目次
第5章 メシヤを迎えるための基台
信仰の基盤の上で実体祭物を捧げてこそ天の祝福を受ける
本来、所有主は神様から、その次には真の父母になって、皆さんたちは父母様の許諾を受けて、父母様が分け与えるものを受けてこそ、自分のものになるのですが、今、全部が強奪者たちなのです、強奪者。全部、泥棒たちなのです。泥棒たちが集まって、なんの挨拶ですか、この者たち!言うことを聞かなければ打ってでも、それを探していくのが原理の道なのです。私は、そのようなことを知っている人なのです。
ここがレバレンド・ムーンの祖国です。皆さんがレバレンドムーンの同族ですか?そうでしょう? 「はい。」祖国が責任を持ち、同族が責任を持たねばなりません。同族が責任を持てば、世界史的な祝福に同賛することができるのです。この責任を果たすまでは忙しいのです。
では、今、み言を聞いて反省をしてみなさい。自分がどれほど泥棒猫だったかを?血を流さねばならないほど・・・。血の代価を払わねばならないのです。そうしなければ、私を再創造する万物を持つことはできません。これを知って、“神様よ、天使世界よ!アダム・エバが持てなかった精誠ある真っ赤な心情、すなわち私のために生かした全てのものを否定して、天だけのため、天使世界の名だけを中心とする一片丹心の心だけだ。ゆえにこの心はアダムが堕落する前より高い心だ。そうか、そうでないかを試験してみてください。サタンを送って攻撃しても、私の真っ赤なこの心は変わりません。”と、このようにならねばなりません。そこで残った日には天の祝福を受けることができるし、その次には何かというと、私を創造することができる立場に立つのです。それを備えれば、天の前に全てを捧げていかなければならないのです。
皆さん、実体祭物がありますか、実体祭物?信仰の基盤の上に実体祭物を捧げなければならないでしょう?信仰の基盤は何ですか?祭物基盤でしょう。祭物が何ですか?万物です、万物。そのために十一条が何かといえば、歴史以来、このような因縁を経て、終わりの日まで連結させるための実のような道です。わかりますか?世の中がどんなでも、この綱だけつかんでおけば、万物が天の国の夜明けを作るのです。十一条がその伝統なのです。十一条を精誠こめて捧げた人は滅びません。
我々、統一教会では何条ですか?十一条ですか?100%の何条ですか?「十の十条です。」十の十条ですか?十の十条はできなくとも、十の十条に0コンマ1でもプラスしなければなりません。一つでも自分のものを補うのです。それでこそ、自分のものになります。私が稼いだものは、サタンの物を稼いだのであって私の物ではありません。私が血と汗を流した代価として、何を添付しなければならないのか?涙を加え、血と汗を加えるべきですが、それが迫害を受けるということなのです。泣きながら訪ね、門前で蹴られて唾を吐かれるのです。そして感情が溶けて涙が出るのです。そのようにして稼いだお金を未練なく・・・。
純粋に福を祈れば、父母様を通して、神様に通じる道を教えてあげるのです。そうしてこそ恵沢圏が、解放圏が生まれるのです。早く父母様が勝利して世界的蕩減路程を早く築いてこそ、私が生きて残すことができる足場が築かれるので、我々は無条件にこれを後援し、補充するのです。そして、先生がその基盤下に世界的な蕩減基盤を築いていくのです。そして父母として勝利したのです。先生が敗者ではなく、勝利者なのです。わかりますか? 「はい。」
(1980.11.1.家庭教会の価値とその重要性)
信仰基台がなければ実体基台は立てられない
皆さんたちがこのように蕩減復帰のために稼いだお金は恐ろしいお金なのです。それは天に捧げてもれなく報告して使うようになっているのであって、報告しないで使ってはいけないのです。皆さんたち、信仰基台が必要でしょう? 「はい。」 そのためには、何が必要ですか? 「万物復帰。」 その次には何が必要ですか? 「実体基台です。」 実体基台が必要です。これはカインを屈服させるのです。カイン・アベルが一つにならねばならないのです。カインが兄ですが、サタン側にいる兄に対して、弟が兄になって、カインである兄が弟になるように、自動的に全てのものを相続することができるようにして戻って来なければならないのです。それがなぜ必要なのか?信仰の基台がなければ実体基台を立てる基盤がないのです。
旧約時代は信仰基台時代でしょう?祭物時代です。新約時代は実体基台時代でしょう?そしてイエス様がアベルになって、世界のカインを屈伏させて来たのです。それを屈服させて、その次にはメシヤのための基台で、メシヤを迎えることができるのです。メシヤは誰ですか?メシヤは父母です。実体は何ですか?兄弟です。その前は万物復帰です。復帰歴史は再創造歴史で、再創造歴史は蕩減を通して行くのです。万物に対して・・・。
その次には人で、その次には父母になるのでしょう?その次には何か?神様です。神様を中心として、神様と一体となった神的愛です。これを中心とした家庭になるのです。ここで初めて家庭が生じるのです。そこまでは兄弟も分かれていて、父母も分かれていて、万物も分かれているのです。これらが神様の愛を中心として一つになるのです。ここで世界が変わるのです。ここで分かれます。統一教会が家庭という制度を中心として世の中と分かれるのです。
それでは統一教会ではなぜ信仰基台が必要なのか?兄弟を探すためです。では、なぜ万物を探せば、兄弟を探せるのか?この全ての万物をカインが持って行ったのです。ですからカインと違わなければならないのです。歴史時代のカインと違って天のための物として蕩減条件を立てねばならないのです。また、アベルがカインよりも良くなければなりません。カインは自分の欲心を中心としていますが、アベルは公的な欲心です。サタンは自分の欲心を中心としていますが、天は公的なのです。
そしてこれらが一つにならなければ父母に出会えないのです。なぜか?カイン・アベルが堕落することによって二つが分かれたのです。双子になったのです、双子に、なぜか?天の国の長子が生まれなければならないのに、サタン側の長子が生まれたので、取り替えて次子の立場から指導しなければ天の国の家庭形態、兄弟の因縁が成立しないのです。カインはアベルを通して父母を迎えなければならないのです。
そうしようとすれば、その二人が一つになって...。エバは、母は、二人の息子を一つにして愛して息子の立場、長子権を天の前に立てることができるのです。エバは、今まで、長子、サタン側の息子をつかんでいたというのです。
カインがアベルを殺したのです。そのため、アベルはカインを打たないで愛してあげるのです。そしてカインが全ての祝福を弟にあげても良いと言えるようにしてこそ、エバが初めて夫の前に行くことができるのです。これを抱いて夫の前に行くのです。
そして来られる主の前に、この世界のキリスト教は、民主世界と共産世界、カインとアベルを抱いて消化しなければならないのです。そして一つになってこられるメシヤを迎えるのです。同じ理論です。終わりの日には、共産世界・民主世界はカイン・アベルです。キリスト教はエバの立場に立って、それを一つにして新郎を迎えなければなりませんが、戦ってはいけないのです。カイン・アベルが一つにならねばなりません。しかし教会が民主世界と戦って全部駄目になったらどうしますか?それで仕方なく統一教会が出てきたのです。
(1981.12.27.真の父母と我々の責任)
経済生活の原則
万物復帰時代においては、どのようにしなければならないのか?横的な国家だとか万物圏を全部、連結させなければならないのです。今日、ヨイドの土地問題や、教会の建設問題、世界修練所の建立問題などは、韓国のためのものではありません。神様のためのものです。世界本部も神様のためなのです。
アメリカを見れば、清教徒たちがアメリカに入っていって初めに何をしたのかといえば、教会を立てたのです。その次に農業をして、その次に世界の新しい文化を創出したのです。そうして今日、世界を主導する国家になったのです。同じようにアメリカは先ず、天のためにやったので福を受けたのです。それが原則です。
そのため、統一教会の先生もそのようにするのです。自分の家を買う前に、そのようなことからしているのです。そのようなことを全部しておいて家を買えば良心の呵責を受けないのです。今、私がそのように全部やったので、家を買わなければなりません。では、その家は先生が買わなければなりませんか、皆さんが買わなければなりませんか?一度考えてみてください。今、祝福を受けた家庭は全部、栄光の立場に立っています。即ち、楽園天国圏内に立っているのです。では、楽園天国圏内に立ったその恵沢は、誰によってか?皆さんによってですか、先生によってですか?先生が家庭的に全部、接木してあげたのです。それに対して恩返ししなければなりません。ですから統一教会人は先生よりも先に家を持ったならば天法に引っ掛かるのです。先生が家を持つ前に、自分の名前の家を持っているというのは恥ずかしいことです。これは将来、法規化する時が来るのです。
子女は父母の名を経た後に、全ての万物を自分の名で持つようになるのです。そうしてこそ復帰になるのです。ですから自分が復帰される前に、聖婚式をする前に、自分が持っている私有財産は全部、天のものとして入籍しなければならないのです。お嫁に行く女性が、自分が今までの所有物を持っていきますか、それとも置いて行きますか?これと同じなのです。ですから堕落世界においては、このように原理原則の通りにできない悲しみがあるのです。原則通りにさえすれば、統一教会の文先生が工場に出勤する必要がないのです。
皆さんは気が遠くなるような事実を知らねばなりません。皆さんの家にある全ての物は皆さんのものではないのです。真の父母の名を通過して手続きを踏んだ後に、自分のものとして受ければ、皆さんの子孫万代まで永遠に残りうる種子になるのです。ですから、皆さんはそのような物を持ちましたか?皆さんは大きいものを神様の前に捧げて、神様から少しでも受けたならば、それを永遠と考えなければならないのです。これがこれからやってくる統一世界の経済的方向なのです。これが世界的に火がつけば、それは世界で一番長い行列になるのです。お互い、先に捧げようとする戦いが始まるのです。女性が嫁ぐ時と同じように、捧げていくのです。そのような時が来るのです。これが原理的です。
そのために皆さんは祝福を受けなければなりません。そしてこそ蕩減復帰になるのです。祝福を受ける前にはお金のことを考えるなというのです。これは先生の原理的な教えです。これに異議がありますか?
