かけるようになる時には、外部の迫害はありませんが、一つとなれず退くときにはもっと悪い連中が棍棒を持って追いやってぶん殴ろうとします。その時には、“アイゴー、だめだ。神様!”と言いながら合わせるようになるのです。故に、初めからそのようなことがないように、各自が十人を代表したという立場で一つになることが天則です。

 

このような立場でみなさん自身が不平不満、半信半疑、反抗の与件全部すべて虐待するという心を持って、責任をもって忍耐で克服して忍んで全体のための立場で出かけるようになる時、その十人がその人によって出世するようになれば彼はいつも十人の母のような立場になります。そして、“アイゴー、お母さんどこに行きますか?一緒についていきたいです。”と言うようになるのです。そうなりますか、そうなりませんか?そうだというのです。

 

母のようであり兄のような、友達の中で一番近い友達であるその人が天の国の話をするようになればどんどん味がでますが、他の人が言うようになれば気分が悪いのです。皆さんは味のある人になりますか、甚だ味のない人になりますか?どんな人になりますか?全部が好きな人にならなければならないでしょう? 「はい」

 

(1971.5.4.信仰者の注意点)

父母の心情で蕩減の道を行けば

 

皆さんは、3千万の民衆を代身して世界人類を代身したので自分をその版図で起こる不平不満、半信半疑、反抗、闘争の与件が行き交っている環境に対応して、十人の食口を蕩減させるために神様がそのような環境を作ることができるともいえるのです。

 

その時には誰が責任を持つのか?これを有り難く受けて、身悶えをして自分の責任だといって荷を負う人がいる時、彼らによって外敵なサタン世界は崩れていくのです。蕩減歴史はこのように起こるのです。わかりましたか?

 

それ故に、父母の心情をもたなければなりません。主人である父母の心情をもたなければなりません。それで“父母の心情をもって僕の体をつかい、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流そう”というのです。このことのみをなす日には、父母の代身者にならざるを得ないのです。父母が不平をいえば子供達はどのようにしなければなりませんか?“アイゴー、これは大変なことになった!”と子供達は死ななければならないのです。父母が泣いても子供達は父母のために死のうとしなければなりません。それでそのような標語を立てるようになったのです。

 

これは主体的な思想を中心にして統一させる思想です。主体を中心とする統一思想です。それでは“統一”の“統”は何の統なのか?率いる、統という字です。率いるという立場は侍るということですか、導いていくということですか?導いていくことです。導いていくのはどんなに大変なことでしょうか?すべて導いていった後で、平安な場所に行くようになれば、その時は彼らが侍ろうとするのです。その時には、安らかであり、不平をいうことがないので“ああ、こんなにいいのはだれのおかげか?先生のおかげだな”といいながら侍るなといっても感謝して侍るのです。それ故に、万民が侍ることができる栄光のときまで、いつもこの責任を背負っていかなければ受難の道を切り抜けることができないのです。

 

(1971.5.4.信仰者の注意点)

 

 

実際生活で蕩減復帰していく三つの方法

 

神様は今まで神様に近いものを犠牲にして、悪いカインを神様の息子娘よりもっと愛してこられました。それ故に、我々はそのような立場を通らなければなりません。そうでなければ天の国に行くことができないので、そのような立場を超えた場所に立たなければなりません。そのような場所に立とうとする心を持つ人は、天の国の人であることは間違いありません。そのような人が、天の国の人であることは間違いないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。

 

忍耐と克服、この言葉はなんですか?耐え忍ぶということなのです。そのような人は手を上げてみて下さい。一人もいませんね。嫌なことは嫌でしょう?しかし、無理にでもしなければなりません。無理にするのです。耐え忍ぶことが好きな人がいるでしょうか?そのような人は一人もいません。何故か?人は耐え忍んで生きるようになっていないからです。ところが、堕落したので耐え忍んで生きなければなりません。応報(むくい)を受けて越えていかなければならないからです。人間の先祖が耐えることができず、忍ぶことができなかったので堕落したのではなかったでしょうか?故に、それを蕩減復帰しようとすれば最後まで耐え忍ばなければなりません。これが蕩減原則です。わかりましたか?耐え忍ぶところにサタンは身動きがとれず屈服するのです。

 

どこまで耐え忍ばなければならないのかといえば、最後まで耐え忍ばなければなりません。それ故に、神様は6千年の間耐え忍んでこられた方です。皆さんはそれを知らなければなりません。その方が誰ですか?我々の父です。我々は、その父の天稟と血と肉を受け継いだので、その父と一緒にならなければなりません。それ故に、堕落した世界での生活哲学は耐え忍ぶことでなければなりません。だれの為にですか?神様の為です。ここから孝の道理が始まるのであり、忠の道理が始まるのです。ここから、国も世界も解放の運動が起こるのです。ここでは良い世界も歓迎であり、悪い世界も歓迎であり地獄はなくなるのです。そうでしょう?このような原則の下で耐え忍ばなければなりません。

 

昔、このような話がありました。5代が一つの家の中で住む、ある本家の孫娘として過ごしたハルモニがいました。そのハルモニにどのように5代という食口たちが一緒に住むのか、その秘訣を聞いてみました。するとそのハルモニは小部屋に入って瓶を開けて見せてくれたのです。そこに忍ぶという忍という字が、三つ四つ瓶にしっかり付けてあったのです。皆さんはこのようなことを聞いたことがあると思います。忍という、字、忍ぶだけですか?耐え忍んだのです。忍ぶところに目的がなければなりません。目的がなければ忍ぶことはできないのです。神様の怨讐であり、人類の怨讐を捕まえて殺すために命をかけてすべて取り囲んで全滅させなければなりません。そのようにすることによって、世界を代表して主をもう一度探さなければならないのです。そのためには忍ばなければなりません。そのような目的観念が強くなければなりません。

 

その次には、耐え忍ぶだけではいけません。耐え忍ぶだけで“ああ、苦しい”と言ってもいいですか?耐え忍んでも耐え忍んでいるようではなく、感謝して賛美を捧げなければならないのです。わかりましたか?耐え忍んでいても、感謝の心と讃揚(ほめたたえること)する心をもって耐え忍ぶのであり、不満を言いながら耐え忍べば神様がきても逃げていくのです。耐え忍ぶところに何が必要ですか? 「感謝する心です」 感謝する心です。感謝する心がなくては忍ぶことができません。感謝の心が下敷きとしてなければ、忍んでもここには神様が共にいらっしゃることができません。

 

それではどのように感謝するのか?みてみなさい。私よりもっとかわいそうな人がどれ程多いですか。下がってみて生きるのです。上がってみて生きるのではありません。“私はそれでも統一教会を信じ神様を知って、死んでも神様のために死のうと思うが、統一教会に入ってくるのでもなくみ言も知らない人がどれ程多いか?だから私は幸福な人だ”と言いながら感謝しなければなりません。神様の前に賛美を捧げなければならないのです。そうなのです。

 

感謝の心と賛美の心を前においていきながら耐え忍ぶところに、神様が涙を流して訪ねてこられるのです。これ以上でも耐えようとするとき、神様が訪ねてこられて“やぁ、某(誰かの名前)これ以上耐えるな。その道をもう行くな”と停止されることが復帰の場所です。感謝と賛美の心をもって耐え忍ぶ日には、神様が涙を流して訪ねてこられて“世の中におまえのような息子がどこにいて、娘がどこにいるのか?今おまえがする仕事を他の人にさせよう”と言われ彼を安息の場所、天地にない福を受けることのできる場所に移しておこうとされるのが、父の心であることを知らなければなりません。わかりましたか? 「はい」 それ故に、神様に感謝と賛美を捧げなければなりません。

 

ここにいるチョン・ソゴン老人を知っているでしょう?彼らは感謝組の人ですが、鞭で打たれても(以下引用の印の中のみ言は拍手をして拍子を取って歌を歌われる)“鞭で打たれてありがとうございます。迫害を受けてありがとうございます。姑から悪口を言われてありがとうございます”全部、感謝なのです。“私の愛する息子娘を神様が連れていかれてありがとうございます。夫と引き離してくださってありがとうございます”(笑い)知ってみると本当に感謝するのです。そうでなければならないようになっています。だから感謝しなければならないのです。ひたすら感謝して賛美しなければなりません。朝から婦人がなじって家から出ていけと声を張り上げてお互いケンカして死にそうな声になる時も“一人の食口が怒ってありがとうございます。”(笑い)

 

そのようにしてみなさい。3人だけそのようにしてみなさい。どんなに怒っても10分を越えるだろうか、“どこかにいってよ。アイゴー、知らない!”このようになるのです。そのように、お互い刺激になれば前よりも間が良くなるのです。だから、その近所では彼らを“感謝組”だとしたのです。ここでは、チョルサンの感謝組教団というのです。それで私が“ああ、彼らは大韓民国に大きな教育をするために、現れた教団なのだ”と考えました。そうではありませんか?解放以後にも、追いに追われる凄惨な環境にたくさんぶつかってきた、この民族の前にこのような教団があることは有り難いことです。神様の福を受けることのできる道が近づいてきたということですね。そのようなことを見るとき、韓国の民は滅びることのない民だということがわかるのです。それ故に、神様の前に感謝と賛美を捧げなければなりません。

それでは、耐え忍んで感謝と賛美だけしてじっとしていればいいのか?それで終わるのではありません。その次には何をしなければならないのか?お互いに助け合わなければならないのです。自分に良いことがあれば助けてあげて、お互いに助け合いなさいというのです。一緒に生きて一緒に行こうというのです。ここで初めて統一が起こってくるのです。わかりましたか?お互い助け合って、お互い頼り合えば統一が起こってくるのです。天の国はこのように成し遂げられるのです。

 

蕩減復帰をしようとすれば、世の中で一番初めに何をしなければなりませんか?しつこく忍んで越えなければなりません。その次には、有り難いので感謝と賛美を捧げなければなりません。“私だけ良ければいい。他の人たちは問題ではない。時がきたら私だけ逃げればいい”と言ってもいいですか?自分にある財産と、全てのものを出しておいて紐を吊るして“早く来なさい、早く。おまえたちが初めに行きなさい”と行ってみんな行った後に、自分は後から一番遅く行こうとしなければならないのです。このようにお互い助けてあげて救ってあげて、お互い助けを受けるための因縁を結べば統一された天国が成し遂げられるというのです。

 

それでは、誰が先に助けてあげなければなりませんか。感謝し賛美する人たちが、先に助けてあげなければなりません。皆さん方は、助けを受けるために出かけていますか、助けるために出かけていますか? 「助けるためです」 故に、皆さん方は耐え忍ばなければなりません。次には、感謝し賛美しなければなりません。先生が今まで言ったことは他ではなくそのことです。その次には、助け合わなければなりません。

 

(1971.5.4.信仰者の注意点)

 

 

365_与えて忘れる人が福を受ける人

 

誰が先に助けなければなりませんか?我々が助けなければなりません。誰を助けなければなりませんか?大韓民国と世界を助けなければなりません。助けることが簡単ですか? 「難しいです」 与える者は福を受けるといいましたか、罰を受けるといいましたか? 「福を受けるといいました」 受ける者よりも与える者に福がありますか、ありませんか? 「福があります」 福があるのです。それ故に、良く与えればよく受けるようになっているのです。しかし、半分を与えれば返そうが返すまいかと考えるのです。このようになるのです。3分の1を与えれば食べて残ったものとか、使って残ったものを与えるようで不平が積もります。むしろ、与えないほうがいいのです。わかりましたか。

 

それ故に、3分の1ならば与えないほうがいいのです。与えるならば、3分の2は与えなければなりません。なぜならば、堕落は蘇生期、長成期、3分の2圏で、したからです。3分の2以上の圏は完成圏なので天に属することができるのです。それ故に、3分の2の基準を越えていく人は天の国に入ることができるのです。3分の2の基準になろうとすれば50%とか60%をもっていてはいけません。3×3は9なので60%は少し越えなければならないし、70%にならなければなりません。

 

皆さんが学校に通いながら、試験を受けて点数をもらうようになるときにも、60点と70点は10点の差であっても70点をもらえば気分が少しいいのです。落第はしないので気分は悪くないけれど、60点をもらえば気分を損なうのです。そうではありませんか?6数は嫌で7数から好きになるのです。そのようになるのです。7数からすべての望みが開かれていくのです。6日を過ぎて安息日を迎えれば望みが芽生え始めるのです。人は何故か70点になればよい、というのです。そして、80点になればもっとよいといい、90点、100点になればもっとよいというのです。それ故に70%以上与えなければならないのです。本部の原理試験も70点をもらうことができなければなりません。70点をもらえなければ不合格です。70点を越えれば合格です。それで、そのように決めたのです。

