目次

第8章 主の前に立つべき新婦の責任

もう一度来られる主の前に出て行くべき新婦の責任

メシヤがこの地上に来る時は、神様の協助を受けて蕩減の歴史と苦労の経路を経た後に来ますが、行かれる時は自由に行くことはできません。では、どのように行かれるのか?個人として家庭を連れていかなければなりません。家庭だけ連れていくのではなく、氏族も連れていかなければなりません。氏族だけ連れていくのではなく、民族と国家も連れていかなければならないのが、メシヤの使命であることを皆さんは知らねばなりません。来る時も苦労してきますが、行く時においても神様の協助を受けずに、神様を代身して苦労の責任を背負って開拓しながら行かなければならないのです。なぜか?堕落したためです。その堕落は誰のためか?神様のためではなく、アダム・エバが責任を果たせずに堕落したのです。それによって、6000年の歴史が絡まってしまったので、そのアダムを代身して来られる主様は、これを再び解きほどく仕事をしなければならないのです。

この仕事をする時は個人を中心にするのではありません。個人を中心にしてできれば簡単ですが、個人が一人ですることではなく、歴史的な勝利の基盤を持ってきたの前に召されて出て行くことのできる新婦のようにならなければなりません。その新婦も歴史的な勝利の圏に一致しなければならないのです。歴史的な勝利圏に立つ新婦にならなければならないということはどういうことか?サタンが讒訴できる立場に立つ新婦になってはならないというのです。サタンの讒訴を受けない立場の新婦を準備しなければならないというのです。そして、その新郎と新婦が思いのままにするのではなく一つにならなければなりません。アダム・エバが堕落して離れる時に逆さまになりました。サタンが最初であり、エバがその次、アダムがその次、万物が一番最後になったのです。

それ故に、上がっていく時においてもアダム・エバが並び合って上がっていくことはできません。皆さんはそれを知らねばなりません。アダム・エバが並び合っていくことができないならば、誰が前に立たなければならないのか?サタンと闘わなければならないアダムの立場にいる主が、前に立って責任をもって、その相対となるエバは主に絶対的に従順となって、主が行かれる足跡をそのまま踏んで従って行かなければ、解放を受けることができないということを知らねばなりません。そうして新郎と新婦が横的関係左右関係ではない前後関係に立って完全に一つにならなければならないのです。

それでは新郎である主をどのように考えなければならないのか?神様・父の代身として考えなければならないし、その次には兄の代身として考えなければならないし、新郎として考えなければならないというのです。アダムは神様を中心として造られたので、実体を使った神様、すなわち神様の体になるべき立場にいるので、神様と一体となる体の立場にいるので、その方は父と同じ立場であり、兄の中の兄の立場にいるのです。それ故に、その方を父として侍り、兄として侍ることのできる因縁を備えた後に初めて新郎の因縁を結ぶことのできるようになるのです。すなわち、アダムが生まれた時、神様の息子として生まれて、エバの兄として生まれたので、このような実体として来られる主は新婦の前に父を代身して新婦を保護する責任があるのであり、その次には兄として妹と同じ立場にいる新婦の行く道を行かなければならないのです。親の愛と兄の愛、二つの愛を全て体験した場所に立つエバと共にはじめて新郎新婦の因縁を結ぶようになっているのが、本来の創造原則です。

これを考える時、今日この地上に堕落した人間たちが願う新郎である主が来れば、その主を中心にして現れなければならない新婦たちはどのようにしなければならないのか?その方は父の代身であり、兄の代身であるという心情的因縁を結んだ後に新郎として迎えなければならないのです。これが復帰の原則だということを知らねばなりません。

堕落した立場に立つエバが主を新郎として迎えるためには父として侍らなければならないし、また兄として侍らなければならないのです。このような過程を通って...。その方が父であられるので私は孝女の立場に立つべきであり、その方が兄なので私はどんな困難があってもその兄に従っていかなければならないのです。

父母が行く道の前に反対となる立場に立つことのできないのが兄弟の因縁です。アダムはもちろんのこと、エバもそのような立場にいるのです。従って、アダムが死の場所に行くようになれば、エバもその道に従って行かなければならないのです。子息たちが死の道に行く時には、父母も死の場所に行く苦痛を感じるのです。これが今日、私達が心情を中心にして、父母の心情や兄弟の心情を中心にして感じることであることを考える時、神様と私たち、あるいはイエス様と私たちの立場というのは父と息子の立場であると同時に、父と兄の立場であることを皆さんは知らねばなりません。

(1971.5.5.受難の頂上で)

我々はイエス様の思想を模範としなければならない

イエス様はたとえ一人の男にしか過ぎなくても、その心の中は神様の恨が一杯入っていました。そして、イエス様の心は神様の恨だけではなく心情までも体恤できる場所にいました。イエス様が神様に怨恨をこびりつけた怨讐に対して闘う時は、自分個人の相手の立場にいる怨讐と闘うのではなく、天地に残っている世界的で宇宙的なサタン主権の舞台をおいて、これを責任を持つという立場で出て闘ったことを皆さんは知らねばなりません。

神様の立場がそうなので息子である立場で怨讐と闘う時は世界的な怨讐と闘って、その怨讐を屈服させるという決意を持って神様が信じることのできる場所に立ったイエス様だったのです。もう一度言えば、苦痛にぶつかった時は神様の苦痛を代わりに受けて、責任を持つ時は神様が持たれる責任を代わりに持って、闘う時においては神様を代身して世界に残っているサタンを処置してしまうという心で、これを生きて成し遂げられないが死んで成し遂げることができる望みがあれば、死ぬことは当然だと考えて、その道を選んでいった歩みが、イエス・キリストの歩みであったことを皆さんは知らねばなりません。