地域長たちは統一世界で主流に立っている人たちです。祭司長の立場だというのです。祭司長は祭物を捧げるにおいて、神様に直接捧げることができないようになっています。真の父母の名を通して祭物を捧げれば、神様が受け取られるのです。そのようにするために、いままで苦労しているのです。そうしてこそ蕩減復帰されるのです。
先生はこの過程を経た立場か?先生はこの過程を家庭的に復帰したために、自由にお金を融通して使うことができる世界的な基盤が築かれたのです。なんのことか、わかりますか?今、そのようになったのです。そして1966年を中心として経済基盤確保という言葉が出てきたのです。それは統一教会を中心として策定してきたということを知らねばなりません。
(1971.5.24.万物の日と復帰の過程)
万物の日を祝賀する理由
では万物の日を祝賀する理由は何でしょうか?皆さんに属する万物を神様の前に結束させるためです。そのためには皆さんの所有財産はもちろん、共同財産である国の全ての物を神様の前に奉献しなければなりません。これが皆さんの責任なのです。また、世界、地球星を神様の前に奉献しなければなりません。
皆さんには、この地球星を神様の前に奉献しなければならない責任があることを知って、それを奉献するようになる時には、必ず父母の名を通して捧げなければならないということを知らねばなりません。そのような所有権限が、どの天地においても連結されることができる圏を造っておいてこそ、万物の日を祝賀する目的が達成されるのです。
現在、皆さんを見る時に、自身の財産を神様の前に捧げないでいます。また、この国を、神様の国、真の父母の国、真の民の国、真の子女の国、ということはできません。そのために誰からこのようにしなければならないかといえば、皆さん自身から始めなければなりません。すなわち、真の父母が皆さんの家に行って、皆さんに何も言わずに、自由に物を持っていっても、それを有り難く考えなければなりません。“父母様、自由に持っていって使ってくださって結構です。”と言えなければなりません。
イエス様は、有無相通されました。統一教会では有無相通していますか?そのようにできずにいるというのです。いわゆる統一教会の食口の中では先生にお金を貸してあげて、今まで返してもらっていた人がいますが、そのようにすれば、引っ掛かるのです。そのような人は、どんなに伝道に行って苦労しても福を受けることはできないのです。私が神様から利子をもらいますか?皆さんは、このような原則を知らねばなりません。
教会のために、自分の骨と肉を切って捧げられなかったことを恨みに考えるべきにもかかわらず、利子までもらうのですか?それではいけません。先生は、このような人には絶対会いません。どんなに話すことが多いとしても、話しません。36家庭はどうですか?そのようになっていますか、なっていませんか?答えてみなさい。先生が、今回、第2次7年路程さえ終えれば、36家庭は位置を確保してあげようとしているのに、なぜ、騒がしくするのですか?
そのために、皆さんは今、'万物の日'を記念する時ごとに・・・。この3千里半島が、神様の前に捧げられ得る国になっているのか?今まで、自分が属している村もサタン圏内に所有されていたし、先生の名を中心として自由にできるようにはなっていないのです。このようなことを、どのように神様の前に捧げられるようにするかを考えなければなりません。
万一、先生にお金があれば、先生のために使って、教会や皆さんが滅ぼうが、滅びまいが、関係ないとしたならば、滅んでしまうのです。皆さんは、皆さんの責任に対してもう一度、決意をして、行くべき勝利的な基盤をどのように形成するかという問題を原理的な観点から検討していかねばならないことを皆さんは知らねばなりません。ですから、このようなみ言を語るのです。わかりますか?
(1971.5.24.万物の日と復帰の過程)
万物の日を記念しつつ記憶しなければならないこと
先生には忘れることができない逸話があります。よく信仰した統一教会の幹部という者に‘あなたの家を今、誰それにあげなさい。‘と指示したのに、あげるどころか、尻込みするのです。それではいけません。お金が問題ではありません。生死を決定することが問題なのです。先生の承諾なしに勝手に自分の名前を家の門に掲げるようにはなってはいません。万物が嘆息していることを知らねばなりません。このような全ての過程を皆さんは経て行かねばなりません。皆さんが先生の承諾なく、そのようなことをすれば引っ掛かるのです。子孫たちが天法に引っ掛かるようになるのです。このような原理原則をはっきり知らねばなりません。
皆さんも父母の名を経て属するようになっているのと同じように、所有権も父母の名を経て相続されなければなりません。そのようなことを解怨成就できなければ、皆さんは天国生活することができないという結論に達するのです。それは天国生活をしたのではなく、サタンの物をそのまま使用したという以外の何物でもないのです。
これから私たちはこのような環境的な基準を体系化させねばなりません。そうできなければ、復帰歴史時代において社会の倫理だとか秩序に相当な支障をきたすのです。それを体系化させるために、仕方なく先生は‘私が苦労をもう少ししたとしても、限界点まで引っ張っていこう’と決意して、今まで、この作業をして来ているのです。
これから先生が誰の家にでも行って、一番良いものを持って来るようにさせるかも知れません。万一、そのようにさせたならば、皆さんは持ってくることができますか?神様の手続きを通して継承を受けなかった物を持っているということは、恥ずかしいことです。
これから統一教会は世界の富者になります。原理がそのようになっているのです。私が世界を食べさせて生かそうというのです。そうならなければならないというのです。世界は今、一つに国へと収拾され、一つの法度へと帰結されていくのです。これが原理原則なのです。
皆さんは国を神様の前に捧げて、自分自身の全てを神様の前に捧げなければなりません。そうしてこそ、蘇生・長成級を越えていくのです。そのために、自分自身の全ての物を神様の前に捧げて、自分の家庭を全部、神様の前に捧げて、その次には国と主権者と民を神様の前に捧げて、世界の主権者と世界人類を神様の前に捧げれば、この地上のサタン圏は崩れて、新しい天の世界が始まるのです。
今、‘万物の日’を記念する時ごとに、皆さんはこれを記憶しなければなりません。誰でも万物を神様の前に捧げられるわけではありません。即ち、息子・娘の権威を持たずに、僕の立場では捧げることはできないのです。なぜ、そうなのかといえば、天使長サタンも自分の全てのものを神様に捧げようとする立場に立っているからです。僕の立場で捧げるようになれば、サタンに引っ掛かるので、息子・娘の名を持たなくては捧げることができないのです。その息子・娘は真の父母を通して祝福を受けなくてはならないのです。
このように環境的な基盤を復帰して、また、実体の子女として神様の前に奉献しなくては、天国家庭になることはできないということを、皆さんは知らねばなりません。
(1971.5.24.万物の日と復帰の過程)
アベルの責任とカインの使命
地域長・地区長は何かといえば、祭司長です。祭司長はどの一族の中に出てきたのかといえば、レビ族に出てきたのです。では、レビ族は、イスラエル民族がカナンの地に復帰した時、どのようになりましたか?レビ族が土地の分配を受けましたか、受けませんでしたか?皆さん、答えてみてください。カナンの地に復帰した後、12支派に分かれた時、レビ族は分配を受けましたか?それも知らないのですか? 「受けませんでした。」 レビ支派は祭司長族なので、分配を受けなかったのです。祭司長族はカインたちが食べさせて生かさなければならないのです。