 

それ故に、皆さんは3分の2の心をもって与えなければなりません。しかし“私が昨日そのように与えたのでその分返してもらわなくては。蒔いただけ取り入れるが、蒔けば繁殖するようになって何倍も取り入れるようになるので、私がこのように与えたのでこの次に何十倍をもらっていくぞ”というならば、それはよく与えることですか?そのようにする人は滅びるのです。それは商人です。そのような人は父母ではありません。3分の2を与えて、自分が与えたという考えを忘れなければなりません。他の人を助けてあげて記憶する人は、福を早く受けることができません。わかりましたか?他の人をたくさん助けてあげたと手帳に記録して、“私が助けてあげたので、この次に助けてあげることを探さなければならない”という人は、その助けてあげた功績の福を受けることができないのです。いつも与えるときと同じ心をもたなければなりません。他の人をたくさん助けてあげたのにもかかわらず、それを忘れて助けたことを知らないというようになるときには、福はすでに前にきているのです。“どれほど、長く過ぎて忘れてしまったのか・・・”このようになるのです。わかりましたか?それは何千年にも該当し、何万年にも該当するのです。何万年が過ぎたので忘れてしまった、ということと同じだというのです。

 

それ故に、他の人を助けてあげて忘れてしまう人は福を早く受けるのです。“私が助けてあげたのだから、返してくれるだろう”と考える人はどれだけ待っても福は来ないのです。わかりましたか?与えようと考えず受けようとだけすれば、そのような人は全部すべてサタンです。そこには神様がこられません。受けることだけよいといえば、神様は助けて下さいません。

 

私が皆さんに何かあげようといえば、お互い良いものを持とうと跳ね上がるのです。そのようになれば、一人は天国に行き一人は地獄に行くようになるのです。先生が何の考えもなく皆さんに与えるようになれば、先生は天国に行きますが、皆さん方はお互い良いものを持とうと争って地獄に行くようになるのです。良いものを持っために競争する人は、最も悪い場所に行くようになるのです。だから今、この中で最も上級の人がそのようにしたならばその人が最も悪いところに落ちていくのです。

 

それ故に、自分の為の行動は遅くして、他の人の為の仕事は急いでするのです。これが聖賢たちの教えです。そうすれば、我々は他の人の為の仕事を中心にして準備もなく急いですることがよいことなのか、よくないことなのか?よいことなのです。何のことかわかりますか?サタン世界は不平不満と半信半疑と反抗と争いでなされていますが、天の国をなそうとすればまず耐え忍ばなければなりません。忍耐して克服しなければなりません。

 

(1971.5.4.信仰者の注意点)

 

 

不信の要件を愛で克服されたイエス様

 

イエス様がみ旨の道を行くのにおいて民族の反対を受けて教団の反対を受けて、そして自分の親族たちから鞭を受けて、愛する弟子たちにまで背かれました。このようになった時に、イエス様はどれ程あきれ返ったでしょうか?皆さんは、それを知らなければなりません。

 

愛する息子が父母に“あなたがどうして私のお母さん、お父さんなの?”と言う時にお母さんとお父さんはどれ程あきれ返るでしょうか?このようになれば、精誠を尽くして育てたすべての過去のことが全部喜びの要素として現れたのではなく、怒りの要素として現れるのです。“こいつめ、息子なのかだと!おまえのために夜も寝ずおまえを育てたのに・・・”と父母の立場でその息子の行動は許すことができないのです。恨多い場所であり、過去を全部呪う場所がその場所です。そうでしょう? 「はい」

 

それ故に、愛の道を行くのにおいて不信ということは、倍に滅びていく要因になるのです。だから、耐え忍んで犠牲になって柔和謙虚にならなくてはなりません。これで万物は解決するのです。もし、いくら数十年よくしたとしても今になって“できない”と言ったならば、その一言は父の胸に大きな釘を打つことと同じです。その釘は針を刺すことよりも何百倍、何千倍よりもっと痛いのです。その一言によって、十年の勉強が南無阿弥陀仏となるのです。わかりましたか?だから、信仰の道を行くのにおいて、不平不満は絶対不幸の要件だということを知らなければなりません。半信半疑もそうであり反抗する心も同じです。

このような立場を見るときにイエス様が不平不満を言うことのできた立場なのか、そうでないのか見てください。イエス様は神様が4千年の間準備して、イスラエル民族の前に送った息子です。そのようなイエス様です。そうでしょう?“マリヤからヨセフ家族が一致してユダヤ教とイスラエル民族が一つとなっておまえを王として侍るだろう”ということが神様の約束でした。また、“おまえは世の中に行くようになれば、このような責任を果たしこのような使命を果たさなければならない”と神様が教えてくれましたか、教えてくれませんでしたか?そのような約束を受けましたか、受けませんでしたか。受けたのです。ところが、これはどうしたことですか?殺人強盗、反乱の群となり国家の主権を転覆させようとする反乱分子として追われました。また、教会はイエス様側になるはずが怨讐となり、イスラエル民族は忠義の民になるはずが怨讐の民になってしまいました。

 

神様が約束されたことがそのとおりになりましたか、なりませんでしたか?すべて成されませんでした。家庭においても成されず、国においても成されませんでした。また神様も“忍びなさい”ともいわれずイエス様を放っておきました。

 

それでは、イエス様は詐欺にあったようですか、あわなかったようですか?だまされなかったようですか、だまされたようですか?約束どおりしたようですか、しなかったようですか?全部すべて違って出てきたのです。だから不満が一杯になりますか、なりませんか?不満がぎっしりとつまるのです。不満がぎっしりとつまれば不平がでるでしょうか、でないでしょうか?不平が流れ出るようになっています。不平を言えば半信半疑になりますか、なりませんか?信じられますか、信じられませんか?信じられないので、神様に背くことができるのです。“神様がなんだ。すべて邪悪なことだ”と反抗することができるのです。そのような場所であるにもかかわらず、イエス様は行かれたのです。

 

善なることは最後まで善なることです。教会を代表してきたことは善なる場所にいるというのです。祭司長ザカリヤ家庭、すなわち洗礼ヨハネを中心とする家庭の一派を中心にしてヨセフ家庭は愛を結びました。その家庭を中心にして彼らが忠臣になろうとしたので彼らは善なる人たちなのです。

 

また、イエス様は今自分が善なる場所で反対を受けていると考えました。自分が立っている場所で自分のために仕事をするのではなく、人のために仕事をしていることは間違いないと考えました。約束した場所も間違いなく、自分自身も間違いないと考えました。ところがそのようにうまくいかなかったのは誰の故にですか?初めはサタンの故にです。その次は、サタン世界の故にです。そして、無知な民たち、無知な教徒たちがそそのかされてそのように反対するのだと考えたのです。

 

ですから、イエス様の胸に残ることがありますか?“けれど父しかいない。私がここで死んだとしても私は悪い人にならないので、神様も私の死を認めて下さるはずだ。私が最後の道を行くのにおいて神様が認めて下さる善なる人であるならば、神様は私の祈祷を聞いて下さるだろう”そのように考えたのです。そして、“私の思いのままにではなく父のみ心のままになさって下さい”と祈祷したのです。“私のみ旨はあなたと約束したみ旨であり、私が死ぬことはもう一度世界を救うための愛の摂理なので、あなたのみ心のままになさって下さい”と祈祷されたのです。

 

そこに不平がありますか?ないというのです。“したけれどおもいどおりにしなさい”と言いましたか?感謝の心を持ったのです。克服する場所、耐え忍ぶ場所で感謝と賛美をする心を持って自分の体を捧げたのです。そうでしょう?誰に捧げましたか?

 

神様に捧げました。イエス様は神様の前に自分自身を渡すのが申し訳ないので“私の死を父の前に差し上げることを申し訳ありません。父が死ねといわれる場所で死んで、また死んで、また死ぬべき道が残っていることを知っています。この体をあなたの前に捧げることができないので、怨讐である人類に残してください”と祈祷されました。人類にこのような心情を残して死んだというのです。それをご存じである神様も慟哭されるしかなかったのです。

 

このような息子は、死んではいけないので復活が成されたのです。真なる命は死んでサタン世界に讒訴を受けるのではなく、神様が味方することのできる命として復活するようになるのです。このような死によって、天の国の道が開かれるようになるのです。そうでしょう?

 

(1971.5.4.信仰者の注意点)

 

 

369_統一教徒が持つべき思考方式

 

もういちど結論を出してみましょう。皆さん自身は、悪の圏内で神様とサタンとイエス様の間にはさまっている人間であることを覚えておかなければなりません。故に、皆さんは自分が行く道において、どのようにしなければならないのかということを考えなければなりません。皆さんは、いつも国の為に精誠を尽くす人にならなければなりません。そうすれば皆さんは国が滅んでも残るというのです。世界のために精誠を尽くす人になれば、世界が滅びても残るというのです。

 

それ故に、そのように残ることのできる思想をもたなければなりません。全体を代表しているという思想をもたなければなりません。全体を敬い、全体を助けていかなければなりません。全体の父親の心をもたなければなりません。もういちどいえば、共同的な目的に対して責任をもって代表的な使命を果たそうとする人になれということです。そのようになる時には滅びることはありません。

 

その人は十人いたならば十人のためにいる人なので、その十人を代身して耐え忍ぶのです。十人に対して不平をいってはいけないのです。不平と不満がいっぱい積もる環境でも、耐え忍ばなければなりません。

 

そうすれば、感謝と賛美をすることのできる基盤を探していくことができるのです。そして、感謝と賛美のできる自分を中心として和合するようになれば、神様が十人に福を分けて下さるのです。あとで受けるために分けて下さるのではなく、彼らを救う為に与えて下さるのです。そして私自身は物をあげ精誠を尽くしたけれど、よくすれば彼の命を取り入れてくることができるのです。命を取り入れることができるのです。これ以上良い贈物がどこにありますか?

 

その人に善なる後孫が生まれるようになれば、自分がその人の先祖の福を実として取り入れて神様の前に捧げることができます。どれ程、その人の先祖が善であったとしても取り入れるのにおいて私が主導的な役割をしたので、先祖を通して受け継いで結実した姿は私の手を通して、その後孫の前に譲り渡さなければならないのです。それ故に、与えた立場である私が、受ける人よりもっと高い場所に上がることができるというのです。わかりましたか?

 

使徒パウロはこれを知っていたのです。使徒時代において、ペテロを中心にした12使徒を迫害する立場にいましたが、パウロはその後唯一のものとして至重(この上もなく大切なこと)して一代においてあちこちを歩き回りながら、どの使徒よりも受難の道を行き苦労しました。それは何故か?自分によってキリスト教の福音が広がるようになり、人類が自分の名前を通して伝道され救いを受けるようになる時、今まで善なる先祖たちが神様のために苦労して積んでおいた功績の実が自分によって結ばれたので、多くの族属(血縁関係の一族)に賞金を与えるときには自分の手を通して与えるようになることによって、自分が善なる祖先たちの前で第一の場所に行くことを知っていたので、パウロは夜も昼も死の道を、死地にいくことを考えることなく努力したのです。このような秘訣を知っていたので、彼がそのようにしたことを皆さんは知らなければなりません。

 

皆さんもそうではありませんか?皆さんが先生を通してこの道を知ったので、先生の代身で賞金をあげることのできる立場に立ったのです。万民を代表して賞金をあげることができるのです。そうではありませんか?それ故に、そのような人は自然的に全体の上に上がるしかないということを知らなければなりません。

 

皆さんは、どのような思考方式と思想をもたなければならないのか?“私は全体の為に生きる。全体より私はもっとしなければならない”という全体のための思考方法をもたなければなりません。”十人苦労すれば私はそれ以上しなければならない。そこに誰もできない難しいことがあれば私がそれをなそう。そこに私の手がいかなければならないし、私の血と汗が連結されなければならない”という思考方式をもって努力しなければなりません。そのようにしようとすれば、どれほど大変なことですか?しかし、耐え忍ばなければなりません。耐え忍べば良い因縁を結ぶことができるので、感謝して賛美する心をもちなさいというのです。それはすべて喜びをもつ基盤になります。その喜びは、私自身によってもつようになったのではありません。その喜びは、神様のみ旨ゆえなのです。

 

(1971.5.4.信仰者の注意点)

すべての困難を克服して闘っていく者になれ

 

皆さんは村の人たち故に、喜ばなければならないのです。皆さんが村の責任をもって村の人たちに“私と同じ思想をもって皆さんも一緒に行こう”ということによってその村の人たちが従うのです。村の人たちが従えばその思想をもって郡に行って、郡の人たちが従うようになればその思想をもって道(県)にいって、そして道の人たちが従うようになり、そのような思想をもって国の為に生きるときにはその国は早く復帰されるのです。

 

それ故に、不平不満、半信半疑、反抗、闘いの要素を全部すべてなくしてしまい、耐え忍んで感謝して賛美しなければならない責任があることを知って、喜びの心で人のために生きる人は最高の賞を受けるのです。我々が今そのような場所に立つのです。皆さんは最高の場所に立ったので、尊く福のある場所を大切に納めなければならないのです。皆さんが行った苦痛の道で勝利して帰ってくるようになる時には、錦衣還郷(錦の衣を着て故郷に帰ること)できる栄光の日が皆さんにくるようになるのです。“これが信仰者の注意点である”ということをよく記憶して帰らなければなりません。わかりましたね?