このようなことを考える時、今日、我々個々人はイエス様の思想を模範としなければならないのです。イエス様の新婦の場所に立つべき我々は、イエス様を兄として侍らなければならないし、父として侍らなければならないし、そして新郎として侍らなければならないのです。何故そうしなければならないのか?エバが堕落することによって三つの愛を一度に失ってしまったからです。父の愛・兄の愛・父母の愛、この三つを一度に失ってしまったので、一人の男アダムに対してエバがこの三つの愛を失ってしまったので、蕩減復帰原則によってエバはこの三つの愛を復帰して初めて新郎に対することができるというのです。ゆえに、父として愛することのできる主、兄として愛することのできる主、新郎として愛することのできる主を探さなければならないことが堕落したエバの運命であることを皆さんは知らねばなりません。

この新郎と会うのは、現在この時代に会いますが、新郎と皆さんは歴史的な出発も違い、背景も違い、内容も違うというのです。女性が嫁ぐようになれば、新郎の家門の道理に従い、その家門の伝統を手本としなければなりません。また、新郎が行うことに歩調を合わせなければならなし、そして心情生活において新郎といつも友人にならなければならないのです。新郎が悲しい時、新婦が喜ぶことはできないし、新郎が苦しい時、新婦が安息できる立場に立つことができないし、新郎が悲惨な時、新婦が幸福な場所に立つことができないのです。新郎が悲惨であれば、新婦も当然悲惨であり、新郎が幸福であれば、新婦も当然幸福なのです。即ち、運命が自分の主張によっ自分の気ままな心によって決定するのではなく、新郎によって決定する場所が新婦の場所なのです。

新婦をおいて見ると、新婦は新郎をよく迎えたのか、よく迎えることができなかったのかに従って出世が左右します。どれほど立派な女性だとしても、一度新郎をよく迎えられなかったとすれば、その立派な光が現れません。新婦の運命は夫の運命と同じ立場に立つので、新婦がどれほど立派だとしても夫の運命に従っていくようになるのです。夫の運命から離れていくようになれば、新婦になることはできないのです。これを知らねばなりません。

それでは、皆さんの前に新郎として訪ねてくる方はどんな方なのか?父の立場で訪ねてこられる方であり、兄の立場で訪ねてこられる方です。私とは完全な兄妹の情で結合した、誰も否定することができない、彼と私は兄と妹の間柄であり、彼は我々の兄であるという、世の中で自分を生んだ父親が否定しても否定することができず、あるいは兄が否定しても否定することができない、そのような境地に入っていかなければなりません。

(1971.5.5.受難の頂上で)

サタンと戦って勝利すれば長成級に上がっていく

心情世界で新郎の因縁を備えなければ神様の心情的基準を復帰することができません。このようなことを知るようになる時、ふと見れば新郎のようであり、ふと見れば兄のようであり、ふと見れば父のような3段階の、3種類の、3分野の愛を体恤しなければ帰っていくことができないのです。何を中心にしてそうしなければならないのか?自分を中心にするのではなく神様を中心にするのです。

堕落したそのままでその立場にいるのではありません。そのようになるためには先ず新郎が持つ目的観がはっきりしなければなりません。彼は新郎の立場にいるので、彼の苦労は即ち私の苦労であり、彼の運命は即ち私の運命でなければなりません。絶対的に統一された運命圏内で、父として兄として新郎としての3種類の愛を感じることができて初めて、アダム・エバが堕落しない圏内に立つようになるのです。それ以上の場所から堕落しないアダム・エバが持っていた心情的な出発の因縁を復帰することができます。このような事実を皆さんは知らねばなりません。

今日、統一教会でいう真の父母とか、真の子女とか、真の夫婦という言葉は、この地上に生まれ、そして逝った誰の言葉よりも、人類の前に福音中の福音であることを知らねばなりません。福音中の福音です。今日、真の父母が現れるまでを考えてみなさいというのです。(以下、板書されながら)人間が堕落することによって、ここから落ちてこの場所まで来たので、ここまで上がっていかなければなりません。この場所で父母になることはできないのです。堕落圏をおいて見る時、長成圏内に上がっていかなければならないのです。

長成圏内に上がるためにはどのようにしなければならないのか?サタン圏と闘って長成的な立場で勝利しなければなりません。この長成的な立場が何かというと天使級の立場です。この天使級の立場で勝利しなければならないというのです。天使級で勝利できる圏をつくろうとすれば、この場所に立っているだけではいけません。これを全部、すべて占領しなければならないのです。このように左にサタン側天使長圏があれば、ここに天の側の天使長圏をつくらなければなりません。つまり、霊界が神様を中心にして思い通り上がったり下りたりできる基盤を備えなければならないのです。

ここから原則によって新郎新婦となれば、この場所までは上がっていくことができるのです。けれども中心にはなれないのです。これは再臨主が来られて復帰役事をすることができる基盤となるのです。そして、主が地上に来るためには霊界を統合して勝利しなければなりません。そうしなければ来ることができないのです。そうでしょう?霊界の勝利圏を備えてはじめて地上に来るのです。

霊界の勝利圏を備えて地上に来れば、地上にいる人たちが霊界と共に絶対的に一つとなって出ていかなければならないのです。ところが、人の心は朝夕変わるという言葉にあるように人々は行ったり来たりしながら、朝に変わり夕方にも変わるのです。そのように変わるようになればどのようになるのか?サタン圏が侵犯するので、上がっていくためには壮絶な闘いをしてサタン圏を占領しなければなりません。そして、そこに対しての防備策を準備してはじめて上がっていくのです。このような闘いをするのです。

(1971.5.5.受難の頂上で)

行けば行くほど加重する受難の道があることを知れ

今日の統一教徒の皆さんたちをおいて見ても、このみ旨の道が行くほど良くなればいいでしょうが、行けば行くほどますます加重される受難の道があるというのです。それゆえに、行きながらも、行くことができないというようになるのです。考えてみてください。一番最初に出発した時より易しくなっているのかといえば易しくなっていません。そうでしょう?個人復帰がどれほど大変なことか?6000年かかったのです。それなのに家庭復帰がどれほど難しいか?死ぬ覚悟をしなければ家庭を復帰することはできないのです。これを皆さんははっきり知らねばなりません。

数多い宗教を中心にして見る時、結婚を認定せず独身生活をしなさいと強調するのは堕落前の天使長の基準と堕落前のアダムの基準を復帰するためのもので、これは一つの堕落前のアダムを探すためのものでした。このようにして、ここに相対が許諾されれば、許諾されたその相対はどのようにしなければならないのか?絶対的でなければなりません。行ったり来たりしてはいけないのです。死んでも私の郎君であり、生きても私の郎君だということのできる場所で昼も夜も、青春時代から老年時代まで、そこに他の男や他の女がいるはずがなく、ただひたすらアダムはエバだけであり、エバはアダムだけという考えを持って一つにならなければなりません。家庭がこのようにして一つになったとしても、それで終わるのではありません。その次には氏族を復帰しなければなりません。そのようになっているでしょう?