贖罪を受けるために捧げる祭物は、贖罪を受けた人たちが捧げるのです。祭物はカインたちを贖罪してあげるためのものなので、カイン側でアベルに祭物を捧げて食べさせて生かさなければならないのです。わかりますか?アベルは誰が食べさせ、生かさねばならないのか?父母ですか、カインですか? 「カインです。」 カインがアベルを食べさせて生かしてあげる代わりに、アベルは生命を捧げるのです。物質的なものを基準とするカインと、人を基準とするアベルがここで一つになるのです。それによって、復帰の基盤が成されるのです。イスラエル民族を代表した祭司長たちは、アベルの立場なので、カインを復帰するための苦労の代価を払って、カインを分配されたのです。物質を持つのではなく、人であるカインを持つようになったのです。
したがって祭司長所有の分配は何ですか? 「カインです。」 カインなのです。物質を分けてあげるのではなく、何を分けてあげるのか?人を分けてあげるのです。そのため、レビ族はイスラエル民族の中のどの一族よりも貴い一族なのです。皆さん、カインである人が貴いですか、物質が貴いですか? 「カインである人が貴いです。」 カイン側の人が貴いのです。これを皆さんは知らねばなりません。ですから、カイン側の人たちは、アベルを食べさせて、生かさなければならないというのです。
統一教会をおいて見る時、統一教会の全体の前にアベルは誰ですか? 「先生様です。」 統一教会全体の前にアベルは先生なので、皆さんは先生を食べさせて生かさなければなりません。そして先生はアベルとして犠牲の道を行きながら、カインたちを生かしてあげなければならないのです。それが先生の使命なのです。わかりますか?統一教会の教会員たちが先生を食べさせ、生かしてあげなければなりません。そうでしょう?先生が月給を出すようになれば、天理の原則に違反しますか、一致しますか? 「違反します。」 ですから月給をあげてはいけないのです。ですから、女性たちは“本部にいる部長たちは月給をもらっているのに...。”と思うかもしれませんが、それはよいことではありません。部長たちよりも、地区長がもっと貴いのです。わかりますか?地区長・地域長たちがもっと貴いので、一番の骨髄分子として責任を持ったそのような人たちには月給をあげないのが原則です。月給をあげるにも、私が月給をあげたくて出すのは良いのですが、地区長・地域長たちが要求して月給を出すのはいけないのです。原則がそうなのです。ここにいる地域長夫人、あるいは地区長婦人たちは“私たちはこのように生きるの大変なのに、先生はあのように裕福にして、私たちを愛する先生ならば、私たちにもう少し分けてくれるべきなのに”と言うかもしれませんが、それは先生の使命ではないのです。わかりますか?皆さんは、これをはっきり知らねばなりません。本部に対して願ってはいけません。願うことは罪なのです。
今は、皆さんが責任を持つことができるくらい物心がついたでしょう。祝福を受けて物心がついたでしょう?物心がついたので、息子・娘として結実を結ぶことができる立場に立たねばならないでしょう?そのような立場に立つためには、父母のため、夫婦は孝行をつくさねばならないのです。孝行の道は一人でしてはいけないのです。
堕落したアダム・エバが夫婦として孝行できなかったので、夫婦が孝行を尽くした条件を立てなければなりません。皆さんが孝行したという名を残すことによって、皆さんは天国に行くことができるのです。サタン世界を抜け出すことができるのです。
ですから、結婚をさせてあげるのは、夫婦が父母の前に孝行したというただ一つの条件を皆さんに立てさせてあげるためです。夫婦が父母の前に孝行したならば、堕落したアダム・エバより優れていますか、劣っていますか?優れているのです。ですから、夫婦が手をつなぎ、歩調を合わせ、一つの体となって、全精誠を全て捧げて孝行の思いを中心として生活しなければなりません。それが祝福を受けた家庭たちの生活原則なのです。朝から晩までケンカをするのは生活原則ではありません。それはサタン世界の生活様相なのです。
お互い、戦ったりするのは、サタンの讒訴を受け得る夫婦であるために、そのような夫婦はみ旨の前に立てられることはないのです。そのような夫婦は、これから、どうなるかといえば、神様は除去なさるのです。わかりますか?これを皆さんははっきり知らねばなりません。
(1971.5.6.我々が行くべき道)
イエス様を自分の命よりももっと愛さねば
ではキリスト教が2000年間何をしてきたのか?新郎を迎える準備をしてきたのです。この地上の人間の中に新郎と新婦が来なければなりませんが、新婦は母であり、新郎は父なのです。
では、なぜ父と母が今日、私たちに再び必要なのか?我々人間は堕落によって間違って生まれたので、再び生まれなければならないためです。つまり重生、すなわち再び生まれるというのです。皆さんは生まれるには生まれましたが父母なく生まれたのと同じ立場なのです。そのため、再び母のお腹の中に入って、また出てこなければならないのです。これが今までの救援歴史なのです。
救援するためには父と母が共に来なければなりませんが、今までは父であるイエス様しか来なかったのです。イエス様は父格の救援者です。兄格の救援者ではありません。では今日、イエス様を信じる人たちはどのようにすべきなのか?結婚する前の男性の骨の中に隠れている息子・娘の種のような立場に入っていかねばなりません。イエス様を信じて何をするのか?キリスト教徒たちは‘イエス様に似よう。そしてイエス様と一つになろう。イエス様が私の中におり、私がイエス様の中におられるように...。’と言いますが、それは何か?
イエス様は今まで結婚もできませんでした。そしてイエス様は何を探されたのか?新郎の立場に出られなかった立場で、霊的に男性の中にある子供の種を探していかれるのです。そしてどうするのか?今、新婦の体、すなわち母の体を通してその子供を生んであげねばならないのです。そうしなくては重生できないのです。このような作業をするために、霊的に役事しているのがキリスト教のイエス様と聖霊なのです。そして聖霊を受けない人は、再び生まれることもできないし、母のお腹の中を通らなくては、罪を蕩減できないのです。
それでは、なぜ聖霊は罪を洗う役事をするのか?聖霊は母の神だからです。堕落した人類の母であるエバが罪を蒔いたので、母の神である聖霊が来て罪を洗わなければならないのです。ですから蕩減復帰によって聖霊はこの地上に来て、罪を洗う役事をするのです。では罪を洗って何をするのか?人類を父が自由に所有することができるように、即ち結婚する前のアダムの、骨の中にいる息子・娘の種の位置に入っていくようにしなければならないのです。
そのために人類はイエス様をどれほど愛さなければならないのか?自分の生命よりもっと愛すべきなのです。イエス様と一体にならねばなりません。男でも女でも、イエス様を愛さなければならないのです。男性も自分を忘れるほど、イエス様を慕わなければならないし、女性も自分を忘れるほど、イエス様を慕わなければならないのです。それはこの世的なものではありません。母を慕うのが、この世的なことですか?この世で自分の夫や妻が死んでもイエス様だけは逃さないと言えなければなりません。
我々、統一教会で子女の日といいますが、これは簡単なものではありません。皆さん、‘子女”は男性ですか、女性ですか?‘子女’という字を反対にしたら何ですか?女子になります。子女を反対に見れば、男子がなくなり女子だけになります。ですから世の中をひっくり返してみれば、天地法度をひっくり返して見れば、全部、女性なのです。これはくだらない話ではなく、そのような内容があるというのです。
我々、統一教会で子女の日を決定したというのは、アダム・エバが蒔いた罪悪の種を回収して人類を悪から解放させることができる起源を作ったというのです。今まで、人間が子女の日を立てられなかったので、万物も解放を受けられずに、嘆息圏内にいたし、神様も嘆息圏内にとどまっておられたのです。子女の日を持てなかったことにより、万物の日も立てられずに、万物が栄光の立場に立つことができませんでした。ですから万物の前に怨恨が残っているのです。また、神様が喜ぶことができる栄光の日を迎えられなかったのです。そのようになった全ての原因が子女の日を立てることができなかった所にあるのです。
(1968.11.20.子女の日はどのような日か)