 

皆さんが、明日になれば帰っていかなければならないので、先生がこの話をするのです。この点を特に注意しなければなりません。したがって、言ってみなさい。不平は恐ろしいもの。 「不平は恐ろしいもの!」 不満は恐ろしいもの。 「不満は恐ろしいもの!」 半信半疑はサタン側のもの。 「半信半疑はサタン側のもの!」 反抗、闘争はサタンの武器をもって闘いをすること。 「反抗、闘争はサタンの武器をもって闘いをすること!」 うっかり間違えると、どちらも滅びるのです。それ故に不平不満を言う人は相手にするなというのです。闘争する人は相手にするなというのです。相手にしないことも忍ぶことです。耳でそのような言葉を聞けば、耳を塞がなければなりません。目で見れば目を閉じなければなりません。見ても全部見ないふりをしなさい。忍びなさいというのです。

 

ここで天と地に分かれるのです。わかりましたね? 「はい。」 故に、全体を愛して耐え忍べば天の国が訪ねてくるのです。耐え忍んで感謝と賛美しながら自分のすべてのものを与えて、最後に天の側に立つようになるときには神様が尊い福をくださるのです。皆さんが、これを知って残された1972年まで全力を尽くすことを願います。

 

皆さん、1972年まで遠いですか、近いですか? 「近いです。」 そのように考えるのです。先生も牢獄生活をしました。皆さんの生活は、その牢獄生活よりよいというのです。そうでしょう? 「はい。」 先生は血を吐くほどの多くの拷問を受けました。ところで、皆さんは誰が頬を打ちますか?誰が捕まえて殺そうとしますか?先生よりよいというのです。そうでしょう? 「はい。」

 

皆さんが、これをはっきり知ってこれから周囲で怨讐たちが堅固に取り囲んで、皆さんの命を狙う釣り餌を投げておいて釣りざおを引き寄せても、今まで話した不平不満、半信半疑の要件を通してすべて引っ掛けようとすることを知って、そこに引っ掛かることがないように注意することを願います。

 

皆さんが闘って勝利して帰ってくれば神様が喜ばれ、この国この民族と世界万民が皆さんの前にひざまずいて千歳万歳賛美と尊い栄光を皆さんに返すようになるのです。この道が尊い民になり尊い国と世界の主人となる道なので皆さんにこのようなみ言を語るのです。皆さんはこれをよく知って、今そのように生きる者にならなければなりません。わかりましたね? 「はい。」

 

(1971.5.4.信仰者の注意点)

 

 

絶対に他人を批判してはならない

 

どんなに富者の家だとしても、息子が3人いて、その嫁が全部、ピリピリすれば、その家は終わってしまうのです。その家は滅びるのです。このように滅びる世界において、我々は3人が一つにならなければならないのです。我々が伝統を受け継がなければならないのです。そのため、自分のために生きるのではなく、他人のために生きなければならないのです。そのようになるのです。

 

善なる人はこのように生きる人です。そのような事実を知らねばなりません。堕落した世の中では、自分のために生きます。全部、このように反対なのです。変わらなければなりません。他人のために生きながら、変わらないことが大切なのです。それが家庭の行く道です。皆さん、大体わかるでしょう?

 

皆さんがそのような心を持って、精誠を尽くしたにもかかわらず、ご飯に飢えるようになるならば、先生の首を打てというのです。皆さんが精誠を尽くしても、ご飯に飢えるようになれば、その村が雷で打たれるのです。そのようになれば、村が滅びるので、その村の人たちに先祖が現れて、ご飯を持っていってあげなさいと命令するのです。わかりましたか?それで、先生はご飯をたくさんもらって食べてみました。精誠を尽くせば、ご飯を持ってきてくれるのです。

 

神様のために生きる人は飢えて死にません。飢えて死ぬように思うけれど、どのようになっても飢えることはないのです。だから、心配するなというのです。風呂敷を持って出て行ったならば、飢えても、“私が死ぬようになれば死ぬのであり、一週間断食をして蕩減することによって、この村を復活させて神様の愛が訪ねてくるようにするために、そうするのだ!”と言って、有り難く感謝する心で、この次には大きな福が来るだろうという願いを持って、出て行きなさいというのです。そうすれば、絶対滅びません。

 

個人は個人の蕩減路程を歩まなければなりません。地域長、地区長だといって、全部良いのではありません。彼らの先祖たちは千層、万層だというのです。先祖が善なる人たちは、出かけて伝道しても蕩減を受けないで、事がうまくいくのです。待遇を受けて暮らすというのです。しかし先祖が悪なる人たちは自分一代に蕩減すべきことがあるので、待遇を受けようとすれば滅びるのです、その人が村にいけば、むしろ村の人が散らばって出ていくのです。そのようになれば、夜を明かしながら悔い改めの祈祷をしなければなりません。先祖の罪を考えながら、悔い改めをしなければならないし、自分がこの時代に責任を果たすことができない罪を悔い改めなければなりません。このように蕩減した後に道が開かれるのです。先祖の罪によって、蕩減を受けるべき圏内にいるにもかかわらず、“私は嫌だ!”と、不平不満を言えば、雷に打たれるのです。

 

それ故に、絶対に人に対して批判するな、というのです。自分自身が問題なのです。もし、自分が福を受けることのできる立場に立ったならば、“この国、この民族が私によって生き、この国、この民族が私によって解放される!”という聖なる心を持って、苦労していけば、その人は絶対に滅びないのです。国と民族は滅びてもその人は滅びないというのです。わかりましたか?

 

(1971.5.6.我々が行くべき道)

 

 

耐えることで終わるのでなく耐え忍べば

 

皆さんは、克服しなければなりません。克服しなければならないというのです。耐えることが、どれ程大変なことか?これを見てみなさいというのです。忍ぶ、忍という字は刀に心です。これはどのようにしなさいということですか?刃のような心を使いなさいということですか、使ってはいけないということですか?使ってはいけないのです。克服しなさい、耐えなさいというのです。

 

耐えることで終わるのではないのです。耐え忍ばなければなりません。忍ということは、耐えることが起こる前より劣るようになったということですか、勝るようになったということですか?耐えることが起こる前より勝るようになったというのです。克服したということも、耐えることが起こる前より劣ったというのではありません。勝るようになったというのです。はっきり勝るようになったと言えなければなりません。そうすれば、天がその基盤を中心にして第2の忍耐の道を尋ねていくのです。克服が昔よりできなければ、天が第2の忍耐の道上に行きなさいと命令さえしないというのです。克服する場所でぶつかったことよりも内心に、より勝ることのできる天的な内容が決定されてのみ、もう一度上がっていくのです。

今まで、耐え忍んできたことは練習です。これから実戦道上に行くのです。ここで、また勝って克服するようになる時は、それも練習になるのです。勝ったと言って踊りを踊るなというのです。練習だと思いなさいというのです。またもう一度、第3の実戦路程を行かなければなりません。第4次民族復帰、第5次国家復帰、第6次世界復帰、第7次天宙復帰、第8次神復帰まで解放しなければならないというのです。そうでなければ、孝子になれないのです。そのようにしようとすれば、どれほど克服しなければならないか!

 

神様は奥部屋のお爺さんとなり、先生は奥の間(中心の部屋)の息子にならなければなりません。このようなことをしなければならないのです。私が統一教会の指導者たちを殴って逆さに首をつかんで、一度打ち付けたいのです。行かない時、それではどうなりますか?先生がそのように打ち付ければ、折れない人はありません。神様は私について試験を最も多くされました。文某は強いというのです。強く、へこたれないというのです。私の目を見てみなさい。私の目を見れば、うすぼんやりしていません。へこたれません。私が何かを一度つかむ日には、手首が抜けても放さないのです。絶対、放しません。後退する性格ではありません。それをする前には、夜寝ることができない人です。

 

(1971.5.23.忍耐と克服)

 

 

374_不平不満を言ってはならない理由

 

7年路程はだれもが行かなければならないのです。この過程においては、何といっても神様が7000年歴史を復帰するために1次アダム、2次アダム、3次アダムを立てましたが、子息と僕が主人を強く打つようなことがおこりました。今までは、子息と僕がお互い合わせて主人を打ったのです。しかし、復帰時代に入ると僕は打つことができますが、子息は打つことができないのです。僕はサタンの立場なので打ちますが、万一子息たちをそこに一緒に打ったならばひっかかるようになります。ところで、このようなことが4月に統一教会でおこったのです。それ故に、この事件は統一教会歴史に後々まで残るのです。したがってこの事件は、はっきりさせて記憶して越えていかなければならないことを知らなければなりません。

 

今までの復帰摂理は、天使長と息子娘が皆すべて反対した歴史でした。それで失敗したのです。しかし、今日において、サタンは反対できますが、人間は反対してはいけません。反対すれば復帰ができますか?皆さんが先生に対して、ああだこうだと批評するようになれば、すべてが引っかかるようになります。そのような人たちは、先生が解いてあげなければ絶対行くことができません。先生でなければ解く者がないのです。これをはっきり知らなければなりません。

 

それ故に、国家復帰基準に到達するときまでは異議があってはいけません。なおかつ、女たちは絶対的に服従しなければなりません。万一、口を開いてああだこうだと言えば、すべて引っかかるようになるのです。原理がそのようになっています。このすべての事実は、先生の言葉ではありません。原理がそのようになっているのです。

 

先生も今まで、神様に対して不平を一言もいわず、み旨の道を歩いてきました。無実の罪で牢獄に入っていって、ならず者たちに殴られ血を吐く場所でも“神様、なぜこうなのですか?”と恨みを言いませんでした。僕たちが億千万代ひどく反対したとしても、息子だけは彼らの側になってはならないのです。反対するサタンがいることをわかっていながら、どのように神様を反対できますか?そうではありませんか?死んだとしても、父の側で死ななければなりません。どのような難しいことも耐え忍んでくれば、父の前に言いたい事がたくさんあるというのです。けれど、言わないことが偉大なのです。

 

先生が神様に、言いたいことがないのではありません。神様を批評すれば、“神様が文先生を愛しているってなにを愛しているのか。神様が私を愛しているとは思えない。最も愛を受ける場所に行くようになれば首を縛って・・・。これは何だ?それがどうして愛なのか”このように言うこともできます。蕩減時代には、神様は先生の側ではありません。逆にサタン側になって、先生を試験してみようとします。それは何故そうなのか?先生が蕩減するようになれば、それをサタンに誇ろうとそのようにするのです。そうして、サタンに衝動を与えて先生がすることを妨害しろというのです。これは、先生がすることを妨害するためのものではなく、サタン世界のすべてのものを奪ってくるためです。いいかえれば、そこで先生が克服すれば“文先生が、おまえより勝っているので、私のものを出しなさい”と、サタンの前に提示することができる条件を立てるためなのです。

 

このような事実をおいてみるとき、先生も皆さんにうんざりするほど苦労をさせようと思います。そして誓いを立てて、死のうと生きようと行くという人に、今まで私が会うことができませんでした。個人的に先生を訪ねてきて、涙を流して“このような死の場所に同参したいので、私を送ってください”という人に今まで会うことができませんでした。私たちは体系的な内容をもって会いましたが、皆さん自身が自ら進んで、“み旨のためならば、鷲の餌になったとしても有り難く行きます”という誓いをしなければなりません。復帰の道がこのようであることを、皆さんは知らなければなりません。