個人復帰よりも大変なことが家庭復帰です。家庭が一つにならなければなりません。家庭を一つにする為にはどのようにしなければならないのか?その家庭が二つの世界に侍る家庭だという時には半分に分けなければなりません。そうすれば成されるのではないですか?家庭を中心にして左側は切ってしまわねばなりません。氏族を中心にして左側がなくならねばなりません。左側がなければ、上がっていくことができるのです。そうすれば、だんだん上がっていくことができるのです。

今日、統一教会の教徒たちが思想的に退廃して、とても危険な傾向を見せています。60年代に皆さん方が個人的に闘った時には、死んでも行かなければならないといって、ご飯に飢えたり、悪口を言われたり、迫害を受けても何の問題も起こらなかったのに、祝福をしてあげたら、場所を定めようとする弊害があるというのです。場所を定めようとしてもいいのか、というのです。場所を定められたならば、どれほどいいでしょうか?神様もそのようにしたい心がどれほど懇切ですか?けれども場所を定めれば滅ぶのです。滅びるというのです。場所を定めるようになっていますか、なっていませんか?それで個人復帰より家庭復帰がもっと大変だというのです。妻と夫と二人で世の中で離別する以上の悲しみをつかんで、み旨の恨をつかんで涙をぬぐう立場に立たなければ、神様の認定を受けることのできる夫婦になることができないというのです。愛する夫婦が離れなければならないとき流す涙以上にみ旨の恨を解いて差し上げるために涙を流して、その時に悲しさを感じる以上に神様の恨を解いて差し上げようと決意することのできる夫婦とならねばなりません。“お前と私はこのみ旨のために生まれたのであり、このみ旨のために存在するので、これを解決しなければ生きようとしても生きることができず、死のうとしても死ぬことができない者たちである”という夫婦にならなければならないのです。

自分が楽に生きようというのですか?皆さんが楽に生きれば、氏族は誰が復帰して、民族は誰が復帰して、国家は誰が復帰して、世界は誰が復帰するのですか?誰がしなければなりませんか?“神様がしなければならないでしょう。”と言うかもしれませんが、人間が堕落したので人間を通して成さなければならない復帰摂理なので、人間が責任を持たねばならないのです。これを誰が責任を持たねばならないのか?アダムがこのようにしたので、アダムが責任を持たねばなりません。千秋の恨を私一身が背負っていく仕事があり、天地の恨を私が背負っていく恨があったとしても、その責任を果たさねばならないのです。神様がしてはならないのです。誰がしなければならないのか?アダムがしなければなりません。アダムの立場に立つ夫婦であって、祝福家庭ではないのです。それなのに、場所を定めていいのかというのです。子供を生むようになれば、避難の風呂敷包みを代わりに背負っていくべき子供だということを知らねばなりません。

我々は国がなく定着地がありません。天から地の上に決定的な基盤を、安息の場所を相続することができないのです。子供に避難の途上で乳をあげなければならない悲しみが、神様の口惜しく恨めしい気持ちであることを感じながら、自分の子供を中心にして流す涙と共に神様を慰労して差し上げなければならないことが、我々子女たちが行くべき孝の道であることを知らねばなりません。

(1971.5.5.受難の頂上で)

受難は現在より良い立場を開拓しようとする時ついてくる苦痛

このような観点で見る時、新婦の立場にいる皆さん、家庭を持つ皆さんはいずれにしても復帰路程を突破して行くべき運命にあります。我々の願いは統一することです。心と体が一つになって、夫と妻が一つになって、息子・娘と氏族が一つになって、氏族と民族が一つになって、民族と国家が一つにならなければなりません。これが統一です。

このような基準を立てようとして、今年の年頭標語に“統一基盤確保”を立てたのです。統一基盤は、個人から家庭・氏族・民族・国家基準まで開かれれば確固に立てられるのです。神様がはじめて統一することのできる主体的な基準は、国家を中心にして立てるのではないか、というのです。皆さんはこれを知らねばなりません。

皆さんが行かなければ誰が行きますか?統一教会の教徒たちが行かないならば誰が行くのですか?既成教会が行きますか?この国の人たちが行きますか?統一教会が行かなければ滅びるしかないのです。子供が問題ではないのです。

子供を15人位生んでおけば、15人の涙が父母に害を与えるのです。駄々っ子をたくさんつくればつくるほど、その駄々っ子がむしろ怨恨の涙を害を与えるのです。それで先生は統一教会の教徒が多くならないことを有り難く思います。なんのことかわかりますか?60年代よりも統一教徒たちがもっと多くならないことを有り難く思うというのです。その代わり我々が一つにならなければなりません。

私たちが氏族の形態を備えて涙を流しながら民族を訪ねていく時、その民族が訪ねていく私たちを見て涙で感謝するようになれば、私たちの勝利的基盤が広くなっていくことを知れというのです。反対して怨讐のように対していた既成教徒たちが、皆さんの精誠のこもった態度に感化されて涙を流しながら迎えることのできる環境になれば、天下を屈服させることが私の懐の中で起こることを考えなさいというのです。男がそのようになれば、私が世界的な代表として天使長を屈服させることのできる栄光のチャンスだと考えろというのです。

このように、反対した群れたちが歓喜の涙で迎えることのできる道を開拓してはじめて、復帰の天国を成し遂げることができるのです。天の国に行く道にはそのような伝統がなければならないという事実を考える時、この伝統を立てるために来られる主はどれほどかわいそうであり、彼に従う群れはどれほどかわいそうであり、彼らを導かなければならない神様はどれほどかわいそうであるかというのです。