人間の本然の人格基準
み言はみ言で、自分は自分と、分けてしまってはいけないのです。み言を中心として自分を育てていくことができる人にならなければならないのです。すなわち、神様のみ言と一つにならなければならないのです。しかし、皆さんが知っている思想は、サタンと関係している思想なのです。今、皆さんが追及したり、考えたりする思想体系では、サタンと関係している立場を抜け出すことができないのです。サタン世界の全ての構成要素は、どのようなものでも、人間を中心として現れたものなので、堕落圏内を抜け出すことができないのです。従って、新しいみ言を持って、全てのことを改革しなければならないのです。
では、今までの在来の思想に合わせて生きることはできるでしょうか?絶対にできないというのです。在来の思想は、完全に決裂し、清算されなければなりません。今まで、サタン世界にあったサタン的な観念や信仰、そして習慣までも全て一掃しなければなりません。そうして絶対的な基準のみ言を中心として伝統を立てなければならないのです。
み言を立てるときの先生の心に、皆さんも接してみなければなりません。皆さんがみ言を学ぶとしても、み言を中心として学んだその基準で信じたのであって、完全ではありません。そのみ言の背後に伝統的な基準が隠されているので、その基準を体得しなければなりません。そのために、もっとみ言に対する伝統を立てていかなければならないのです。
次に、人格が必要です。ここでの人格は、サタンを屈服させることができる人格をいっているので、正に、個性完成を意味します。
それでは、統一教会の教会員たちがいう個性完成の基準はどのようなものか?統一教会人として何年過ごしたといっても、個性完成するのではありません。その基準は、神様を6000年間苦しめ、神様に苦痛を与えた億千万代に納めることができないサタンを屈服させることができる基準なのです。それが、神様が創造された堕落していない人間の本然の人格基準なのです。
サタンは誰ですか?天使長です。天使長は神様の僕であり、正に神様の息子・娘を歪めたものです。父の僕は、息子においても僕なのです。しかし、その僕が怨讐になって、神様の前に讒訴条件を引っ掛けるサタンになったのです。
ですから、本然の人格を備えて、サタンを屈服させなければなりませんし、屈服させようとすれば、力だけでは駄目なので、み言で屈服させなければならないのです。イエス様に対するサタンの試練もみ言をもってしました。ですから、皆さんはみ言を中心としてサタンと対決して、サタンがサタンになった動機から、歴史的な犯罪の全ての事実を公的な立場で、神様の前に提示して、検事の立場でサタンを批判、屈服させることができなければならないのです。そのような人が真にサタンを屈服させる人なのです。
サタンは今まで、堕落した人間を引っ張って、神様の前の公判場に立てて、全部、地獄に引っ張っていったのです。もちろん、人間に罪があるのですが、神様のみ旨を、その動機からよく知っているサタンは、人間を神様から隔離させるのに主導的な役割をしてきたのです。私たちは、このようなサタンを屈服させなければならない立場に置かれている事実を知らねばなりません。
人間が神様の権限の相続を受けてサタンを支配しなければならなかった、本来の息子・娘としての権利を喪失したのが堕落です。ですから人間が堕落した基準を超えるためには、必ず、本然の権利を回復しなければなりません。そうするには、天地の大主宰であり、天宙の公法を中心として不義を審判される神様を裁判長に立てなければなりません。そうして神様の前にサタンを引っ張って、彼の全ての罪悪を暴露して求刑することができる検事の資格を備えなければならないのです。そうしてこそ、初めて、神様の前に立つことのできる人格を備えた者になるのです。
(1969.1.1.前面的な進撃を継続しよう)
み言復帰、実体復帰、心情復帰
男性と女性が穴をあけたので、これを埋めて穴がないといえる人を造ろうとすれば、真の父母が現れなければなりません。人間始祖が偽りの父母になったので、真の父母が現れなければならないのです。イエス様が子羊の婚宴をするために来られる、というのは、どういう意味か?真の父母として堕落した人間たちを神様の息子・娘になるようにするために、来られるのです。堕落の恨を全て解いて、サタンに勝つことができる息子・娘にならねばなりません。サタンを引っ張って、神様の公判場に立てて、検事の役割をすることができる資格者にならなくては、神様の息子・娘になることはできないのです。
今までは、サタンが我々を引っ張って、神様の前に出して検事の役割をしました。悪を中心としたサタンが検事の役割をしたのです。そのため、善を中心として、悪を処分することができる人が出てこなければならないのです。善の立場で、悪を処分する検事の役割をするために来られる方がメシヤなのです。そのメシヤは誰なのか?人類の父なのです。人類の母も共に来なければならないのです。人類の父母になるアダム・エバ二人を失ってしまったので、人類の真の父母になる二人の人が共に出てこなければならないのです。この真の父母が出てこなければ、子女の日を迎えることはできないのです。
では、我々は子女になるために何をしなければならないのか?復活しなければなりません。アダムが堕落して神様のみ言を失ってしまい、神様の体を失ってしまい、神様の愛を失ってしまいました。み言と人格と愛を失ってしまったのです。ですから復帰しようとすれば、これらを探さなければなりません。神様のみ言を中心としてみ言通りに実践してみ言通りになって、み言の実を結ばなければならないのです。
実を結ぶには、愛を中心として結ばねばなりません。み言を中心として実践して実を結ぶためには愛をもって成さねばなりません。愛を成すにおいて自分を中心とした愛ではいけません。愛の主人は、神様であられるので、神様を中心とした愛でなければならないのです。そして統一教会はみ言を中心として実体復帰をしなければならないし、その次には、心情復帰をしなければなりません。み言復帰、実体復帰、心情復帰をしなければならないのです。
アダムが堕落することによって、神様のみ言を失ってしまって、神様の体を失ってしまって、神様の愛を失ってしまいました。ですから、この3つを復帰するために、統一教会ではみ言を中心として復帰しろというのです。統一教会で教えるみ言は何か?歴史以来、神様が探そうとされたみ言を教えてあげるというのです。ですからみ言と一致した人にならなければならないのです。
しかしながら、み言と一致した人になろうとすれば、数多い人たちが反対するのです。統一教会の文先生は、大韓民国が反対したし、世界が反対したのです。しかし折れずに、善を中心として勝利したのです。
その次には神様と心情一体にならなければなりません。そうするためには、男性でも、女性でも、そのような心情を持った方に従わなければなりません。今日、統一教会の教会員たちは主人になるためには、神様が見たくて、涙を流すことができる動機の源泉を持たなければなりません。そうしなくては堕落したこの世の中を復帰することはできないのです。
父が泣けば、息子・娘も涙を流して、泣かなければならないのです。先生が涙を流せば、皆さんも一緒に涙を流さなければなりません。皆さん、先生が涙を流す時、皆さんも涙を流すでしょう?男性も女性も同感しなければなりません。‘私の心も間違いなくそうだということができる立場に立てなければ、皆さんはまた、そうすることができる所を探していかなければならないのです。統一教会人は自分の愛する息子・娘をおいても先生が好きで、妻や夫をおいても先生が好きだといえる道を探していかなければなりません。
霊的に救援を受けるためには、イエス様の体の中にいる息子の種、娘の種を、自分を探していくように、これから主様が実体で来られれば、その実体を中心として、昔、堕落していなかったアダムの体の中にいる子供の種の位置に入っていって、それから母に出会って、生まれることが出来なければなりません。そうしてこそ、再び、生まれることができるのです。そうではありませんか?