 

(1971.5.24.万物の日と復帰の過程)

 

 

誰も信じることができないことを信じれば信仰の深度において一人前

 

神様が信じることができることを信じることができない人が、神様が願われる念願の世界をどのように成し遂げることができますか?神様が信じることができないことまで、信じることができる信仰を持たなければなりません。“神様が抱くことのできない欲望まで持たなければならない。神様、お休みになって下さい。私がします。”という心を持って出ていかなければなりません。だからといって神様が“軽挙妄動するな。えい、不忠な奴め”と言われますか?“神様の為ならば死んでも私がやります”といって出ていく挺子にならなければなりません。

 

万一、挺子を握っていらっしゃる神様は、能力が大きい神様ならば、挺子になるという一つの決心が神様よりもっと強い立場に立てば神様は“そうか、一度やってみよう”とおっしゃるのです。皆さんは、そのような決心をしなければなりません。皆さん、海をガラスのかたまりでできている海だと考えてみて下さい。このガラスのかたまりの海を、一度に動かすことのできるそのような遊びをしようと思えば、一番底にあるその深い水面をひったくれば海はころころと転がっていくのです。そのようにしようとすれば、どのようにしなければならないか?深いところを探していかなければなりません。信仰の道も同じで、深いところを探していかなければなりません。信仰という言葉は、信じて仰ぐことです。仰ぎ見ながら信じることです。

 

このように見るとき、信仰は何を中心にしてするのか?み言を中心にしてするのです。信仰をするためにはまずみ言が必要です。み言を信じなければならないというのです。それでは、み言とはなにか?神様と人間の間の契約です。皆さんたちがこのようにすれば、このようにしてあげるという契約です。聖書で教えていることは何かというと、全部すべて契約です。このようにすれば、このようにしてあげようという契約なのです。契約通り履行(実際にふみ行なうこと)すれば天は興るようにされ、契約通り履行しなければ天は滅びるようにするのです。したがって、聖書に記録された契約通り全部すべて実践しなければならないのです。

 

ところが、聖書に契約されたその内容がだれでもいつもできることであれば、信仰という言葉は必要ないのです。信仰というのは、私と直接的な関係ができているのではありません。相対的関係から因縁にしたがっていく道において必要なのです。私と一つになったのに、どんな信仰が必要ですか?住めばいいだろう。信仰が必要だということは関係が結ばれていないということです。それでは、何を中心にして関係を結ばなければならないか?み言を中心にして関係を結ばなければなりません。統一教会の信仰をする、統一教会を信じるということは統一教会のみ言にしたがっていくというのです。統一教会のみ言と一つになったということです。“良く信じる”という言葉は、一生懸命信じるということです。“一生懸命信じる!”という言葉は、統一教会の教理通りしているということです。それでは、統一教会で現在これ位の信仰をしてこれ位の環境を作ったとすれば、もっと大きい環境を作るためにはもっと大きな信仰をしなければならないのです。さて、それでは統一教会のみ言を中心にして信じていくときにおいて、どれ位信じるのか?これは信じて、あれは信じないといってはいけません。信じることにおいては、完全に信じなさいというのです。信じておいて、“アイゴー、私はできた!”といってはいけません。信じることにおいては、飢えた信仰を持てというのです。

何のことかわかりますか?“これだけ持っていてもいけない、もっと何かないだろうかと、いわなければなりません。“これを食べれば食もたれして下痢なって死にそうだ・・・”というのではなく、“これを食べても腹がへっている、もっと食べるものがないか”といって口を開けるそのような人にならなければなりません。信じられない言葉があってはなりません。“それくらいでは下痢にならない。腹が痛くない。それより、何百倍になる言葉をたっぷりつまんで飲み込んでも、平気で消化することができる”という信仰人にならなければなりません。今だに、頭を下げてなにがどうだこうだといってなじる人は遠いというのです。

 

神様に“信じられないことは何がありますか?私に一度命令してください”といってなんでも信じるというならば、神様が“えい、この奴め、こいつはどうしようもない奴だ”そのように言われますか?“私が、信じることができないことがどこにあるのか?”といいながらないと言っても“けれど、あるのではありませんか?”といいながら神様の胸倉をつかんで、しがみつく人がいたならば神様はその人を嫌がられますか?“こいつめ、軽はずみで不敬な奴だ”と言われますか?事実このような人がいたならば神様が得意になられますか、得意になられませんか?そのような人を不孝者だといわれますか、滅びる奴だと言われますか?そのような人がいないので、神様が心配されるのではないかというのです。

 

聖書にも、見て下さい。“わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは、今はそれに堪えられない(ヨハネ16:12)”という句節があります。“私の重苦しさはどれ程大きいか”といってイエス様が嘆息を多くしました。“この世の中のことを言っても信じられないのに、天のことを言えばどのように信じるのか”ともいいました。不信する人たちに対して嘆息する言葉がいつでもあったのです。皆さんは、神様のために統一教会を信じるのにおいてどれ程信じますか?統一教会の文先生を信じられないことは何があるのか、それも消化することができるといえなければなりません。どんなことでも消化して、栄養素として摂取して肉になればいいというのです。蛇を捕まえて食べたといってすべて死ぬのではありません。毒蛇の毒を食べたといって死ぬのではありません。食べて消化させれば薬になるのです。なのに、信じることができないことは何があるのかというのです。このようなことを、一度研究してみましたか?私にこれが必要で、これは必要ないので捨てるということができますか?

 

皆さん、誰にも腹の中には内臓があります。そして、内臓には肥料が入っています。ところで、内臓の中に入っている肥料は私には必要ないので取ってしまって内臓のある部分は切ってしまって、私が必要なものだけ持っているということができますか?すべてが必要なのです。そこには、便まで入っているのです。(笑い) つまらない信仰を持つなというのです、つまらない信仰。

 

現在、統一教会の前に現れたことも料理できないのに、これからいく統一教会を創造していくことができますか?そのようにはできないのです。故に、信じられないことはないと言えなければならないのです。“統一教会の真理の中に信じられないことはない。これ位のことはなんでもない。これを持って統一教会の信仰が世界的だと言うことができるのか?”皆さんはこのように一度言ってみましたか?

 

先生の主義がそうです。信じることができないことまで探し通いながら信じると言うことが統一教会の文先生の主義です。それ故に、私が20代に韓国の立派だという牧師たちに皆会ってみました。そして、あなたが信じることができないことは何なのか尋ねてみました。聞いてみると、つまらないことなのです。私がすべて比較鑑定したのです。その位で何なのか・・・。信じると思わなくても信じられれば大きな信仰です。

 

それで、私が精誠を捧げるときにおいては絶えることのない精誠を捧げるというのです。絶えることのない精誠は・・・。国も一度に全部つかんで精誠を捧げなければならないのです。国に祭物にして精誠を捧げることができれば、そこにはお母さんもお父さんもすべて入るのです。妻子もすべて入るというのです。私一人残って、息子娘全部を祭物として捧げることのできるそのような場所に入っていかなければならないのです。それ故に、信仰の深度において誰も従うことができません・・・。

 

(1971.5.30信仰者の深度)

 

 

379_神様を絶対的に信じた歴史的先祖たち

 

ここに婦人達が来ていますが、万一みなさんが毎日のように、120年の間、方舟をつくる為に出かけていくノアの妻になったとするなら、応援するでしょうか?アメリカの国民2億人の中で、半分が女性ですが、1億近い女性の中で120年の間そのように狂ったような行動をとるノアを、夫として受け入れ、忠誠を尽くして侍ることができる人は、おそらく見つけだすのが困難だと思います。

 

考えてみて下さい。ノアの奥さんは不平を言ったでしょうか?言わなかったでしょうか?不平を言ったというのです。一度不平を言い出したら、えんえんと反対したと言うのです。えんえんと分かれてしまったというのです。村の人々は“あの気ちがいノアじいさん、120年後に神様が審判するのだって?”といいながら気ちがいあつかいをしていたというのです。それゆえ、彼の息子、娘も反対せずにはいられなかったということを皆さんは知らねばなりません。行かねばならない道を知り、その道を行こうとするのに、愛する妻と、子供が反対し、道をさえぎろうとするならば、どれほど途方にくれるでしょうか?

 

不信したアダムの後孫として生まれた人間は、神様を絶対的に信じるという基準を立て、神様と絶対的に一つになったという基準を立てた位置で神様の愛を受けずしては、神様へ帰っていくことはできないので、神様はそのような、反対のことをせざるを得ないのです。このような無念な事実を我々は知らなかったというのです。

 

それでは、反対をさせるものは、何故にでしょうか?サタン世界から早く隔離させる為です。反対が悪いものではなく、絶対的な反対を受ければ、絶対的な位置に立つことができるからなのです。

 

皆さん、聖書を見るとノアの息子、娘がノアに対し、不信をしたということを知ることができます。ノアが方舟から降り、ぶどう酒を飲んで酔い、裸で寝ているのを彼の息子達が見て、恥ずかしく思い、後ろ歩きで服をかけました。それが罪になり、40日の洪水審判を経た、ノアの偉業はこわれてしまいました。そこに一つになれなかった家庭的な雰囲気を垣間見ることができるのです。

 

40日間の洪水審判を見たならば、自分の父の命令がどれほど立派で、自分の父の信仰がどれほど立派であるのかを知り、父が死ねと言えば死に、また父がどのような行動をしたとしても、天のごとく侍らねばならないのにもかかわらず、習慣性でもって、父を批判し、僕の僕になってしまった無念な歴史が、くりひろげられるようになったのです。次にアブラハムを見てみましょう。アブラハムは、偶像商の息子です。何不自由なく生活していたアブラハムに神様は“おい、アブラハムよ。家から出なさい!”と命令されました。すると、アブラハムは何も言わず、どこに行けば安定した生活ができるという保証もないまま、自分が住んでいた故郷である、カルデヤ・ウルを全て捨てて、旅立ったというのです。それで何になったのかというと、国境を越えるジプシーになったのです。

 

神様が出なさいと言えば、出るのです。出た後には、いくら困難なことがあったとしても、出てきたことを後悔したり、神様を恨んだりしてはいけないのです。恨んでしまえば、また再び、堕落したアダムと同じ立場に戻ってしまうのです。

 

アブラハムは、アダムよりも、もっと絶対的に神様を信じねばなりません。そうして、神様と一つにならなくてはなりません。そうしてこそ、神様の愛を受けることができるようになるのです。アブラハムは神様がいくら引っ張りまわそうとも、恨むことなく、感謝の心で行ったので、神様も彼を愛されて、彼に“おまえの後孫は、天の星のように、地の砂粒のように生み増えるであろう”と祝福して下さったのです。

 

またヤコブを見て下さい、神様の祝福を貴く考え、その祝福を受けるため、人間の世界では考えられないようなことをしたのです。神様の約束を絶対的に信じ、ハランの地に逃げて、持てる精誠を全て尽くし、多くの困難を克服しながら21年間闘ったのです。いくら反対を受けてもそれを克服し、神様と一つになる愛の場へ、行かねばならないということを皆さんは知らねばなりません。

 

モーセも同じです。彼は神様のみ言を聞き、死の境地に行くとしても神様を信じ、旅立ったのです。世の中に対する未練や、かつて自分が華やかに暮らしていた生活をなつかしがったりせず、ミデヤン荒野生活40年の間、ただ神様の命令と、神様のみ言を中心に神様の愛を受けることができる立場を選び、イスラエル民族を救うことになったのです。

皆さん、また洗礼ヨハネを見なさい。彼も自分の愛する家を離れ、荒野生活をしました。自分が愛する家庭、世の中の因縁を切りはなし、神様のみ旨を絶対視して、神様と一つになる道を行ったのです。神様が全ての面において、アダム、エバよりも、もっと立派で、神様を信じることができなかった天使長以上に、神様に忠誠を尽くすことができる基準を認められ得る生活をするように追いたてたのです。

 