死の道でも、誰も解くことのできない怨恨の窮地でも私たちが一つになれば、サタン世界、あるいは地獄に行ってもその地獄を突き抜けていくことができ、地獄を征服することができるのではないかというのです。皆さんはこれを知らねばなりません。それらを願って先頭に立っていかなければ、復帰の路程をいくことができないのです。私自身が受難の頂上に上がっていかなければならない、また、氏族の中でも氏族の最高の受私自難の道を私が責任を持たなければならない、というような思想があれば、その思想が天の国を早く成し遂げることのできる思想であるというのです。私が民族の前においての代表的な受難の道を行こうという思想があれば、その思想が民族を救うことのできる代表的な思想であるというのです。それゆえに、復帰の頂上は受難の頂上を通らなければ上がっていくことができないということを知らねばなりません。

それでは、受難とは何か?現在よりも良い立場を開拓しようとするとき、ついてくる苦痛です。現在の立場を開拓して、もっと良い立場に出ていこうとすれば、必ずそこに比例して苦痛の代価を払わなければならないのです。

(1971.5.5.受難の頂上で)

復帰の道は死んだ人を救うための道

それゆえに、復帰の天国の前において、歩いて行く私たちが復帰の過程を通って天国に到着するまでは、行く道が決して平坦であるはずがないというのです。10年の間に行くのか、20年の間に行くのかを決定する時、“20年もかかるととても遅い。10年で行かなければならない。”と考えると20年で行く苦痛の2倍を受ければ、それだけ短縮することができるのです。

そのようにすれば、私たちの後孫たちが千年の恨を晴らしておいて解放の息子・娘として、父の栄光となる息子・娘として天の国に行くことのできる群れとなるのではないかというのです。今日、この場所は当代の何倍の受難の代価を払うことによって将来近づく受難を減少させて蕩減することのできる苦労の航路を行くべき場所なので蕩減の場所、復帰の場所は受難の頂上に立たなければ成立しないということを知らなければなりません。

それでは、今日の統一教会がどれくらい上がってきたのか?民族を中心にしてこの仕事をしてきた統一の一族は過去のユダヤ教に該当するのです。既成教会がなぜ神様の恩恵圏から離れるようになったのか?それは統一教会を民族を代表することのできる蕩減圏に参与させるための神様の愛ゆえです。なんのことかわかりますか?既成教会が統一教会より高い場所にいれば、既成教会が民族を代身することのできる蕩減の場所に立たなければならないというのです。けれども、既成教会から神様の恩恵が離れることによって統一教会が表立ったので、その国は統一教会が責任を持たなければならないのです。それゆえに、氏族的圏内にいながら民族的使命を果たすことができるのではないかというのです。これも神様の愛なのです。

ここから私たちは既成教会を踏んで上がって蹴飛ばしていくのではなく、連れて行かなければなりません。死んだ人を救うための道が復帰の道なのです。私たちが足で踏んで越えていけば、既成教会が私たちの足を引っ張るようになるのです。その時に既成教会を蹴飛ばしていくのではなく、死地にいることを教えて悟らせて共に行かなければならないのです。それゆえに、今日皆さんに既成教会を伝道しなければならない問題が起こるのです。

(1971.5.5.受難の頂上で)

国がない民族がどれほどかわいそうか知っているか

私たちがこのような場所に上がってくる時まで、どれほど多くの受難の代価を払ってきたのか皆さんは知らないのです。私たちは昼も夜も、失ってしまった祖国回復の為に、エデンの天国に向かっていくジプシーの群れです。村もなく住む家もありません。雨が降れば他の場所に引越しをしなければならないし、あるいは他の数多い民族たちが襲撃すれば、財産を全て捨てて裸で避難しなければならない身が、私たちの身の上だということを皆さんは知らねばなりません。それゆえに、私たちはへこたれず...。

イスラエル民族をみて見なさい。2000年の間、流浪の民だったその民族が、今ようやくエルサレム聖殿をつかんで背負う罪を許して下さいと訴えるのは、国を持つことができない民族がどれほどかわいそうであり悲惨であるかということを歴史的過程から感じたからです。彼らは死の恨があっても、国の主権を持って死ななければならないことを知ったので、主権を侵害する何かの勢力があれば命をかけて飛び出していくのです。それゆえに、20倍近いアラブ圏と対処しても勝利の版図を広げて世界的な国家を形成しているのです。それがイスラエル民族だというのです。

彼らが何を知ったのか?国のない民族は悲惨であるということを知ったのです。同じように皆さんも、国のない民族がどれほど悲惨であるかを知らなければなりません。神様である父を主権者の中心として侍り、栄光の天国をつくって万民が父の命令の前に立って天の栄光を賛美することのできるその日を迎えなければならないことが、地上に生きている我々統一信徒の使命であることを知らねばなりません。

皆さんは国を失った悲しみにぶつかってみたことがないと思います。先生はそれを良く知っています。大韓民国が日本統治下で喘いでいる時、先生も日本帝国に対抗して闘ったことがあります。その時のことを考えると、民族的な立場から見る時、国のない民族がかわいそうであることを感じました。さらに、神様のみ旨を中心に見る時、神様を中心とする主権の基盤がどこにあるのか?神様がとどまることのできる跡形も、因縁もないこの索漠たる園に、そのようにできる跡形を提示しなければならないのであり、因縁を探し立てなければならないことが、復帰行脚の路程を背負う先生の責任であり、皆さんの責任であることを考える時、先生は皆さんがかわいそうであることを良くわかっています。皆さんもかわいそうですが、先生もかわいそうです。先生もかわいそうですが、もっとかわいそうな方は神様です。

それゆえに、先生も喘ぎの路程を克服しなければならないし、皆さんもその後孫として生まれた立場にいるので、この道に従っていくしかないのです。アダムが行った道を堕落した人類が行き、イエス様が行った道をキリスト教信者たちが行き、先生が行く道を皆さんが行かなければならないことは間違いありません。