どうやって罪悪の種になったのかといえば、罪悪の愛を通してそうなったのです。ですから、愛を通して母と父の骨の中を掘って入っていかねばならないのです。統一教会に、そのような原則と一致することができる内容が欠如している時は、統一教会を捨てて違う所に行かなければなりません。率直に話せばそうです。統一教会を捨てても、そのような内容を備えた所を探していかなければなりません。‘事実、そうです。’と言える所を探さねばならないのです。
統一教会に来てみれば異常だというのです。男性も女性も先生を見れば、どうしたら良いかわからないというのです。
最近は先生が直接指導することはありませんが、昔には先生がたくさん悪口を言われ、うるさく言われたので、ついてくる者たちを切り捨てました。今もそうです。しかし、夜を明かしてみ言に酔って話をすれば、彼らも酔います。先生が気分の沈鬱な時に話をすれば、彼らも沈鬱になり、先生が調子に乗って話せば、彼らも調子に乗ったのです。皆さんもそうですか?そうでないとすれば、皆さんが偽者か、私が偽者か、二つのうち一つです。先生が偽者でなければ、皆さんが偽者だというのです。二つとも偽者ならば、皆さんも死ぬようになり、先生も死ぬようになるのです。
男も自分の父母を思い出す時、涙が出るでしょう?着るものもなく、食べるものもなく、苦労する父母を考えれば、息子として果たすべき道理を果たせなかったので、ただ、涙が出るのです。
(1968.11.20.子女の日はどのような日か)
み言(真理)・人格・心情(愛)の実体になれ
そのため、終わりの日に我々が、この罪悪世界に、悪が繁栄しているこの世界に、真の真理のみ言を探すことができない、この地上にサタンが順応することができない、神様だけが占領することができる一つの真理を探しておかなければならないというのです。この真理で、世の中にある、真理と反対にある数多い思想を我々が審判しなければならないのです。
天地を代表した真の立場、すなわち、サタンの手が及ぶことができない真理に立脚した基準に立って、悪が繁栄することができる足場になっている悪の理論を打ち破らなければなりません。サタンを審判するのはもちろんで、地上にある全ての理論を打破してしまわなければなりません。
そのためには、神様の権限を代身した、神様が立ててくださる人格者にならなければならないのです。真理と一体になった人格の基準が立てられるようになる時、初めて社会悪を審判することができるのです。それによって、神様が願い、目的とされている勝利の個人、家庭、氏族、民族、国家、世界へと復帰されていくということを知らねばなりません。
そのために、我々がいう真理の審判が終わりの日になければならないのです。真の真理を中心として、その真理から外れる全ての悪の理論を審判しなければならないのです。その次には、神様が立ててくださった本然の人格基準を中心として、そこに符合しない世の中的な人格基準を審判しなければならないというのです。その次には、真理と人格が一体化した、それによって神様の心情を代身して、神様だけが共にいることができ、愛することができる基準を立てて、世俗的な全ての愛を審判しなければならないというのです。そうしなければなりません。これは、復帰路程において必然的な与件であることを知らねばなりません。
そのために、皆さんは神様を代身して、変わろうとしても変わることのできない、消そうとしても消すことのできない、確固たる、不同な勝利の化身体となって、神様と心情一体化した立場に立たなければなりません。そうすれば、霊界にいるサタンたちを追い出すことができると同時に、地上にいる悪の基盤を追い出すことができるのです。このような責任を成すことができる権限を持たない限り、皆さんは天地の前に勝利的な主管者になることができないことを知らねばなりません。
万一、我々がそのような立場に立ったならば、神様は全体の権限を持って保護せざるを得ないのです。我々が望む通りに成されざるを得ないのです。我々が行動したことは、何人も奪うことはできません。我々が抱いて、愛するその愛は永遠な愛にならざるを得ないのです。
このような立場に立つようになる時、初めて、完全な勝利の主管者になることができることを知り、世界人類の前に新しい福地を建設していく勝利的主管者になるために努力しなければならないのです。
(1966.1.1.勝利的主管者)
み言審判、人格審判、心情審判を経てこそ神様の息子になる
審判の中には何の審判があるのか?み言審判があるのです、み言審判。アダムが堕落した原因は何か?み言を知らなかったのです。神様のみ言の内容を知らなかったというのです。そうでしょう?取って食べてはならないという、その内容が何なのか、よくわからなかったのです。このように、たいへんな結果になることがわからなかったのです。そのみ言の内容を知らなかったし、その次には、自分自身の内容を知らなかったのです。人格的な基準を知らなかったのです。そして、み言の過程に失敗して、人格の過程に失敗して、その次には心情、愛の過程で失敗したのです。この3代の過程で失敗したので、我々は、神様の真のみ言において勝利しなければならないし、神様の真の人格において勝利しなければならないし、神様の真のみ言の愛において勝利しなければならないのです。3大審判条件を越えていかねばならないのです。
では、み言を聞いて、その次には、何をすべきか?外に出て伝道しなければならないのです。サタンが反対して叩いて、打ってきたとしても、サタンの誘惑だとか、環境の困難に、自分の人格が行ったり来たりしたら行けないのです。わかりますか?絶対不動でなければなりません。天地の億万のサタンたちが反対したとしても、“私はお前を屈服しても余りある。歴史的な失敗が、お前によって生じたので、歴史的なこの怨讐を、お前の全体の群れに対して、私は踏みつけ上がっていくべき義務がある!”と、ならねばなりません。そのような立場で、それがイエス様の3大試験に該当する問題であり、イエス様もそのように戦ったのです。
その次には何か?愛において・・・。愛を中心として見れば、孝子がいて、愛国者がいて、忠臣がいて、その次には、聖人がいるのです。孝子が何か?家庭において神様の代身である父母の為に生きるのです。忠臣が何か?国において神様の代身である王を愛するのです。聖人が何か?国ではなく、世界において神様を父母よりも、その国の国王よりも、もっと侍らなければならないのです。これが聖人の道理です。
そのために、今日、数多い宗教の教祖たちは、どんな人たちなのかといえば、神様を主とする人たちなのです。民族のための人たちではないのです。ですから、民族の背反を受けて行かねばならないのです。忠臣の道理というのは、国家のためのものであり、民族のためのものです。孝子の道理は一族のためのものです。家庭と一族のためのものなのです。
そのため、聖人の道理に行くことができる立場に立たなければ、神様の息子になることができないのです。世界と人類を愛さなければなりません。人類と世界を愛するにおいては、神様のみ言を中心としてサタンよりも優れなければなりません。世界のどのような人間よりも優れなければならないのです。真理を中心とした、そのみ言によって先頭に立った人が絶対的なみ言によって立てられた代表者が聖人なので、その聖人の言葉を後代の全ての人類は信奉しなければなりません。そして、数多い聖人たちは全部、宗教を信じる人たちです。イエス様もそうでしょう?釈迦もそうでしょう?全部、神様主義です。孔子も、マホメットも同じです。
こうして、歴史の版図において歴史的な背景が違い、文化的な背景が違う人たちを、全部、糾合させておいて、再臨時代において一つの中心的なメシヤを中心として、この全てのことを収拾して、統一の世界へ越えていくのです。これが神様の歴史なのです。神様の復帰歴史救援摂理の歴史なのです。ですから、皆さんが祝福の場に出るということは大変なことなのです。
そして統一教会に入ってくれば、原理をパスしなければ、原理のみ言を中心として伝道しなければならないのです。伝道をするにおいて、愛を持って、迫害を受けながらみ言を宣布するということは、一度に、この3つを越えていくことを意味するのです。わかりますか? 「はい。」 み言審判過程を完結して、人格の審判の過程・・・。サタンを屈服させなければならないのです。
(1978.11.7.既成祝福と血統復帰)
変わらない基台の上にみ旨を立てようとされる神様
イエス様の悲しみは12弟子がイエス様のみ旨を受け入れることができないことであり12弟子を代身した3弟子がイエス様の心情を察することができないことでした。死を前にしたイエス様の悲しい心情が今日一つの恨として残っていることを皆さんは知らねばなりません。
それでは今日、皆さんはどのようにならなければならないのか?皆さん自身がペテロとなり、ヤコブとなり、ヨハネとなり、3人が一つとなって、主の前に誰が離そうとしても離すことができない一つの模型を備えておかなければなりません。そうしてのみ、ゲッセマネの園で祈祷したイエス・キリストの悲しい心情の前に、はじめて立つことのできる資格者になるのです。このみ旨を復帰するために立った私たちなので、このような四位基台の組織を作らなければならないのです。
それでは、イエス様はどうして3弟子を連れられたのか?アダム家庭においてアダムが代身した方がイエス様であり、アダムの3人の息子を代身したのがイエス様の3弟子でした。このようにイエス様はアダムとして来られたのです。ペテロ・ヤコブ・ヨハネは、カインアベル・セツを代身する弟子たちです。イエス様はこの地に来られて3弟子を立てて相対を探し、8人の食口を形成して、アダムとノアの8人家族型を復帰する使命をなそうとされましたが、そのみ旨を成すことができずに独身で亡くなられました。
それ故に、新郎新婦の名を残しておいて2000年間苦労してこられました。その後、今日この時までこの原理的基準、すなわちアダム家庭でアダムを中心とした3人の息子の基準をこの地の上に立てることが、最後の摂理のみ旨として、この地に残っているのです。
今日、私たちの教会において男3人、女3人、このように三位基台を作りました。なぜ、このように作らなければならないのかというと、将来、主に侍るべき私たちにおいては、アダム家庭でのアダム夫婦と彼の3人の息子と3人の嫁の型を代身することのできる模型を備えなければならないからです。