聖書を見ると、洗礼ヨハネはイナゴと蜜を食べて生きていたとあります。皆さんがイスラエルの国に行ってみればわかると思いますが、そこは蜜がたくさんあるという所ではありません。いつでもイナゴをつかまえて食べることができる所でもないのです。洗礼ヨハネは30年の間生活しながら、食べるものがなければ、部落へ行って物乞いもしたことでしょう。それで、村のあちらこちらで気ちがいだという噂が流れ、彼が道を歩けば、子供達がついてきて、ありとあらゆる悪口を言ったというのです。しかし彼は神様のみ言を絶対的に信じて、神様と一つになり、神様の愛を受けることができる位置に立ったのです。

 

このように神様は、歴史時代に神様のみ旨に従ってきた先祖達を、まっとうな道で導くことができなかったということを皆さんは知らねばなりません。それは、アダムとエバが神様のみ言を信じることができず、堕落したために、神様のみ言を絶対的に信じることができる立場に立たねばならず、神様と一つになる立場に立つことができなかったゆえに、神様と一つになる立場に立たねばならず、神様の愛を受ける立場に立つことができなかったゆえに、神様の愛を受けることができる立場に立たねばならなかったためなのです。そのために、多くの受難を味わわせたというのです。

 

(1972.2.6.神様の公式摂理と新しいメシヤ)

 

 

381_絶対的信仰を通して復帰摂理をなさる神様

 

それで、神様はここからサタン世界にいる人を呼ばれたというのです。アダム家庭においてはアベルを通して精誠を尽くし、祭物を捧げさせて、サタン世界から分立するための役事をしました。アベルは、死んだとしても神様にしがみついて死にました。絶対に信じ、サタン世界から分立されることにより、神様の愛を受けることができる立場に立たねばならないというのです。犠牲の立場に立ち、神様のみ旨を中心として、アベルは行くようになっていたというのです。そうして、アベルのかわりにセツを立てました。セツの後孫の中からノアが生まれました。

 

神様はノアに120年後に、洪水審判をするゆえ、舟をつくれと命令されました。そして舟を河辺につくれとは言わずに、何千メートルにもなる高いアララテ山の頂上につくれと言いました。信じることができない先祖を持って、滅びたので、絶対的に信じる信仰者を神様は要求するというのです。そして、サタン世界から飛び出さなくてはならないのです。サタン世界と隔離しなければならないのです。そうなれば、サタンとは関係がないのではじめて、神様が愛することができるというのです。

 

ノアじいさんに対し、信じることができないような命令をしたのは、全ての人々が反対せよということなのです。世の中がすべて反対したとしても信じていくので、お前は全体よりもすぐれているという立場に立てようというのです。全体よりもすぐれまた立場に、反対するほど神様の前に近づくのです。

 

さあ、皆さん!120年の間ノアじいさんの世話をした夫人や息子、娘を一度考えてみなさいというのです。聖書を見るとノアの奥さんと息子、娘は実によかっただろうと考えるかもしれませんが、本当によかったのか一度考えてみましょう。さあ、皆さん、ノアじいさんの奥さんになり、息子、娘になったと考えてみましょう。120年の間ひたすらご飯を食べたらそのことだけをする父、あるいは夫をもったならば120年間世話をする人がいますか?10年ももちません。それは、そうすることができないというのです。一度反対しただけでも、よじれてしまうというのです。そんな立場に立ったノアじいさんが、自分の血肉を分けた、共に行き、共に従わねばならない家族が反対したならば、どれだけ途方にくれてしまうでしょうか?

 

皆さん40日の審判の後にノアが裸で寝ていた時、ハムが兄弟を扇動し、後ろ歩きで入っていって服をかけたことが禍恨になったことを私たちは知っています。それによってノアはハムに“お前は僕の僕になり兄弟に仕えるであろう!”と言いました。そうしてみると、120年の間苦労して審判の時に救いを受けた父を見て、その父がどんなことをしたとしても信じなければならないのに、父がおかしくなってしまったと、そのように行動したのをみると、舟をつくる過程で、どれ程反対したのかを私達は予測することができます。

 

またアブラハムを見てもそうです。偶像商テラの息子を奪ってきたのです。カルデヤ・ウルを出ろと言うときアブラハムが“私はいやです”と言えば全てがこじれてしまうのです。しかし、神様のみ言を絶対に信じ、自分の兄弟、親族達が止めていくら反対したとしても、これらをひきつれて行くのだという、自らの決心をせねばならないというのです。そして、家を出ました。国境を越え、これから先、行く道に何の保証もない立場で、国境を越えて行くジプシーの群れになったのです。いくら困難があっても、神様のみ言を絶対に信じ、サタン世界には再び帰らず、その困難を克服していく立場に立ったために、神様の愛を受けることができる立場に立つようになり“おまえの後孫は、天の星のように、海の砂のように栄えるだろう”という愛の祝福を受けるようになったのです。

 

モーセを見てもそうです、神様が願うみ旨のために、華やかなパロ宮中の40年の生活をかなぐり捨て、イスラエル民族を保護するため、決死の覚悟で立ち上がったのです。ミデヤン荒野40年の生活において、困難がぶつかって来ても一時も、神様に背くことをしなかったのです。

 

そして、洗礼ヨハネを見ても同じだと言うのです。神様のみ言を絶対に信じて、サタン世界から飛び出してきたのです。荒野生活をし、イナゴと蜜を食べたという聖書を見れば彼が何不自由ない生活をしたと考えるかもしれませんが、そうではないというのです。蜜が多くて、毎日食べるたしにもならなかったことでしょう。イナゴが、毎日のように食べるのに十分ではなかったのです。ゆえに、お腹がすけば通りへ行き、食べ物をめぐんでもらうのが常だったということを皆さんは知らねばなりません。しかし、自分の生活がいくら困難であっても、その中で、この世への未練をもっしたままいたのではなく、神様を中心として神様のみ言を絶対に信じ、神側に立って、神様のみ旨を受け入れるために希望をもって30余年の生涯を闘って来たのです。

 

それゆえに、洗礼ヨハネは、メシヤを生前に自分の目で直接見、証しすることのできる立場に立ったということを、私たちは知りました。メシヤに出会うことが願いであったため、メシヤが東に行けば東へ行き、西へ行けば西へ行き、いつでもメシヤと生死を共にして、行動しなければならないのが、洗礼ヨハネの使命だったのです。

 

(1972.2.13.新しいメシヤと公式的摂理)

 

 

信仰の道と絶対信仰

 

絶対信仰ということは何でしょうか?自分が信じている一つの宗教の指導者がいるならば、その指導者と私は、歴史的に数千年という遠い距離を置いているが、信じる心を中心としたなら、彼と平面的に対等な時代圏内に入り、生きることができるのです。それゆえ、絶対的に信じよというのです。絶対的に信じる時、その人と共にいるということを知るようになります。また、その人と共に生きているということを知るようになります。このようなことを新しく認識させ刺激させる為のものが信仰だということを知らなくてはなりません。

 

その宗教の指導者が神様の為に哀切に祈祷したという事情を、信じる人は知らなくてはなりません。しかし、その事情を知るという基準に留まってはいけません。その事情を知れば知るほど、より深い情的な因縁、あるいは、忠誠の因縁を結ばねばなりません。そうすれば、霊界にいっている人が必ず協助するようになっています。協助しなくてはならないのです。その宗教指導者が協助するようになっているのです。

 

それでは、協助するにおいて、誰を通して、協助させるのか?地上で生きている時、天の前に忠誠を尽くした立場で神様と因縁を結び、地上に真なる道理を残した人を通して協助させるのです。そうして、私がその指導者の内情を知った立場で、その人を代身し、その人と共に精誠を捧げる立場に立ったというならば、私は数千年の歴史も飛躍し、その人が神様に対していた立場に同席することが出来るようになるというのです。これが信仰の道であるということを私たちは知らなくてはなりません。それゆえに宗教を選択する時は、真なる宗教を選択しなければならないし、その真なる宗教の中で、真なる信仰者達が残した歴史的な因縁を知らなくてはなりません。

今日、キリスト教を中心としてみる時、もちろんクリスチャン達がイエス様と直接的な関係を結ぶことができる立場に入ればいいのですが、そうはならないというのです。イエス様と直接的な関係を結ぶことが出来る立場まで行くためには、必ず橋を架けなくてはなりません。神様と私たちの間、あるいはイエス様と私たちの間にある間を埋める為には、地上で苦労し、精神の土台を築いてきた人達に頼り、精誠をささげていくことが一番の早道です。

 

ゆえに、その道を求めて行く為には、キリスト教ならばキリスト教を中心とし、長い歴史を過ごす過程で、忠誠を尽くした昔の聖賢たちやあるいは指導者たちが私を代身して、その道を行ったという立場で祈祷しなくてはなりません。そうなれば彼らが、私の行く道を協助するようになっています。それは、なぜそうなのか?蕩減復帰の原則において、彼らも完成の世界を見ることができなかったがゆえに、修行の道、すなわち自分たちが行った道に従ってくる後孫達を導いてあげねばならない因縁が残っているためです。それゆえ、そのような立場で祈祷し、精誠を尽くすようになれば、霊界にいる宗教指導者や、悟りを開いた指導者が必ず地上にいる人々に連絡をするというのです。皆さんは、それを知らねばなりません。

 

(1970.7.12.天が探してきた道)

 

 

384悪主権から抜け出すなら信じられない立場で絶対的に信じてこそできる

 

それでは、神様が管理することができる世界的なオリーブの木の畑のような、昔のイスラエルのような国が、この地上に今ありますか?ありません。イギリスも違うし、アメリカも違います。そのような畑がないというのです。ゆえに、キリスト教国家だと自負する国の中で、教会と主権が一つになり、昔メシヤがイスラエルに訪ねてきたように、新しいメシヤが来れば、彼を迎えて、主権と教会をそっくりと捧げ、神様が主管することができる、サタン世界のどんな主権よりも強く、一つになった姿で、神の前に捧げられるそのような国が、この世に現れなければならないというのです。

 

その国がサタンの国よりも優勢でなければ、メシヤが来ることはできません。しかし、民主世界がキリスト教と合わさって、共産世界よりも優勢であれば、主が来られるというのです。ゆえに、全世界のクリスチャン達は団結して新しい国をつくらなくてはなりません。失われた、神様が主管することのできるオリーブの木の畑のような、第1イスラエルの国を、第2イスラエルの国であるキリスト教を通して探し出そうとしましたが、第2イスラエルにそのような土台が無かったがゆえに、世界的に信仰の篤い人を選んで、第3イスラエルの使命を果たすことができる国の形態をつくらねばなりません。そうするまでは、主に侍ることができないということを皆さんは知らねばなりません。

 

ヤコブが神様の前で、天使に勝った勝利権が全て壊れてしまったので、再び神様の前で勝利し、個人から家庭、氏族、民族、国家を形成して、神様の前に立つという運動が、この地上に展開されねばならないというのです。私たち統一教会にも、このような路程を備えなくてはならない使命があるゆえに、このような隊列を準備しようと教育しているというのです。

 

この新しい教会が行くのにおいて、どんぶり勘定で行くことはできません。ある原則に従わなければならないというのです。それは、アダム・エバが堕落するようになったとき、神様を信じなかったために、体がサタンに引っ張られていき、次にはサタンの愛を受けたというのです。それゆえに、絶対的な信仰を持たねばならず、サタン世界から完全に解放されねばならず、したがって神様の愛をうけようとすれば、この原則に従わねばならないというのです。

 

そのようにしようとすれば、信じることができる立場で信じるのではなく、信じることができない立場で信じねばなりません。結局、絶対的な信仰を持ってサタン世界の悪主権から抜け出さねばならないというのです。悪主権から抜け出してこそ、初めて神様の愛を受けることができるのです。これが公式だというのです。アベルの時からそのような役事をしてきました。神様を絶対的に信じる信仰基準を立て、神側の分別された立場に立たねばならず、そうすることで神様の愛を受けることができるということをアベルから行なったというのです。

 

皆さん、聖書を見れば、神様はノアに120年後に審判をするゆえに舟をつくれと言いました。舟をつくるのに、どこに作れといったかといえば山の頂上に作れと言ったのです。皆さんはこれを信じるでしょうか?舟をつくろうとすれば、河岸につくらねばならないのに、反対に命令されたのです。不信した先祖の後孫の中で絶対的な信仰をもって出てくる人がいなくては天に帰ることができないというのです。

 