父母が受けるその苦痛を共に受けて、父母が処している立場に共に処さなければ子女の場所に立つことができないので、皆さん達も良くても嫌でもその道を行かなければならないのです。皆さんが歩調を合わせるようになれば孝の名を持つことができ、歩調を合わせることができなければ不孝の名を持つしかないのです。不孝の名を持つようになれば、今日韓国にいる三千万の民族に讒訴を受ける時が来るというのです。

むしろ信じなかったならば、むしろ知らなかったならばわかりませんが、知りながらも行かない人は将来三千万の民衆の讒訴を受けるようになり、そして、そのとき受ける受難は今受ける受難の何百倍、何千倍になることを考えなさいというのです。顔をあげようとしてもあげることができず、自分を弁明しようとしても弁明することができない時が近づいてくるのです。このように考える時、死んでもそのような過ちを残してはならないし、この時代に自分の手が断たれても、足が断たれても、命が危険であっても不孝の場所には行ってはならないと、父母が命令すれば命令したその方向に私が行って倒れる恨があっても、行って死のうという心を持って行かなければなりません。そうして初めて、み旨は成し遂げることができなくても、孝子の名を持って死ぬことができるのです。死んでも、そのように死ぬ日には会いたい母、父に会うことができ、そこから悲しい涙で抱きしめて誓うことのできる因縁が残るのです。しかし、難しいといって後ろを向いた日には、千年万年探しても難しい道の因縁がもう一度残るのです。皆さん自身をそのような場所に立ててはならないので、無慈悲で冷たく打つことによって、知らない神様の事情を知らなければならないし、先生も神様の指示を受けて今までこのような道を歩いてきたことを皆さんが知らねばなりません。

(1971.5.5.受難の頂上で)

復帰の道は受難の頂上を走る道

女性である皆さん、今決心する時がきました。婦女子である皆さんたち、今最後の団結をする時が来たのです。民族の恨が私たちの前の道を塞ぎ、世界の恨が私たちの前の道を塞いでいるこの時に、もし夫がここに同調しなければ夫を捨てなければならないし、子供が同調しなければ子供を捨てなければならないのです。そして天の父に侍り、天の兄に侍り、天の願いである新郎のみ旨を抱いていくことがより良いと言いながら行かねばならないのが、皆さんの立場であることをはっきり知らねばなりません。

昨日、先生が地区長たちに何を布告したのか?統一教会の地域長や地区長の中で、このみ旨の道が難しくて行くことができないと言う人がいれば、あかの他人の立場で家に帰っていくなり、自由に行動せよ、と命令しました。行くことができないと不平を言ったり、行くことができないと嘆息して、他の人が皆行けないようにブレーキをかける人は、むしろいない方が良いとみることがみ旨の行くべき道なのです。

皆さんは、皆さんが将来どのようになるのかわからないのです。み旨を成すことが難しくて後退する夫がいれば、皆さんはその男の後ろに従っていく女になるのか、その男を天の側に導く女になるのかという問題が皆さんに掛かっていることを知らねばなりません。

愛の因縁を結んだ夫が、妻が行く天の道を否定して立つようになる時、その夫を怨讐のように思い、手にナイフを持って復讐しようという心情を持たなければ行くことができない道が、皆さんの前に置かれているということを知らねばなりません。

それで、今日、先生が皆さんに言いたいことは、復帰の路程は受難の頂上を走る道だということなのです。皆さんは先生の前に願いを置いて、他の何物も願うな、というのです。国を探すまでは、皆さんの前には、加重された悲惨な受難の道しか残っていません。それが、先生が責任を持っている復帰の運命であることを皆さんが知らねばなりません。このような決意をしなければ、先生と呼ぶことができない皆さんになるのです。先生と皆さんはどっちみち別れるのです。

一人が決心する時において、天が感動する場所で決心し、その決心に天が共にいらっしゃる時に私たちは滅びないというのです。絶対滅びないというのです。どれほど、周囲に堅固に取り囲んだ怨讐の矢が私たちを狙っていたとしても、私たちは滅びないのです。これは、今まで生きてきた先生の生涯が証しているのです。

先生は皆さん以上に悲惨な場所を歩いてきて、皆さん以上に十字架の道を歩いて来ました。皆さん以上に悲惨な路程を一人で責任持って、よろよろしながら坂道を歩いてきた先生です。怨讐が先生を蹴飛ばして転がしてしまうこともできそうしたい心もあったでしょうが、蹴飛ばすことはできませんでした。怨讐が蹴飛ばせば、神様が上から捕まえて、もう一度行くことのできる道を開いてくださったので、先生が今まで来ることができたのです。

皆さんは、世の中の他の誰かを信じるのではありません。先生が他の誰かを信じるのではなく、天を信じてきたように、天の行くべき道を信じなければならないことを知らねばなりません。世の中の誰かを愛するのではなく、神様を愛さなければならないのです。世界にない愛の道を探していくので、世界にない受難の道を行かなければならないのです。これが原則ではありませんか?

(1971.5.5.受難の頂上で)

受難の頂上で後ろに退くのか飛び越えるのか

今ここで、皆さんたちは各自が決意しなければなりません。過去を冷静に批判して現在の立場を直視しながら、明日の本望をどのように成し遂げていくのかということを皆さん自身が決心しなければなりません。他の誰かを信じる時ではありません。

ただし、皆さんの前に約束できることは、皆さんはみ旨の前に立って離れる時、背を向けなかったならばわかりませんが、先生に従いながら背を向けるようになれば、かえって先生が行く道の前に物乞いにさえ与えず小さいひさごまで壊してしまう結果になるのです。

因縁を結ばなかったならばわかりませんが、因縁を結んでいて背を向けるようになる時には、サタンが讒訴するようになり、民族が讒訴する条件が残るというのです。先生はそのような悲惨な運命を皆さんの前に残したくないので、皆さんたちの後孫が讒訴する条件を残さないように、現在の立場は無情で不人情であらざるを得ないのです。