それ故に、この3人が一つにならなければ、また破壊する恐れがあるのです。特に、3人の男が一つにならなければなりません。死のうと生きようと霊的に一つになって、体で一つになることができなければなりません。そして、ある時間的な限界圏内の基台ではなく、時間性を超越した主体的な一つの型を備えなければなりません。そうでなければ、もう一度来られる主の前に立つ面目がないということを皆さんは知らねばなりません。
万一、3人が一つになってみ旨を代身することのできる原則的な足場を作ったならば、つまり、天が変わったとしても私たちは変わらないという覚悟を持った三位基台になっていれば、天はこのような基台の上でみ旨を成されるというのです。
このような内容を備えるために、皆さん方を中心として三位基台を組みました。そして三位基台を造成する時においても、皆さんは3つの三位基台を中心にして10人が団結しなければなりません。なぜならば、三位基台は主を中心にしてゲッセマネの園で祈祷した3弟子を代身すると同時に、アダムを中心とした3人の息子の型を探し立てる形態にもなるからです。また、3つの三位基台を中心にして班を作るのは何の意味があるのかというと、縦的に見ればアダムからノアまで10代を代身するのであり、班長は2人の責任が12人の型を備えることだと見ることができます。
これはまた、ノアからヤコブまでの12代を代身する型であり、歴史的な面、すなわち、縦的な面においては10代と12代を代身できる型です。ゆえに、縦的な2000年歴史を代身できる縦的な12の型を備えたので、ヤコブの12子息を代身する数の人さえ一つになれば、2000年の神様の摂理の目的として探していたノアの家庭を復帰すると同時に、ヤコブ家庭型を復帰することができるのです。このように3班が合わさって1組となり、1組は36数、36人を代身するようになります。
これは、ヤコブにおいては12子息、モーセにおいては12支派、イエス様の12使徒を表示するのであり、6000年の歴史的な代表を合わせたものを象徴する数が36数だというのです。
それで、男36人(36数)が一つになれば、6000年の摂理歴史過程で探そうとした中心メンバーを縦的な型としても備えることができ、横的な面でも備えることができるのです。このように重大な責任と使命が36人にあるのであり、ここには重大な意義があるのです。
男36人、女36人を合わせれば72人になります。それでイエス様を中心にして70門徒がいたのであり、モーセを中心にした70長老、ヤコブの70食口がありました。それ故に、イエス様と70門徒、そしてイエス様の新郎新婦が合わされば72人になるのです。今日、天地の度数を合わせなければならない使命が私たちにあるので、私たちが峠を越えなければならないのです。
(1958.1.3.三位基台の意義)
3回以上試験を受けなければならない信仰路程
皆さん、三位基台に属した3人がお互い心を合わせることを知らないとすれば、それではいけません。そのような人は天国に行けません。統一の理念はここから始まります。3人の心を合わせることを知らなければ、天国に入ることはできません。入門もできません。天国見学もできません。また、3人が一つになって、これを単位にして、12人の心を合わせて一つにならなければならないのです。3班が合わさって1組となり、この1組の36人が団結すれば、サタンもどうすることもできないのです。誰も壊すことができません。
世の中で3人が合わさればできないことがないのです。我々の教会は8人の食口が動かなければなりません。どんなに大きな迫害を受ける教会でも、指導者とその婦人、そこに3人の男と3人の女が合わさった8人の食口が一つになれば、誰も壊すことができません。これが鉄則です。このような復帰型を各自が備えるべき使命があるが故に、三位基台を組みました。天の歴史もこのようになります。1人を立てておいて役事するのではなく、3つ以上立てておいて2人を打つのです。終わりの日に韓国に恩恵の役事が始まる時にも、このような原則で成されるようになるのです。
天は必ず3人を立てておいて1人を選び出して使うのです。韓国の実情もこのようになっているのではありませんか?終わりの日も必ず、天が立てられたペテロ的な存在ヤコブ的な存在・ヨハネ的な存在、このように3弟子の使命を成す人が出ます。その中の1人がいない2人は壊れやすいのです。しかし3人が一つになれば壊れません。今日、神霊的な人たちが行こうとして途中で壊れる大部分の原因はここにあります。
私たちがサタンを撲滅して、神様の怨恨を解いて差し上げようとするならば、末端の食口まで一つにならなければなりません。そうすれば、サタンは耐えられないのです。これが歴史的な形において天地の運命度数にもぴったり合うのです。1点を中心にして四方性があるように、東西南北があり、春夏秋冬の4季節があります。四方をもう一度、12方に分ければ、東側にも3、南側にも3、北側にも3、西側にも3になります。このようにイエス様を中心として12数が立てられれば、東西南北と春夏秋冬の完全なる四方性を備えることができるのです。
イエス様を中心にして見る時に、ペテロヤコブ・ヨハネは春型、すなわち、1月・2月・3月を象徴するのです。彼らが12ヵ月を過ぎ、一つの軌道でイエス様を中心にして同じ軌道で円を分けていたならば、イエス様は亡くなられることはなかったのです。
春型である3弟子の後には、10月・11月・12月がありますが、これはサタンが侵犯することのできる空間があるということを意味するのです。3大試練の根拠もここにあります。
10人が一つになろうとするとき、そこには必ず3人の妨害があります。理由なく憎み、攻撃する群れがあるのです。それ故に、皆さんは3回以上の試験を受けなければならないのです。このような現象は終末の時に起こり、個人の信仰もそのような試験と苦難があり、個人の信仰から家庭単位に発展していく時もそのような試験があり、社会から国家、国家から世界に越えていく時もそのような3大試験があるようになります。それ故に、今日、世界的な終末期において世界人類は3回、天の試験とサタンの試験を越えなければならないというのです。これが、1次・2次3次世界大戦です。個人においても同じです。
今日、我々には、このような核心的な中心型に合うように、各自の基準を備えなければならない責任があるのです。霊界を見ても、12使徒を中心とした24長老がいて、4つの霊門があり、数多い霊人たちがいるのです。地上での季節の運行を見る時も、1年には4つの季節があり、12の月があり、また、24時間があるのです。そして、一つの季節には3つの月があります。このように、天と地は、その運行の法度によって順理的に回っていくのに、人間だけがこれと反対に回っているのです。これが堕落だというのです。これを正しく合わせなければならない責任があるので、イエス様はその使命を成すために、この地に降臨されたのです。そして、今日、聖徒たちもこのような使命を成さなければならないのです。聖徒たちにこのような使命があるように、キリスト教歴史を見ても、3段階の形を経なければならなかったのです。
例を挙げれば、旧教でも新教が現れましたが、新教においても再び、新しい宗教が現れなければならないのです。そして教派を見る時、新しい教派が12教派に分かれて、それが36教派、360教派にまで広がるのです。そのようになれば、終わりの日であることを知らねばなりません。また、国家を見る時、3大国家を中心として、世界は3ブロックに分かれており、これが歴史の終末を経て、越えていくようになっているのです。そして、民主陣営だけではなく、共産陣営も3ブロックに分かれているのです。
(1958.1.3.三位基台の意義)
三位基台を中心として一つになった生活
霊界では数億の霊たちが生きています。その霊たちが、全部、手を挙げて歓迎することができるその理念が、我々が守らなければならない本然の理念なので、今日、地上において十人が一つになれなければ天国に行けないのです。
そうなので、我々は今、他の人に合わせられる代表者になりましょう。今まで、神様は皆さんの心に合わせてきた神様であり、神様には皆さんの世話をする責任があったというのです。
このような原則があることを知り、皆さんは強く決意しなければなりません。3ヶ月に一回づつ三位基台を変更する時には、皆さんは誰とでも、一つにならなければならないのです。皆さんは三位基台として結ばれた相手に、“あなたは長い6000年の摂理歴史を巡って巡って何の因縁があって私と会ったのか”と言いつつ、歴史的な運命の出会いとして感じなければならないのです。
そうして3人が一つになって10人が一つになって、36、70人が一つにならなければならないのです。
そのため、このような条件は原理原則を離れては成ることはないし、原則は組織を離れてはありえないのです。これが組織の生命です。このような形態で天地の度数に合わせて、天地の中心と私の心の中心が一つになって回らなければならないし、自分万物世界の運行法度に従っていかなければならないのです。
一日、一日、私の心が天倫を中心として回らなければならないし、一年も、一生も、天倫を中心として回らなければならないのです。そうしてこそ永生することができるのです。
では朝起きて、“今日は誰のために回るのか、天倫のために回るのか”また、出かける時には、“今日は誰のために回るのか、天倫のために回るのか”と、自問自答しなければなりません。その回る足場が三位基台であり、班なのです。これを離れては、生命の足場があり得ないのです。そのため、今回、三位基台を新しく組織しました。ここで問題になることは、どの程度まで天のみ旨を考え、それを生命視して動くのかということです。
(1958.1.3.三位基台の意義)
重要な三位基台
夫婦ならば夫婦がみ旨を中心にして成就していくための議論をしながら生きなければならない。
36家庭の責任が重要だ。立てられたが、勝利の子女として責任を果たしているのかということが問題だ。
霊界が寂しければ地上にそれが反映される。
霊界も地も皆さんの家庭のためにある。皆さんはこの二つの世界を束ねて、天の前に精誠を尽くして捧げなければならない。このような伝統が立てられなければ、天の家法が立てられない。
三位基台の家庭を通して、どのように共同生活体制を成すのかということが問題だ。サタンが思い通りに出入りするようになれば権威的な家庭となり、み旨のための家庭にならない。全ての人たちは、36家庭は素晴らしいと思っている。彼らがこの家庭たちを見て、何を見習うのか?