どれ程、迫害と、どれ程、苦痛を受けたのかを皆さん考えてみて下さい。外部の人や親族や国が反対するならまだしも、自分の奥さん、自分の血肉である息子、娘まで反対する立場でも、一生涯かけてその仕事をしたというのです。正に気がふれた人だというのです。しかし、ただひとつ神様が願ったことは絶対的な信仰です。国が反対しても、天地が反対し、息子が反対し、夫人が反対し、誰が反対しても変わらない信仰をもった人を選び出さねば、人間を訪ねることができないがゆえに、神様はそのように非法的で逆理的な命令をせざるを得なかったということを皆さんは知らねばなりません。

 

アブラハムも同じです。テラの息子として生まれ、何不自由なく暮らし、楽しく暮らしているところに、神様が命令され、“アブラハムよ、おまえの家を捨て、異郷の地での生活の旅に出よ”と言ったのです。そこでアブラハムが“神様、私はここで私の家で暮らす方がいいです!”と言ったならば、み旨も何も全てダメになるというのです。しかし、アブラハムは旅出ち、ジプシーの生活をして、国境を往来するそのような道もためらいませんでした。苦労をかえりみず、神様がこの道にせきたてるときにされた約束は、間違いなく成就されるだろうと信じる絶対的な信仰があったがゆえに、神様はアブラハムに祝福することができたし、愛することができたというのです。

 

また、100歳で生んだイサクをモリア山へ連れていき、祭物として捧げよなどと信じられるでしょうか?しかし、絶対的な信仰、息子よりも誰よりも神様をより愛するという絶対的な信仰を願った神様の原則的な内容があるために、そのような命令をされた神様はどれほど胸がしめつけられ、苦痛を感じられたでしょうか?万一、それが失敗する日には、歴史的な苦痛が水泡に帰してしまうため、心がしめつけられながらも、サタンが公認することのできる最後の時まで、このことをせねばならないのが神様の事情だということを皆さんは知らねばなりません。モーセもパロ宮中の華やかな生活舞台を全て放棄して、自分の民族のため、イスラエル民族側に立って、孤独な生活を求めながら神様を信じ、立ち上がったというのです。

 

洗礼ヨハネも同じです。洗礼ヨハネは神様がイスラエル民族を祝福し、イスラエル民族の前にメシヤを送ってくださるという絶対的な信仰をもって、どんな困難も克服し、精誠を捧げるために、自分の家を飛び出し荒野でイナゴと蜜を食べながら暮らしたというのです。皆さんは、洗礼ヨハネがイナゴと蜜を食べたというから、何自由なく立派に暮らしていたと思うでしょう。イスラエルの国に行ってみなさいというのです。イナゴや蜜がそれ程豊富なものではないのです。ゆえにお腹がすいたときには、めぐんでもらって食べるのが常でした。ですから、自分のお母さん、兄弟、親族が歓迎したでしょうか?村を歩けば犬が吠えかかり、子供達が後ろからついてきて後ろ指をさしたというのです。

 

イエス様も同じでした。絶対的な信仰をもたねばならないというのです。第一に絶対的な信仰をもたねばならないということです。その次は、サタン世界から完全に分別された立場に立たねばならないということです。そうして、神様の愛を受けてこそ、原罪を脱いだという立場に立つというのです。歴史的な摂理を通して、天がそのようにオリーブの木の畑を準備しましたが、これを失ってしまったため、この公式は、今日、私たちにも間違いなく適用されるということを知らねばなりません。

 

(1972.3.22.新しいメシヤと公式的歴史摂理)

絶対的な信仰で生命を捧げて愛の道を行ってこそ神様が共にいて下さる

 

この3つの問題がサタン側であるか、神側であるかということを決定づける要点になります。それで過去には盲目的な信仰をしました。絶対的に信じよ、信じよと盲目的な信仰も強要したというのです。わからないがゆえに。それで自分を犠牲にし、自分をなくしてしまえ、生命を捧げよというのです。 「神様のために私の生命をいつでも捧げることができる。神様を父として絶対に信じる。」 そうなればいいというのです。皆さんはそうなっていますか? 「はい。」 そういう人たちならば、間違いなく神側だというのです。皆さんは神側であるために、神側の司令官から命令が来て、皆さんはその指示を受けることができる立場に入るのです。間違いなく入るというのです。

 

皆さん、神様の命令を聞いたことがありますか? 「はい。」 そしたら、もういいというのです。それゆえに、宗教は首をかけて信じるものだというのです。どこに首をかけますか?サタン側の個人に対しても、死を覚悟して信じていく覚悟をせねばなりません。国に対しても、世界に対しても、どのようなサタン側に対しても屈することなく・・・。

 

クリスチャンは、ローマ帝国の迫害400年の期間にライオンの餌になりながらも、力強く突き進みましたか、進みませんでしたか?どうだったでしょうか? 「力強く突き進みました。」 国がいくら反対しても、国にしがみつき、乗り越えたというのです。キリスト教は滅びませんでした。ローマを屈服させました。ローマを屈服させたというのです。サタン側に対して強かったのです。皆さんもそうですか? 「はい。」 それならばいいというのです。

 

今、決定を下せば、絶対的な信仰をもって、絶対的に犠牲になり、命を捧げるという人は全部神様が共にいてくださるというのです。ゆえに、殉教せよ、殉教の栄光を持ちなさいというのです。皆さん、そのように考えてみましたか? 「はい。」 そのような決心をすれば、死なないというのです。死にません。そのような人が一人しかいなくて彼を殺してしまってはダメなので、神様が皆、生かしてくださるのです。さあ、もう分かったと思います。天の側、サタン側がわかりましたか、わかりませんか? 「わかりました。」 統一教会のために自分を犠牲にしなければなりませんか、しなくてもいいですか?そのことを理論的に整理しなくてはいけません。その次に死の覚悟をしなくてはならないというのです。

 

私が神様を信じるのにおいて、疑ったりしたらどうなるでしょうか?私が私自身のためだけを考えていたならばどうなるかというのです。み旨のために私の生命を覚悟する、そのような立場に立たずしては統一教会の発展をもたらすことができないというのです。同じことなのです。この原則を知らねばなりません。最初に何ですか? 「絶対的な信仰。」 その次は? 「自身を捧げなければなりません。」 その次は? 「愛のための道を行かねばなりません。」 それは生命力に関する内容です。神様を愛するにおいて生命を捧げることができなければなりません。そのような立場に立った人は、いつでも神様が共にいて下さいます。いつでも神様が保護して下さるのです。

 

しかし、7年間は、訓練期間があるというのです。約7年をみなければいけないというのです。信じることができないですって、7000年の歴史を蕩減するために7数に該当する7年を訓練しなくてはなりません。

 

さあ、それでは皆さん、サタン側に立ちますか、神側に立ちますか? 「神側です。」 では、わかりました。それでこの、(板書されながらみ言を語られる)一線がいつでも直線にならねばならないのです。これらが、このようになっているのです。このようなものは、全部直線になるのです。直線はこちら側になっています。どうですか?皆さんは直線ですか、ジグザグな線ですか? 「直線です。」 違います!皆さんは今、直線に立っていません。今は直線ですか?今それらは何ですか?今はこれでしょう。これ、この位置に立っているというのです。

 

誰かが“ああだこうだ!”と言うようになれば“そうか?”と言いながら“ああだ、こうだ!”と言うというのです。“お前がオールドミスになってもまだ、統一教会でそんなことをしているのか?そうすれば何かいいことがあるのか?”といえば、“それもそうだ。私だけが、滅びた。そうだ、そうだ!”そうではないですか?それが恥ずかしくて・・・。統一教会で死ねば何かいいことがありますか?何もないというのです。そういう考えが多いじゃないですか?それはだめです。それと同じく一線がどのようになっているのか?私が一線です。私が、私が一線だというのです。半分がこれ、神側へ、サタン側へいったりきたりしているというのです。何のことかわかりますか? 「はい」

 

(1975.7.27.善悪の一線)

 

 

絶対的な信念を持った新婦を訪ねて来られる再臨主

 

それでは、その息子が来るのに、何のために来るのか?相対を訪ねてくるのです。新婦を訪ねてくるのです。新婦を訪ねて来るのにおいて、どのような観念を持っているのか?絶対的な新婦を訪ねてくるのです、何か信じたり、信じなかったりと自分の主張を前に出し“あなた、何ですか?私の願う通り・・・”このような新婦ではありません。相対的な立場で主体が必要とする、相対的基準を中心として、主体と絶対的に一つになることができる立場に立った新婦を訪ねてくるのです。父に対する絶対的な認識を持って来られる主は何のために来られるのか?新婦を訪ねて来られるというのです。どのような新婦を訪ねて来られるのか?どうにかこうにか、ただ手段と方法を選んで適当にする新婦ではないのです。そのような新婦はいくらでもいるというのです。絶対的な新婦を訪ねて来られるのです。一度約束をすれば、死の道であろうと行く新婦、口先だけの新婦ではないというのです。決心した心を中心として行動するのにおいて、すれ違いがない、ただ一つの道しか知らない新婦を訪ねて来られるのです。そのような新郎として来て、新婦を探さなければならないのです。

 

父と息子がいて、その次に新婦がいるのです。(板書されながら説明される)この父子の情は断つことができません。何をもってしても断つことはできません。それでは、父と息子の新婦とはどうか?断つことができるのか?断つことができません。父と、この新婦との関係も断つことができません。このことはもちろんのこと・・・絶対的です。父もその息子をわかってあげ、息子の相対をわかってあげる絶対的な位置です。絶対的な位置だというのです。絶対視する位置なのです。ここから絶対圏の統一が展開されるのです。誰も、侵犯することができません。侵犯するものがなくなるのです。そのような基準があるべきではないでしょうか?

 

エデンの園のアダムとエバを見ても、神様に対してどのようにしたでしょうか?サタンが来て“おい、神様がお前達に、園の全ての木の果実を取って食べてはならないとおっしゃったのか?”とささやくので、“善悪の実を取って食べるなとおっしゃっていたよ”と言ったので、サタンが再び“善悪の実を取って食べるなと言ったのは、お前達がそれを取って食べると、目がひらけるためだ”とささやいた時、エバが興味を示して“あ、そうですか?”と言ったのです。それではだめだというのです。そのような可能性がある基準を持っていてはだめだというのです。そのような時エバが“あなた何を言っているの”と怒鳴りつけなければならなかったのです。許すことができないのです。反発、いつでも反発することができる、間違ったことにはいつでも反発することができる、そのように主体的な立場に立たねばならないアダム、エバだったにもかかわらず、ひそひそとささやいたというのです。これが全て問題を起こしたというのです。皆さん、統一教会の信仰はどのような信仰か?統一教会も同じだというのです。誰かが“お前、統一教会員だろう?”と言う時“そうだ、統一教会員だ”と言い、“そうだ、そういえば、統一教会に行けば何かこのようないかがわしい話が多く、裸で踊りを踊り、ああだこうだと言われているけど、それでも信じるのか?”と言って、いくら説明しても、そのようないかがわしい話は、気にもとめないようでなければいけないというのです。悪い事はひとつも無く、ただ良い事ばかりだと・・・絶対的でなければなりません。このような人達が集まっているならば、大きな問題が展開するのです。ここにいる人たちだけでもそのようになれば、大きな問題が展開するのです。

 

皆さん、考えてみなさいというのです。頭を一度さっと拡大して、大韓民国くらい広げて眺めて見て下さい。皆さんの心がどれほどふらふらしているかを・・・あっちへ行ったりこっちへ来たり、どれだけ忙しいでしょうか?誰がどうしたのこうしたのと・・・考えてみなさいというのです。私がどこに立っているか?そのように考えてみよと言うのです。くもの巣のような所に包囲されたような気分なのに、そこでただ休む間もなくあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしているというのです。“私の位置がどこか?”という時も同じだというのです。皆さんの位置がどこですか?絶対的な位置を持っていますか?誰かが強く“統一教会を信じるのか?”と言い、脅迫をすれば“うー”と言って力が抜けてしまって“何も、私が信じようと思って信じていたのではなく、そうこうするうちに信じるようになっていたのです”そうなってはだめなのです。絶対的な信念が必要だというのです。父と息子の間は断つことができません。断つことができますか?断ち得ても良いでしょうか、断ち得てはならないでしょうか? 「断ち得てはなりません」 また、息子とその妻の間も断つことができますか?また、父と嫁の間が断たれる日には、滅びるのです。家の中が崩壊するのです。ひとつだけでも断たれる日には崩壊するというのです。そのようになれば、絶対的な勝利圏は、天地に存在し得なくなるのです。その中の一つが壊れれば、全て崩壊するというのです。息子が4万人になっても崩壊し、嫁が4万人になっても崩壊するのです。