しかし、その無情な中でも誰よりも心情的に、皆さんが想像もできない天の愛を持って皆さんの後ろを守って天の福の因縁を与えるために苦労している師がいて、父母がいらっしゃるということを考えれば皆さんは幸福だというのです。先生には父母もなく、友人もなく、兄弟もいませんでした。先生は助けてくれる人のない孤独な身でしたが、皆さんは兄弟がいて、父母がいて、友人もいるではないかというのです。

もし、皆さんが、そのような立場でも行く道を行くことができずに背を向けるようになれば、その父母の前に、友人の前に、兄弟の前に讒訴を受けるその道をどのように越えるのかというのです。むしろ地獄に行く方が良い・・・。栄光の天国が、そのような人の前に現れれば現れるほど、その栄光の天国は彼にとってむしろ苦しみの刺激剤になるのです。そのように考える時、そのような悲惨な人にならず、堂々とした人になるためには...。

人が生きても何百年も生きるのではありません。長く生きても50〜60年しか生きられない余生を、み旨の前に一つに束ねて捧げて早く死ぬことのできる道に向かって突進する道が一番良い方法だと考えていかなければなりません。そのように行く道の前には、受難の道が早い解決の道だということを考えて、もう一度決意をするべき時点に置かれていることを皆さんは知らねばなりません。

それで私が皆さんに尋ねたいことは“受難の頂上で後ろに退くのか、それとも受難の頂上で、もっと加重された受難を飛び越えるのか?”というのです。どこまで行かなければならないのかということを、皆さんが考えてみなさいというのです。私たちは民族を超えて国家まで行かなければなりません。この道は死のうと生きようと行かなければならない道です。行かなければ滅びるのです。

(1971.5.5.受難の頂上で)

夫と子息の代身として民族を愛しなさい

イエス様が死ぬことによって神様に恨が残り、イスラエルに恨が残り、全ての万物に恨が残りました。私たちの路程は、この恨を解くための蕩減路程なので、皆さんはイエス様以上にならなければなりません。先生以上にならなければならないのです。

私がこのような言葉を言うようになってはいけませんが、女性たちが苦労しても、どれほどしますか?皆さんがどれほど苦労したとしても、牢獄に入ることはありません。法廷に立たせられて十字架を背負う死の道はありません。

しかし、イエス様の受難の道には牢獄が前に待っていたのであり、十字架の死の道が待っていたのです。先生が行く道にも牢獄が待っていたのであり、宗教者たちが先生を殺そうと計略をして落とし入れようとした死の道が前を覆っていました。しかし、皆さんには死の道が待っていないというのです。これを考えてみる時、皆さんは神様の前に厳粛な場所にいるということを考えなければなりません。皆さんたちが、死の道を行かなければならない使命を持っているにもかかわらず、逆に新郎となる方たちが代身して死の道を行ったのです。このように許されない婦女子たちの贖罪の人生をどのように生きて、贖罪の因縁をどのように解くのかという時、天と地を暴いても解く道がない罪人の中の罪人であり、罰を受けても最高の罰を受けなければならないと感じなければならないのが、皆さんが処している妻の場所ではないかというのです。

どれほど皆さんたちが統一教会で伝道して、どれほど夜寝ないで近所で伝道したとしても皆さんを捕まえて殺す人はいないでしょう。その弟子がイエス様に対して面目がなく、先生に対しても面目がないのではないかというのです。

それゆえに、今日、1200人という皆さん女性たちが団結して、個人個人は無力ですが、内外とも心情を中心として、3大愛の因縁を持ったそのような立場を中心にしていかなければなりません。夫の代身として民族を愛し、子息の代身として民族を愛しなさいというのです。先生が先ほどは父であり、兄であり、夫だと言いましたが、民族が皆さんを眺めてみて、母、姉だと敬うことができる立場に立たなければならないのです。

サタン世界にいる男たちが、自分の妻より皆さんをもっと愛することのできる因縁を捕まえなければ、復帰が成されないのです。皆さんは皆さんの夫以上に彼らを愛しまして、自分の子息以上に彼らを愛して、母の因縁を決定して、あるいは姉の因縁を決定しなければならないのです。そして、彼らが自分の妻よりも皆さんをもっと愛したという立場に立つようになれば、皆さんは受難の道を脱することができると同時に、皆さんを愛する彼らが天の前に引き込まれてくるのではないかというのです。

このことが先生を中心にして皆さんが、皆さんを中心としてこの国が関係を結んで発展しなければならない路程なので、皆さんは十字架の頂上に立っているというのです。先生は皆さんを十字架の祭壇の上において、祭物を捧げる祭司長の立場なのです。皆さんをつかまえて祭物を捧げなければならないのです。アダムが万物を祭事として祭物を捧げたがごとく、エバである皆さんを祭物として捧げなければなりません。昔はエバが祭物になることができませんでした。今まではエバは夫に従ってきましたが、蕩減復帰を世界的にするこの時においては、夫がエバを天の前に祭物として捧げなければならないのです。これが、最後の峠の歴史なのです。このことが大韓民国を中心にして起こりますが、それは歴史上初めてのことであり、前にも後にもなかったことなのです。

(1971.5.5.受難の頂上で)

民族の為に受難の頂上で祭物となる覚悟で

ここで祭物となる女はどんな女か?夫のいる女です。夫のいる女たちをつかまえて祭事を捧げるというのです。世界の家庭の夫を代身して奪ってから祭物を捧げる立場なのです。世界の夫たちが反対する立場にいるので、反対しない立場にいる夫たちがいて初めて世界が生きることができるのです。そうではありませんか?それゆえに皆さんを死の場所に追い出さなければならないのです。先生がもっと無慈悲で、もっと冷たくしなければなりません。祭事に事情を見てあげていいですか?