神様は祖父、先生は父、皆さんは孫の立場だ。この3者が知っていることが同じでなければならない。本来は、先生に家庭生活を報告しなければならない。悪い報告は少しずつなくなり、良い報告は残るようにしなければならない。そうすれば、家法が立てられる。本来、安息日は報告して、8日目になる日は再出発するのである。毎月1日は、全員が家族全部を連れてきて報告しなければならない。
三位基台を中心として生活も一緒にして生活感情も同じでなければならない。3年ならば1年ずつ回って、三位基台の責任を持って住まなければならない。それで天宙主義というのである。家庭天国を成せなければ天国に入ることができない。皆さんは家庭を救うことのできる救世主と同じだ。
生むのは3人生んだとしても、育てるのは1人を育てるように育てることができなければならない。そうすれば心情的な統一をすることができる。先生の心情とアダムの心情、そしてイエス様の心情が一致しなければならない。皆さんもそのようになることができなければ天国に行くことができません。
自分の息子・娘を中心にして3家庭が戦ってはならない。もしそうであれば悔い改めなければならない。一つの場所に住みながら、12方に動かなければならない。
先生のみ言を絶対、生命視しなさい。み言に絶対服従すれば良い。本来、三位基台は3年以上一緒に住まなければならない。三位基台は子供をかえて住んでも同じように感じなければならない。それを煩わしく思えば落第生だ。三位基台の中の一つの家庭で夫が死んでも心配するな。そのような時は、残った2家庭が一緒に責任を持たなければならない。我々がどれほど、み旨から遠い場所にいるか?
第2次7年路程に入りながら、12家庭生活圏を編成しなさい。“カインをアベルのように愛しました。”と、サタンが公認することのできる基準を立てればサタンが離れていく。三位基台の家庭の子供たちを連れて育てるならば、自分の子供よりも2倍、3倍の精誠を尽くして育てなければならない。
三位基台が一つになれずして、どのように世界を統一することができるのか?3つの国が一つにならなければならない。主を愛したことよりもっと世の中を愛さなければならない。先生は3国家、3時代、3主権から迫害を受けた。
三位基台は一つの兄弟だ。ゆえに、この3人が一つになれば、先生を代身して、行事をすることができる。三位基台を忘れて自分の家庭を主とすれば滅びる。
名前だけ先生を代身するのではなく、責任と心情で先生を代身しなければならない。原則は、三位基台の中の一つの家庭が3家庭の生活に責任を持って、2家庭は出かけて伝道しなければならない。
12家庭が一つの型、一つの型、器にならなければならない。お互いを通じて、連絡して会いたくならなければならない。
第2次7年路程のこの1年ももう過ぎ去った。私自身が後退しているのか、前進しているのか、一度振り返ってみよう。
(1968.10.20祝福家庭の責任)
中心家庭を中心として三位基台が一つになれ
それでは、この三位基台は今からどのようにしなければなりませんか?三位基台を中心として、その家庭の中で代表になることができる家庭を選ばなければなりません。その家庭を絶対的な天の家庭として神様が理想とした家庭であり、先生の家庭を代表した家庭なので、その家庭の命令に絶対順応できる伝統を立てておかなければならないのです。そして三位基台を成した家庭は教会を指導するにおいて、どのような教会の指導者よりも忠誠を果たさなければなりません。また、物質管理においてもどのような人よりも質素でなければなりません。これから、体系化された組織を備えた社会制度と経済的な体系を備えることが、我々の理念が指向する社会なのです。
ですから合わせたものを二つに分けておけば、これは発展しますか、後退しますか? 「発展します。」 主体と対象が完全に授受すれば力が生じます。また、力が生じるようになれば、繁殖するのです。すなわち、ここにおいて主体と対象が授受すれば、善が決定されるのです。善が決定されるために、善の繁殖が生じるようになるのです。
天地の法度を中心として見る時、我々、祝福家庭がどれだけ重要な責任を持っているのか、はっきり知らねばなりません。祝福家庭は直系の系統です。祝福家庭が腐敗しない限り、我々の世界はこのような原則によって、原理に立脚した組織が編成されるのです。主権がなくても、世界のどこでも、我々の国は形成されるのです。アメリカにいる祝福家庭を中心として、これから制度化させるでしょう。これが原理の組織です。
これから皆さんは、先生が中央の本部にいるといって、本部に依存するのではなく、その地方を中心として細胞分裂のように分裂しなければなりません。何か問題が生じれば、中心となる家庭の指示を受けなければなりません。なぜかといえば、その家庭が、先生を代行することができる権限を付与されたからです。
では天国はどこから成されるのか?我々の家庭から成されるのです。我々は何主義か?家庭主義です。我々が標榜する天宙主義は、天の家主義なのです。このようになってこそ、天宙というみ旨がはっきりするのです。
そして聖書66巻は、全部、理想的な家庭を願ったみ言なのです。また、万民が願うのは何か?理想的な家庭だというのです。男として生まれて一番願うのは、理想的なかていだというのです。そうですか、そうでないですか?そうでないという男は人間ではありません。また、女性として生まれて一番願うのは、理想的な夫を迎えることなのです。
女性がどんなに博士となって世界で有名になったとしても、その願いは理想的な男性に会うことなのです。愛することができる理想的な男性に合って、福多い子供を生むことなのです。これが幸福の根なのです。このような家庭に統一教会の教理を打ち立てたので、それを引き抜く人はいないのです。
統一教会の理想は遠い所にあるのではありません。出発も家庭であり、結論も家庭なのです。今まで、このような問題を解決した人がいなかったので、それを願ってきたのです。そして、そこに幸福があるので、これを体系化させて、天宙化させて、無限の価値を発揮したので、統一主義が公認されたのです。したがって、この主義を嫌がる人はなくなり、全てが頭を下げるようになれば、世界は自動的に統一されるのです。
皆さんたちは理想的な男性がどこで育つか考えるでしょう。天下に数多い男性がいますが、私が愛することができる理想的な男性はどこにいるのかを考えるのです。皆さんは一人だけをよく培うのです。このような原則を中心として発展していかなければなりません。
そのために三位基台を中心として教会において模範になることができる人、経済舞台において模範になることができる人にならなければなりません。お金に支配されたらいけないのです。お金に支配された民族と国家は滅びるのです。また、自分の家庭と個人の欲心を満たすために国を欺いたならば、その家庭は滅びるのです。わかりますか?
今まで地区長、地域長たちに全部任せたので、本部の承諾もなく、お金を使いましたか、使いませんでしたか?そうすれば滅びるのです。
その滅びるのを防ぐためには仕方なく二元化しなければならないのです。二つはできないので、分けておいてしなければならないのです。そして二元化したことを知って、これから地区長、地域長たちは管理問題に格別に関心を持たなければならないのです。言行と心の姿勢、そして信仰生活など全ての面において外れないように管理しなければなりません。
これから代表的な家庭を選定する時が来るのです。地区ごとに一つの家庭を選定すれば、その家庭を中心として三位基台を作らなければなりません。永遠に共に生きることができる三位基台を中心としていかなければならないのです。
そこから、地上天国が生まれるのです。それが、原理的な世界なのです。そのよう地上天国を成すために歴史は発展してきたのです。共産党が党を絶対視するのも中心を中心とする面において一理があるのです。党のために死に、党のために生きるというのは一面、一理があるのです。
皆さんが地方でこのような原則を中心として、その使命と責任を完遂しなければならないのです。自分が祝福を受けて、これから後代の前に、天地の前に中心家庭になるために準備していかなければならないのです。
これからの、この時代において、神様の前に正常的な責任を負うことができる堅固な基盤を、自分の家庭を通して成していく心を持って行かなければならないのです。そうしてこそ、原理を中心とした生活法度から外れないということを肝に銘じなければならないのです。
(1969.10.18.体恤的な信仰人)
一つになるべき三位基台
皆さん、三位基台があるでしょう?三位基台は助け合うようになっています。三位基台の3人の中で、一人の夫が死ぬようになれば、三位基台がその家の生活を責任持たなければなりません。これから、3つの家の生活を一緒にするのです。一人で生きるのではありません。これから、時が来れば、3つの家の生活を一緒にするのです。
3兄弟が一つになれなかったのが堕落でしょう?そうでしょう?3人が一つになれなかったことが堕落なので、復帰原理にしたがって3兄弟が一つの生活をして一つになることができなければ、天国は絶対に成すことができないのです。
女たちは妖邪のような時があるでしょう?その妖邪のような女性たちが、これからは、反対に妖邪のようでなければならないのです。女たちは、全部全て新郎の小さい人形としてのみ生きようとするでしょう?この思想を崩壊しなければ、世界的な統一の伝統を立てることができないのです。わかりましたか? 「はい。」 皆さん方は、これを知らなければならないのです。家族が一緒に暮らすことができないのは女たちの故なのです。今日、この滅びる世の中・・・。舅姑が嫌いだという嫁たちは将来、悲惨な姑になるのです。そうではありませんか?これは、お互いが悲しみを介在させることなので、全部、反対に変えなければなりません。
皆さんたちが、三位基台の3人の夫人たち同志で一つにならなければなりません。それで、今一つになるように訓練しているのです。将来は、12家庭が一つの家で暮らさなければなりません。その次には、120家庭、あるいは1200家庭が、全部、一つの家で暮らすのです。一つの町内で住んでいてもケンカしてはならないのです。もしもケンカしたならば、族長会議を開いて、ケンカした人たちの尻を打つ時が来るというのです。ケンカするのは、とんでもないことです。将来、このような時が来るというのです。
そのような伝統を、千歳万歳の歴史を動かすことのできる伝統を立てるべき時が、現在、真の父母と共にいきるこの時代だというのです。わかりましたか?この時代に、そのような伝統を立てることができなければ、大変なことになるのです。わかりましたか?もし、この時代にそのような伝統を立てることができなければ、どのようになりますか?滅びるでしょう? 「はい。」
ここに、史吉子がいるけれど、劉協会長と金元弼と金栄輝は三位基台ですが、私が気分悪いことは、劉協会長が死んだ後に一つの家で暮らしたことです。死ぬ前に一つの家で暮らさなければならないのです。
万一、3家庭の中に一つの家庭でも、子供を生むことができなかったならば、子供を生んだ家庭が、生むことができない家庭に、子供を生んであげなければならないのです。そのようになっています。万一、妻たちは皆いるけれど、2つの家庭の夫は死んで、一つの家庭の夫だけが残って子供が一人もいなければどのようになりますか?皆さんはそのようなことを考えてみましたか?どのようにしなければならないのかということを?皆さんはみ旨を知っているって何を知っているの?全員全て・・・。
自分たちの夫婦だけでも一つになって暮らすことができないのに、3家庭が一つになって暮らすことができますか、できませんか?夫婦だけでもケンカしながら、暮らしているのに3家庭が一つの家で一緒に住むことができますか、できませんか?