命令に絶対服従すれば、天が役事して下さる

 

皆さんは、寝て、楽に休んでも、統一教会の文先生は夜も休まず、寝ずに、ずっと仕事をしています。このように休まない限り、統一教会は発展するというのです。皆さんが、荷物をまとめて出ていき、統一教会の文先生を殴り殺せと扇動し、デモをしたとしても、先生が苦労したものがあるために、世界は先生に反対せず、歓迎するようになっています。わかりましたか?先生は滅びません。大韓民国がいくら反対し、既成教会が数十年の間、ありとあらゆる反対を続けたとしても決して滅びません。

 

葉っぱは一つも見えませんが、根はずっと深くのびているのです。そのうち春になれば、一気に葉が出てくるというのです。大きな木は、育つだけ育てば死ぬのです。そうでしょう?しかし、統一教会は根が深くはっているため、誰も引き抜くことができません。それは、先生自身も引き抜くことができません。また、神様も引き抜けないというのです。カイン側の人達が引き抜こうと私たちを引っ張っていますが、そのような者達が引き抜くことができるでしょうか?無限大にのびている根の中を探ってみるとアダム・エバを超え、神様の心情圏までのびていて、神様までも転ぶようになっています。それゆえ、根が最も深い所は統一教会です。原理を聞くようになれば、根が深い所は統一教会であるということを知るようになります。それでは、粘り強いものはどういうものかというとき、粘り強いのも統一教会です。先生は今、50歳になろうとしていますが、若い皆さんと、どのような賭けをしても負けません。

 

どのようなことがあっても、皆さんは、伝道しなくてはなりません。ここにいる劉協会長が“さあ皆さん、伝道して下さい”といえば“ああ、気分が悪い、自分は幹部だと思って、偉そうに・・・”といいながら気分を悪くするのです。協会長の言葉を聞いて、なぜ気分が悪いのですか?それは気分が悪いように考えるので悪いというのです。それではだめなのです。反対に“なぜ、伝道していないのですか?”といえば“私が動機となってやるべきであって、なぜ協会長が世話を焼くのですか?”このように言えるようでなければいけません。また“先生が今、40日路程だとおっしゃるので、伝道に出なければいけないでしょう。私が考えるに、先生がおっしゃる方法は、とてもいいと思います”と言えねばなりません。(笑い)だからといって、罪にはならないのです。そうして出発すればよいのです。

 

皆さんは7年路程を絶対的に行かねばなりません。イエス様は、3年路程を行く途中で失敗しました。この3年路程を歩き、7年路程を越えていけば、40代で越えるのです。そうではないですか?3年路程を歩むことで、第1次7年路程が33歳まで終わらなくてはなりません。ところが、イエス様は、それを越えられなかったのです。すなわち、第1次7年路程を越えることができなかったというのです。第1次7年路程を出発し、3年路程に引っかかったというのです。したがって、家庭復帰を成せませんでした。

 

しかし、私たち統一教会は、3年路程に全て家庭復帰を成しました。これからは世界的な復帰の役事をせねばなりません。このような統一教会に入ってきた皆さんは、高貴な自負心を持たねばなりません。天下に対して、立つようになる時、心のままに号令し、物事が一気に進む生活をすることができる統一教会です。どうですか?統一教会がいいですか、悪いですか? 「いいです。」

 

しかし、良い時を迎える時まで、峠があります。蕩減復帰をせずしては、その良いものを、良いものとして迎えることができません。ゆえに、皆さんが、知らねばならないことは何か?先生を中心として先生が命令すれば、絶対的に信じ、心情一致し、動かねばならないということです。そうなれば、天が役事するようになります。間違いなく役事して下さいます。それゆえに、今日、復帰の路程を歩んでいくことができるのです。

 

(1969.9.14.真なる兄弟)

 

 

主体の前に絶対服従することが統一の出発点

 

それでは、この者たちが行かねばならない道はどのような道かといえば、一つの道しかありません。個人から家庭に行かねばならず、家庭から氏族へ行かねばならず、氏族から民族、民族から国家、国家から世界、世界から天宙を経て、最後にゴールインせねばならない所がどこかといえば、神様の世界を抱き、自由に愛することができるその位置まで進まねばならないのです。このように、一方通行の、一つの道しかないというのです。

 

ご飯を食べるのもこの道のため、一生を犠牲にしたとしても、この道を開拓するために、この道を拡大するために、行かねばならない運命を背負った者達が統一教会の食口なのです。ただ統一教会の食口だけではなく、連なって、世界人類がそのような悲運におおわれているということを知っているのです。しかし私たちは、ここに主体的な使命をはたすために結束し、決意して立ち上がった群れです。この道を開拓することは、平坦な道ではないのです。私たち個人個人が、体と心を統一することができない自分自身をみるときに、私たちは落胆するようになります。心はこのように願うのに、体はその反対に願うというのです。使徒パウロのような人でも、やはり体と心が一つの願わざる道を行っていることを知り、心は願えど、体は反対であり、肉身が弱いという、そのような立場で嘆息したということを私たちは知っています。

 

この体と心を一つにするために歴史が動員されて、闘ってきました。そこには神様の摂理も加わっており、サタンも加わって闘ってきているのです。このような私をどのように、心が願う通りの自分にすることができるのかということが、最も大きな問題であるのです。

 

これをするためには堕落した私たち自体を持ってしては、だめだというのです。だめなので堕落していない本然の一つの人格を標準として、そこに連結させるための運動をしてきたのが歴史時代の宗教の使命であるというのです。ゆえに、メシヤ思想は宗教を中心としてなくてはならないのです。

 

メシヤがくる時は、一人の人として来ますが、彼は自分一人の歴史を持って来るのではありません。彼は天の歴史を代表し、人類歴史を代表し、全ての受難の道を乗り越えて、統一的な価値を備えて来なければならない方ではないか、彼には歴史の悲しみが宿っているというのです。その歴史の悲しみを打倒するために、その誰よりも決意した信念をもって闘い、勝利することができる自身の歴史をもって来なければならないのです。彼と共に一つになることにおいてのみ統一の出発を見ることができるというのです。

 

このような観点から見るとき、私たち統一教会は、その誰ともちがい、そのような因縁に従い、そのような土台を備えるために集まった群れであるというのです。ここでは、私一人が今日、ご飯を食べ、生きていくことは、現在のために生きるのではないのです。明日のために生きるというのです。結婚していない未成年者たちは、何のために闘っていかねばならないのかというと、真なる個人を探すために闘うことも、もちろんですが、真なる個人が一つのその中心と共に相対を備えるために闘っていくというのです。その主体が願うのにおいて、相対として、できること、できないことがないというのです。できないことも、しなければならないのです。すべきことは、もちろんしなければなりませんが・・・。できないことを、できないというようになる時には、統一は不可能だというのです。できないというこの条件がいまだに自分が知って、もっているという時には、その主体と私とは、それだけの距離が生じるというのです。

 

その主体の前にしなければならないという時は、できないという一切の内容が成立してはいけないというのです。そのような立場に立たないためには主体の前に絶対服従せよというのです。絶対服従せよということは何か?順応できない内容を完全に否定してしまおう。否定してしまおう。順応できないものに比例して反発し得る内容が残るために、これを完全に除去させるためには、絶対従順であり、絶対服従であるというのです。これのみが解決方案です。これは最後の結論にならざるを得ないのです。

 

ゆえに“心を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛せよ”という言葉は何かといえば、死を覚悟して、生命をかけて立ち向かえということなのです。堕落した人間が自分の主張をし得る内容があるという時、それが、天とは完全に一つになれないということなのです。そこに自分を弁明し得る環境があるとするなら、その環境と自身の弁明の要件が、その前に行き止まりとなるのであり、壁になるのです。行き止まりと壁を完全に崩そうと思えば、神様を中心として絶対服従せよというのです。絶対服従せよ。ここには異議がありません。

それゆえ、イエス様がゲッセマネの山上で祈ったことも何かと言えば私の思いではないようにというのです。“父よ私の思いの通りではなく、父の思いの通りにしてください”という、その帰結点を願わざるを得ないのです。メシヤとして地上の人間を代表して来たために、人間の事情をよく知っていらっしゃるメシヤ、すなわちイエス様は人間を代表して立つときは、天の前に相いれない立場になり、天を代表して立つときは、人間の前に相いれない立場になるのです。このすれちがいの道の中で、二者択一をしなければいけないのですが、二者択一をするにあたって、人間世界に立ったならば、天との壁がふさいでしまうというのです。そうなり得る立場に立っているのがメシヤです。だからといって、これを捨てることができない立場に立っているのもまた、メシヤであるというのです。

 

ゆえに、私のみ旨もすなわち、救世主として、人間を救うためのみ旨もあるが、不純な要因を許さない神のみ旨を中心として見る時には、自分を否定して天のみ旨を主張し立たねばならない、メシヤの苦しい立場を私たちはここにおいて、かいま見ることができるというのです。それと同じく、イエス様も自分の思いを中心とせず、完全に否定した立場を選んで行ったのと同じく、そこは絶対服従です。絶対服従。ここにおいてはじめてイエス様が一度亡くなられたあと、復活することができる道が拓かれたのです。万が一、自分の思いを強調し、自分の弁明をしたとしたならば、復活も何もなかったというのです。それは避けることができない結論であるというのです。

 

(1972.9.1.統一方案と私)

 

 

397_僕の立場で絶対服従してこそ

 

それでは、個人において、僕の位置に行こうとすれば、どうしなければならないでしょうか?僕は、主人の命令に不服従があり得ないのです。何であろうと絶対に服従しなくてはなりません。絶対服従ができない人は、まだ僕の位置に行けない人です。そのような人は、息子の立場にあがることができません。僕の位置を経てこそ息子の位置に立つのです。絶対に服従してこそ養子の特権も、望むことができるのです。第一条件が、絶対に服従することです。命令に背くなどはあり得ないのです。異議がないということなのです。異議があるという時、その異議はどこから来るのか?“世界の上で誰それは、こうではないのに・・・私が習ったことは、こうではないのに・・・”といい、全てこの世のものを持ち出すところから来るというのです。“私が知っているのは、こうではないのに・・・”というのは全てこの世のものです。ここから衝突がおこります。このように主張してはいけないというのです。

 

世界、国家、民族、氏族、個人を中心として糾合するときには、必ずサタン側に汚されてしまうのです。絶対服従のみです。そうでなくては、僕の位置を免れることができないのです。行けと言えば行き、来いと言えば来るのです。それを、はっきりと知らねばなりません。

 

それでは皆さんは何をしにここに集まってきたのですか?僕としての合格者になるための訓練を受けるために来たというのです。そのように結論が出るというのです。ここに集まってきた皆さんはどのような群れであるのか?怨讐の子として、僕になることのできない群れだけど、怨讐の世の因縁を全て切って来た一つの目的は何でしょうか?僕として、公認を受ける位置を経ていこうというのです。

 

その道はどのような道であるか?絶対従順、絶対服従の道です。異議のない道です。異議をとなえる日には、追い出されるのです。つねに監視を受けるのです。主人の承諾なしに、僕は何かに干渉したり、さわったりすると、引っかかるのです。それが、僕が息子と違う点です。息子は父が所有している家に住み、全てのものを思い通りに自由に干渉し、自由に管理し、自由に処分することができますが、僕には決してそのような自由がないのです。何か一つにするにしても、主人にたずねてみなくてはならないのです。そうではないですか?皆さんはこれをはっきりと知らねばなりません。

 

僕の時代には口をひらいて弁明する人は落第だというのです。その道を克服できない人は僕の立場に立てずにサタン世界にそのまま残っているというのです。そのような人は、統一教会が真なる道ならば、統一教会から落ちてしまうのです。いくらいようとしても、どうしようもなく、落ちてしまうのです。これは原理です。原理がそうだというのです。自分が言いたいことが多いという人たちは、み旨の前から離れていくようになっているのです。

 

自分がまず神様の欲求を聞いてこそ、自分の欲求というものがあり得るのであって、自分の欲求を神様がまず聞いて下さるかというのです。僕はいくらやっても中身がありません。仕事をしている途中に出ていけと労賃を分けてもらう時になっても、未練を残してはいけないのです。行けというのに“私はここにいます”と未練を残してはいけないのです。追い出されるのに、残ると言うようになれば、今まで備えてきた精誠までも一時に完全に破綻してしまうのです。