このような立場を考えてみて、受難の頂上で民族の運命と世界の運命を選り分けていかなければならない、一人の女人の身を皆さんが知らなければなりません。この国、この民族に千年万年、歴史的な因縁を残すべき責任が私の体に掛かっている事を考えて、イエス様が十字架を背負ってゲッセマネの園に行ったのと同じく、静かに命を推し量る立場で息苦しい歩みが継続する道を、民族が屈服するまで行くべき責任が皆さんにあるということを知らねばなりません。

イエス様が復活圏を成したことと同じく、万一、皆さんの精誠を捧げた涙と精誠を捧げた心情で解放圏が成し遂げられて初めて、地上に天国が開門するのではないかというのです。そして皆さんが解放される時には、皆さんと共に皆さんが抱いていた子息と、皆さんが抱いていた夫と民族全体が復活するのではないかというのです。イエス様と一緒に死んだ弟子がいたならば、イエス様の復活と共に彼を復活させられたのです。これが神様の原則です。ところが、イエス様を捨てることによって弟子たちは復活できなかったではないですか?

それと同じように、皆さんも先生をつかんで一緒に死ぬことのできる心を持つようになる時、皆さんが死ぬようになれば復活の恵沢が与えられ、皆さんの復活と一緒に皆さんの夫と子息も復活することができ、もう少し進んで民族と国家が復活するということを知って、最後に残った十字架の道と最後の頂上で受難の道を甘受し、最善を尽くしてこの道を最後まで越えていくことを願います。受難の頂上を逃避しようとするものは天の反逆者になるのです。皆さんの夫と後孫に讒訴を受ける母となるこの苦しさを、どうか皆さんの一代に残すことなく、備えられる一時を力強く希望を持って、そして意味深く送り、有終の美を飾ることを願う心で“受難の頂上で”という題目でみ言を伝えました。わかりましたね? 「はい。」 それでは間違いなくこの道を行くという人は手を挙げてみてください。下ろしてください。

(1971.5.5.受難の頂上で)

新婦は復帰された世界から最も近い場所にいる人である

それでは愛はどこから出てくるのか?母の腹の中から先ず先に、母の愛から受けるのです。子供を中心にして相対的な愛を先ず与える人は母です。父も愛しますが、子供が腹の中にいる10ヵ月の間大切に抱きかかえて、けがをしないように傷つかないように愛する心をもって、言葉も気をつけて、生活も気をつけて、全ての態度も端正にして胎教期間を通る過程で、先ず腹中にいる子供を自分の命よりももっと愛する人が母だというのです。愛は母から始まります。

それゆえに、新婦は愛の世界から最も近い場所にいる人です。堕落した愛において最も近い場所に立つのが人類の中で誰かという時に、女ですか、男ですか?堕落の愛の場所から最も近くにいた存在が誰ですか?男ですか、女ですか? 「女です。」 女だというのです。その女というのは何かというのです。それを話してあげましょうか? 「はい。」

女というものはだね、皆さんが服を作って布が余ればこれを何といいますか?女というのは何かというと余る子と書いて“余子”(韓国語で女のことを女子と書いてヨジャと読む)なのです。即ち、使って余った息子だというのです。堕落したので余(ヨジャ)になったというのです。余ったものです。余ったもの。それで今日まで女は余りものの役をしませんでしたか?それは堕落したからです。そうだといって恨めしく考えないように。女が余った息子として生まれてぞんざいに扱われることは当然ですか、当然でないですか? 「当然です。」 ぞんざいだと言って何の罪を受けますか?罪を受けますか、受けませんか?息子の中で余りものの息子が何ですか?余りものの息子は僕の女だけにしかなれないのです。養女あるいは僕の女だけにしかなれないのです。それゆえに、女というのは養女あるいは僕の女だというのです。姓名がないのです。そのようになるのです。ここで主人に対して恨めしく思ってはならないというのです。

過去に韓国では一人の男が妾をもらっても...。皆さん、妾をもらうことを好む女がいますか?いますか、いませんか? 「いません。」 過去においては、それを気分悪く考えれば、僕として扱われたり、また他の女をもらったりしたのです。けれど女たちは?皆さん、僕にとって良いことは何ですか?また養女のようなものが良いことは何ですか?もらって連れて暮らしてから、つまんで投げてもう一度もらうのです。このように3回ぐらい取り替えても構わないようになっていたのです。気分が悪いでしょう?なぜそうなのかみて見なさいというのです。アダム時代に夫を排斥した女、エバがそうだったでしょう?イエス様の時代にイエス様を排斥したマリア、そうでしょう?再臨主の時代に歓迎できず排斥した女...、そうでしょう?このように、女たちが男たちを排斥したのに、男たちが結婚しなければなりませんか、しなくてもいいですか?男が結婚せずに待っていればだね、男と女が同じ立場で愛そうとすれば、立場が同じでなければならないというのです。したがって、夫を3回捨てた女を連れて暮らせば3回結婚した条件を立てなければ立場が同じにならないのです。何の話かわかりますか?

それゆえに、嫁いだ新婦を探してくるために、新婦がそのように嫁いでいったので、新郎もそのように結婚することによって威信を立てて愛することのできる道を探してこようという、そのような郎君がいるということは堕落した女の前にはありがたく感謝することなのです。女たちは、男が3回づつ結婚して3人の女に対することが苦しいですか、気分がいいですか? 「苦しいです。」 苦しいというのです。それでは、3人の女と結婚して3人の女を連れて暮らさなければならないその男の星回りが良くないですか、良いですか? 「良くないです。」 かわいそうなことは同じです。男がもっとかわいそうです。女に良く会うことができず、その女に幸福感を感じることができず、また、そのようなことをせねばならない男が幸福ですか、不幸ですか?不幸なのです。

そのような過程において“女の罪を私にすべて被らせて下さって、万国の女性たちが解放されるようにして下さい。過去・現在・未来の数多い女性たちが解放されるようにして下さい。”と神様の前に福を祈り、神様の前に涙を流しながら祈祷する女がいるときは、その後孫からはそのようなことがなくなるというのです。ところで、神様の前にそのように祈祷して生きる女がいますか?新しく入ってきた女を怨讐視して“神様、あの女に病気を与えてください。私の胸をこのように裂くその狐のような悪賢い人に罰を与えてください。”という女は多かったのです。自分の愛を全てわたしても、福を祈ってあげることのできる女は、女の中の大王になるのです。そのような女の後孫を通して、復帰された新婦を探すことのできる道がありますが、今までそのような伝統的な歴史がなかったというのです。