「できません。」 絶対的に住むことができません。そのように不合格になるので、新郎の小さい人形たちは一つになりなさいというのです。それで、人のために一つなっていきる訓練をしなさいというのです。近い将来、アパートを建てようとしているのもこのためです。
皆さんは全部、家庭的に訓練していくのです。将来、家庭的に訓練するアパートが生じてくるのです。文化住宅、アパートです。7家庭以上、適合する生活をすることができる家を作るというのです。それで、何ヶ月ずつ入って共同生活をしながら、文化生活をすることのできるそのような訓練住宅、アパート修練所が生じるというのです。わかりましたか?
皆さんは全員すべてその訓練所を通らなければなりません。そのアパートで3世帯が一緒に住むのです。ご飯も一緒に食べて、勉強も一緒にするのです。父母を中心として、8人食口になれば天国に入るでしょう? 「はい。」 8人の食口になれなければ、天国に入ることができますか?
父母と三位基台を合わせれば全部で何人ですか? 「8人です。」 この8人の食口が一つになったという基準が成さなければ、天国に入ることができません。これが原理でしょう?原理ですか、原理ではないですか? 「原理です。」 原理ならば、原理通り生きなければならないのです。
(1971.5.6.我々が行くべき道)
三位基台とホームチャーチ
これからホームチャーチは一人だけでせずに、三位基台が主管して全体を動かさなければなりません。全体的な問題において、一緒に対して、活動することができなければなりません。3つの家が集まって自分の責任を成して、共同目的を拡大させる活動は共同管理せよ、というのです。
これが、これから発展すれば、ホームチャーチにおいて・・・。三位基台において最高の実績を持って、天の前に立てられなければならないのです。三位基台を天が指揮することができる形態が作られるのです。そして、30、300、3000、3万...。これが公認させる日には階層が生まれてくるのです。なんのことか、わかりますか?
その次に、ホームチャーチの経済問題はどのようになるのか?十一条から三条にするのです。現在、アメリカの経済問題において経済組織や国家に対する世界組織体を見る時、反対です。7割、8割を全部、奪います。そのようにすれば、これから持ちこたえられなくなると私は見ます。誰が仕事をしますか?世界的に発展するというのに、全部奪えば、仕事をしなくなるのです。そうでしょう?
ですから仕事をしないで生きている人が多いのです。そうでしょう?西洋社会のノルウェイだとか、スカンジナビア半島のほうでは大きな問題になっています。なぜ、深刻なのか?福祉国家にくっついて生きる人たちのために深刻なのです。なぜか?それ自体に間違いがあるのです。ホームチャーチはそのような観点で・・。もちろん、全体が天のものですが・・・。天のものを受けて、このように(十三条)しなければなりませんが、そのような原則をもってホームチャーチの経済問題を解決しなければならないのです。一つは教会のために、もう一つはその国のために、一つは世界のために・・・。皆さんたちがそれを実践しなければならないのです。
(1978.11.27.霊界の協助と我々)
天が印章を与えることができる息子・娘
子女を持った父母がどんなに一国の首相であるとしても失った子息を探すということにおいては、一国の首相としての恥や対面などありません。体面を無視して、威信を無視して、その息子が乞食になっていても、何になっていても、手をつかみ、体をつかんで、慟哭するのです。神様と人間との間で、そのような場面が創世以後、一度もなかったことが、神様の悲しみであり、全万物の悲しみであり、人間の悲しみであるということを皆さんは知らねばなりません。
祭物時代には供え物を捧げて上がってきたし、民族を立てる時には指導者の言葉を信じて、その指導者に従い上がってきました。その時は、指導者に従うことが、即ち、祭物でした。その次には神の御子イエスを信じて上がってきました。今、これからは真の父母を信じなければなりません。真の父の息子・娘にならなければならないのです。今、皆さんは、その道を探そうと身悶えする人々にならねばならないのです。
6000年歴史の理念があったといいますが、これからは、その理念の理論的な結実がこの地上に現れねばなりません。大地をつかんで泣くことができる一人の責任者、民をつかんで泣くことができる一人の責任者、イエス様の事情をつかんで泣くことができる一人の責任者が、いつの日に、この地に現れるのか?
ばらばらに引き裂かれた歴史を、今日、一人の実体が現れて連結させて、宇宙の総合的な歴史の理念を代身した実体が現れて、父と新郎・新婦の魂を泣かせて、全ての民と因縁を結ぶことができる心情を持った責任者が現れて、大地を抱いて泣くことができる心を起こして、その心を誘致させられるようになることを、人間たちは願っているのです。
その一人の存在を、我々は天の代身として侍り、イエス様の代身として侍り、万民の代身として侍り、大地の代身として侍らなければならないのです。そして、彼と同じように、大地を抱いて泣き、大地を愛して、民を抱いて泣き、民を愛して、その次には神様を抱いて泣き、神様を愛することができなければならないのです。そうして神様の悲しい心情が、喜びの心情にならなければならないのです。
そのような皆さんを見て、父はもちろん、三位神や数千万の聖徒たちや、サタン世界の人たちまで、‘正しい!”と言わなければならないし、6000年間、嘆息しつつ所望した真の父母の子息として、歴史的な心情を代身して、天の溢れる悲しみを解怨するのに、誰よりも代表的に立って戦うことにより、サタンに復讐した息子として立てられ、神様の永遠な愛の子女だと証しを受けてこそ、印章を受けることができるというのです。
今日、キリスト教徒たちが言うところの14万4千の群れ…。言葉は良いです。天の印章を受けた息子・娘・・・。言葉は良いです。解怨復帰の条件を造成して、天倫の摂理を代行する天の息子・娘が、彼らの言っているようなものか!知ってみると、天が印章を与えることができる息子・娘は、天の代身として地に対して泣くことができる心情を持たねばならないのです。
民をつかんで泣くことができる苦痛を受けて、悔しい思いをした時も、天倫を代身して、天を代身して耐えることができる人になってこそ、、歴史的に積もる天の悲しみ、人間たちが失敗した全てのことを回復して、全ての試練を克服することができる息子・娘になってこそ、印章を受けることができるのです。
では今日、我々はどこから印章を受けなければならないのか?必ず神様と共に立たなければなりません。神様の心情から印章を受けて、神様の事情から印章を受けて、今日、私の家庭から、社会から印章を受けなければならないのです。父をつかんで泣くことができる歴史的な心情の帰一点を探すその時にこそ、天の印章を受けることができるということを我々は、はっきり知らねばなりません。
(1958.9.14.愛する息子・娘になって印章を受ける者になろう)