 

(1971.6.13集合した私たち)

 

 

絶対服従の因縁を持てなければ祝福家庭に入ることができない

 

世界的なアベルは誰かといえば、来られる主です。世界的にまず、うまくいくのはカインの国です。そうでしょう?そのようなカイン世界の前にアベルとして生まれた方、すなわち世界的なアベルとして来られる方がメシヤなので、そのメシヤを中心として天使長を復帰しなくてはなりません。そうでしょう?天使長がアダムを屈服させ、打ってきたものを反対に復帰しなくてはならないのです。メシヤは堕落していないアダムの因縁をもっているためです。

 

本来、人間が堕落しなかったならば神様の前において、理想的な祝福を受けることができる相対理念を持つことができたのです。それゆえに、神様の前に帰ってきた位置に立つようになれば、祝福を受けることができるというのです。受けることができますか、できませんか? 「受けることができます。」 ところが、ただではだめです。カイン、アベルを復帰しなければなりません。カイン、アベルを復帰してこそ神様、アダム、天使長の順に成るというのです。これが原理です。

 

ゆえに、アダムの代わりに来られる方がメシヤなので、メシヤの前に絶対服従しなくてはなりません。どのくらい服従しなければならないか?自分の財産と、息子、娘達を皆、捧げなくてはなりません。堕落によって天使長が万物と息子とその家庭を全て奪っていったでしょう。それらを全て復帰しなくてはなりません。

 

ゆえに、サタンが嫌だと言っても、一日に3度も追い出されるようなことがあったとしても、這いつくばって入っていき、すべてを受けとるために頼むことができなくてはなりません。そのような男性ならば、彼は完全に復帰したカインの立場に立つようになるため、いいかえれば、堕落したアダムよりも高い位置に立つようになるため、また、神様の為に、そのようにしてきたために、初めて祝福を受けることができるというのです。これが統一教会の結婚です。わかりましたか?

 

絶対服従する因縁をもてない人は、今後祝福家庭に入れません。皆さんは、このことを知らねばなりません。それで、今回先生が命令した命令に従い、動かない男性、女性達は家庭から切りはなしてしまうというのです。それが原則です。わかりましたか? 「はい。」 今だこのような場にいながら、男が絶対服従しない立場に立ってはだめだというのです。女性たちは何をしていますか?女性も、何か病気があるならしかたがありませんが、今回の動員期間に動員しなければ、先生とは何ら関係がないというのです。女性が動員されない家庭は関係がないというのです。このような原理原則を皆さんは知らねばなりません。わかりましたか?

 

カイン、アベルを復帰せねばなりません。個人復帰、家庭復帰、国家復帰、世界復帰。このように大きくなっていくのです。わかりましたか?これを点で見ると、個人、家庭、国家、世界、四つですが、段階で見れば、三段階です。(板書される)わかりますか?

 

個人から出発して、家庭基準まで探し求めて来たのが今までの歴史であり、その土台の上にメシヤが来るのです。わかりますか?個人から家庭を完全に勝利的に取りこむことができる外的な基盤を拡大させてこられる方がメシヤというものです。家庭的な土台を築き、その基盤を横的に国家に連結させるのがメシヤの使命です。わかりますか?その次、国家的な基盤を世界的に連結させ、勝利することがメシヤの使命であるというのです。

 

イエス様は国家基準から世界へ分かれましたが、来られるメシヤは世界的基準から天宙へ一段階乗り越えて行くというのです。霊界を早く解放しなければいけないというのです。わかりますか?これが、最後です。そうして個人、家庭、国家、世界、四点になってこそ三段階が展開されるというのです。

それゆえに、皆さんはメシヤの前に個人的に絶対服従せよというのです。これは端的に結論を下して言った言葉です。個人的に絶対服従せよ!命を捧げなくてはならないというのです。

 

誰に捧げなければならないか?他の人に捧げるよりもメシヤに捧げなくてはいけません。アブラハムがイサクを祭物として捧げたのと同じように捧げねばなりません。わかりましたか?皆さんはそうすることができますか?羊は主人が首を切るとしても“メェー”というだけなのです。どのような苦痛も耐えるというのです。これが重要なことです。そのようにしてこそ、皆さんが復帰されるのです。

 

それでは、皆さん、個人的に絶対服従しましたか?メシヤが審判するようになればその基準は何か?個人的に絶対服従したのかという事です。服従しましたか?一致できていないというのです。先生に対してだけそうであって良いのでしょうか?先生に対して、良くするのと同時に息子、娘にも良くしなければならないし、妻に対しても良くしなければならないのです。そうしてこそ一つになるというのです。今後皆さんも家庭を中心として家庭の垣根があってこそ、個人が安息できるのです。

 

その次には、家庭的に絶対服従せねばなりません。わかりましたか?それゆえに、皆さんは、子供たちをよく教育せねばなりません。よく教育しなければならないというのです。子供たちが復帰していくのにおいて、祝福家庭の子女たちが頭を振って一つにならない日には、これが問題だというのです。そうじゃないですか?復帰歴史は縦的な歴史を横的に蕩減復帰するのです。縦的な歴史は旧約時代、新約時代、成約時代です。成約時代は父母の時代であり、新約時代はイエス様、すなわち息子の時代であり、旧約時代は祭物、すなわち万物の時代であるというのです。家庭はこれを横的に横たえたものなので、自分の家庭を中心として、息子、娘も全てここにかかっているものだというのです。わかりましたか?それゆえに、家庭が主体の前に完全に一つにならねばなりません。先生の家庭を中心として、皆さんの家庭が必ず一つにならねばならないというのです。

 

さあ、家庭的に絶対服従していますか?できていますか、できていませんか?それで今回の動員も、爆弾を持って爆破する立場に入るのと同じことだというのです。イエス様にも個人的な三年路程があったでしょう?個人的な三年路程を通してこそ、み旨を成すことのできる立場に立つことができるために、それを成就するための三年路程があったというのです。

 

縦的、横的に家庭は全て絶対服従せよというのです。ここに副作用を起こすようになれば、再びせねばなりません。再びするのにおいて、三倍以上追加せねばなりません。何のことかわかりましたか? 「はい」 家庭的に服従せねばならず、その次には国家的に服従せねばなりません。国家的に一つにならなければ、世界へ進むことができないのです。天国にも行けないというのです。ゆえに、一つになり絶対服従するということは鉄石のような基準とし、これが伝統にならなくてはなりません。これが審判基準というものなのです。それ以上にならずしては、国家基準まで進むことができないというのです。それゆえに、ある人は行く途中にふさがってしまうというのです。

 

そのようになれば祝福を受けた家庭に、世界の乞食という乞食たちがみんな讒訴をするというのです。どこどこの町のだれだれは、祝福を受けて、何かをしていたと思ったら、あのようになったと言いながら、讒訴をするというのです。責任をはたせなければ、今後、祝福を受けた人たちが僕の立場を免れることができないというのです。何のことかわかりますか?“おい!なにがし、お前ここへ来て、これをやれ!”と言えば、“へいへい!”と僕のようなことをする時が来るというのです。そのような怖い話を先生はあまりしないというのです。そうしなければならないというものではないのです。サタンまでも讒訴するのです。“こいつめ、俺は長成期完成級の心情基準でサタンになった。ところが、おまえは完成期完成級の父母の心情基準まで備えてそうなったとしたならば、心情的な堕落の親玉ではないのか?”と讒訴をするというのです。世の乞食までもやってきて、命令をするときには、そこに絶対服従して、ひっぱりまわされるというのです。そして、そのような人が、結婚して子供でも産んでみなさいというのです。乞食の子供達がひっぱりまわしながら、また僕のようにあつかうというのです。何のことかわかりますか?

 

先生が何か偉大なことをするために、そのようなことを言うのではないのです。どのようになるかやってみなさいというのです。何でもいいというのです。そのようになればいいでしょう?そのようになれば、サタンが讒訴し、この世の乞食までも“おい、こいつ、仕事をしろ!”といい審判するというのです。賤民の子女よりももっとしいたげられる時が来るというのです。わかりましたか? 「使命をはたせなければそのようになるでしょう?」 そうだろう、そうです、そうだというのです。

 

(1972.5.9.今後に我々がすべきこと)

 

 

402_選民とは天の側を絶対支持する天使長民族圏

 

イスラエル民族は天使長圏です。息子ではないのです。天使長圏です。天使長が堕落して、悪なる天使長になり、悪なる天使長の子孫が広がったがゆえに、ここで悪なる天使長と闘い、サタンを屈服させることができる天使長にならねばなりません。そのような天使長になれなければ、神様の息子に侍るため、責任を持ち、立たねばならない天使長の使命をはたすことができないというのです。そういうことではないのですか?

 

エデンの園で堕落したので、堕落したアダムよりも堕落した天使長よりも勝る勝利的な天使にならねばなりません。勝利的な天使としてサタンを屈服させねばなりません。サタンは、堕落した天使だけど、天使長を屈服させる勝利的天使長圏をつくるのが選民です。今日、選民というものが何であるのか、みんな間違って理解しているのです。

 

選民が何かといえば、天の側を絶対に支持する天使長民族圏です。ここは、堕落した天使長世界圏になっていますが、このサタン世界から奪ってきてはじめて分別し、分立して、神様を支持する天使長圏民族をつくり、天使長圏宗教形態をつくったものが、第1イスラエルの国になるのです。第1イスラエルの思想的柱石になったユダヤ教になるというのです。わかりましたか? 「はい。」

 

ユダヤ教とイスラエル民族は主体と対象のようなものです。これが完全に一つにならねばなりません。完全に一つになり、忠誠を尽くし、息子に侍ることができる天使長圏国家エデンの園で堕落せずに成さねばならなかった国家圏を成し、完成したアダム、神様の愛を受け継いだメシヤに、一度に接ぎ木されねばなりません。そのようにさせることが、神様がメシヤを送った目的です。わかりましたか? 「はい。」

 

それで、メシヤと完全に一つになれば、その一門はメシヤの一門になると同時に、メシヤの養子の一門として登場するのです。そのようになるのです。わかりましたか?ところが、養子がどうして直系の息子の代を継ぐことができるのか?これは原理的にないというのです。エデンの園で養子が堕落していない直系の息子の代を継ぐという原理がありましたか?そのような原理がありますか、ありませんか? 「ありません。」 そのようなことはあり得ないのに、私たちがどうして養子の立場から息子の位置に行くことができるのか?私たち人間が堕落したからですね。堕落しなければ、本来、私たち人間は神様の息子だというのです。これは創造原理です。

 

この創造原理が、なぜ壊れてしまったのか?天使長とアダムがお互い一つになれなかった為です。わかりましたか?それゆえ、アダムと天使長が一つになることではじめて、息子として復帰される道が生じるようになるのです。そのようになるのです。わかりましたか?このようになれば、ぴったりと合うでしょう。何のことかわかりますか? 「はい。」 これをはっきりと知らねばならないというのです。どんぶり勘定や、いいかげんにではないのです。そのようになっています。

 

皆さんにこのようなことをたずねると、どのように答えますか?さあ、これはサタン世界の天使長圏の息子は養子なのに、この養子がどうして息子の位置に入ることができるでしょうか?原理基準には養子が無いのに・・・。創造原理の中で養子がいますか?養子は堕落圏内にいるのです。それゆえ、どのように養子が代を継ぐことができるのかという問題を見る時、これを知らずしては、答えを完全に出すことはできないのです。この話がわかりますか? 「はい」 天使長とアダムが間違って一つになれず養子圏が生じたのです。そうして人間が養子になってしまったので、天使長とアダムが完全に一つになる日には、蕩減復帰原則により、直系の息子になることができるのです。 わかりましたか?「はい。」 そのようになっているというのです。

 

それでは、イスラエル民族というのは何か?人をして、養子圏にさせた天使長、神様に反対する一門ではなく、神側で死のうと生きようと一つになることができるアダムの為の国です。これいわく、選民というのです。選民とは何ですか?  「・・・・・・」 これをはっきりと知らねばならないというのです。どんぶり勘定ではなく、原理がそうなっているのです。これを知らなければ、復帰路程もわからず、どんぶり勘定になるというのです。

 

(1973.7.23.復帰の目的)