(1971.5.6.我々が行くべき道)

み旨に従おうとすれば苦労する覚悟をしなさい

愛は永遠を中心として計画することなので、昨日良いと言って今日悪いと言うことのできるようなものではなく、十年前に良いと言って十年後に悪いと言うことのできるようなものではありません。死の場所でも良いとしなければならないし、死んでからもまた良いとしながらいくべきものが愛の法度です。このような、永遠の愛を中心にして結んだ誓いの基盤が夫婦なので、夫が牢獄に入ったならば、婦人も夫と同じ運命の道を行かなければならないのです。そうではありませんか?夫が唾を吐かれたら、その婦人も唾を吐かれなければならないし、夫が民族の前に追われたならば、その夫人も追われなければならないのです。それは、かわいそうなことではないのです。それを、当然受けなければならないものとして考えなければならないのであり、それを恥ずかしく考える人は、その人の女になれないのです。

万一、牢獄に入った夫がいて、その夫人が夫の行く道に従わず、“アイゴー、牢獄なんて何てこと?私は嫌だ。”と言って反対して風呂敷をもって、自分勝手に出ていった女がいたとしましょう。その夫は、み旨を抱いた夫だったというのです。月日が繰り返しすぎていくにしたがって、その夫の威信が国に聞こえ、世界に聞こえ、歴史に輝くことのできる聖人として名前が上がるようになったならば、その時にその夫の前に反対をした女は歴史上に二度とない醜女・悪女として審判台に上がるのです。そうではありませんか?万一、そのようになって、人が死ねば終わりならばわかりませんが、永遠に生きるならば、その女は霊界に行ってどのようになりますか?考えてみてください。そのようになるかもしれないというのです。

聖進オモニも、そのような女になるかもしれません。現在、そのようになる立場にいます。先生が行く道を、それほどまでに反対することができるのかと思うほどでした。ひたすら昼もなく夜もなく反対し、これも反対し、それも反対し、あれも反対しあれこれ反対し、自分がしたいように全てしたのです。先生を見てこの道を行くなと言いながら、指を噛み、引っかき、それでも駄目なので自分のゴムの履物を裏返して頬を打って・・・。私は激しく女からぞんざいに扱われた人です。蕩減復帰をたくさんしたのです。また、ご飯に毒薬を入れたい心を持って作ったご飯も食べてみました。そうだとすれば、男の身が偉大でしょう?そうなのに、幸福な男ですか、不幸な男ですか? 「不幸な男です。」 不幸な男について来て、幸福なことが何がありますか?今になって考えて見る時に、聖進オモニが良くやりましたか、良くやりませんでしたか?もし聖進オモニが死んでもともに死んで、生きても共に生きることができるようになっていたならば、死ねと言えば死に、苦労をしろと言えば苦労をして、そのように行っていたならば、先生も苦労をしないのです。このような悲惨な道は通らなかったのです。復帰の道は簡単なものだったのです。そうではありませんか?

エバが誤ったことによって、3時代の逆境を通ってきたのです。縦的な歴史を3時代に横的に清算しなければならないので、強い苦難の多い女によって厳しい苦難を経る十字架の行脚をもう一度手探りをしてきたのが、今までの先生の路程でした。女ゆえに悪口をたくさん言われました。女を考えれば非常に嫌気がさすのです。嫌気が。皆さんに対する度に・・・。それゆえに、私が皆さんたちを聖進オモニよりももっと愛するのです。皆さんたちをもっと愛さなければならない心を持つのです。だから、ここに来て皆さんと話すのであり、そうでなければ話すことが何がありますか?ただ、ぶん殴りたいのです。

私が復讐しようとするならば、全部ずたずたに引き裂いて、粉を作って肥料を作りたい思いさえあるのです。そのように染み透っているというのです。しかし、それを全て許さなければならないので、全部忘れて生きるのです。それで神様は、そのように女たちが反対をしても、それ以上のことを持って与えようとされるのです。そうでしょう?孤独な統一教会の文先生なのです。それで、皆さんが苦労した話を聞くようになれば、胸がおかしくなるのです。先生の側に一緒にいたいし、先生の側になりたい心が起こってくるのです。そうなれば良いというのです。動機がそのようになるのでそうなのです。それゆえに、皆さんは聖進オモニ以上にならなければ、先生が行く道に従っていけないというのです。わかりましたか?

それでは、先生が聖進オモニをこれからどれくらい苦労させれば、オモニの使命を果たすことができるのかという時に、苦労の中の最も苦労をして、捨てられた中で最も捨てられた立場に立たなければなりません。人類を代身してエバを許すために、捨てられた立場に立たなければなりません。そうでなければ復帰ができないというのです。愛の因縁を結んでも捨てられた立場に立つことができなければならないのです。捨てられた場所でも感謝することのできる女になってこそ、母として女性世界の全てのことを蕩減することができるというのです。

ところが、捨てるといってぶんぶん音を立てて、捨てるといって騒ぎ、捨てるといって腹いせをすれば全てのことが破綻してしまうのです。そのようなことが起こってくるのです。それゆえに、皆さんはそれ以上にならなければならないでしょう? 「はい。」

(1971.5.6.我々が行くべき道

真の父母の真の息子娘が行く道

皆さん、統一教会に入ってきて真の父母のみ旨がそうだとすれば先生が一番いいですか?少し一番いいですか? 「一番いいです。」 少し一番いいという言葉はないですね。一番いいと言わなければなりません。私の眼を抜き出したとしても、真の父母に従っていかなければならないし、私の腕よりも真の父母が良いので、私の腕を一つ切ったとしても、真の父母に従っていかなければならないというのです。“真の父母を切ってしまいますか?腕一つ切ってしまいますか?”という時には、何を切ってしまわなければなりませんか? 「腕です。」 腕を切ってしまわなければなりません。それでは、皆さんは腕を切ってしまうことができるようになっていますか?なっていますか、なっていませんか?

では、皆さんに、“お前、統一教会を信じるか?信じるならば腕を切ろう”という時に、皆さんは腕を切っても統一教会を信じますか? 「はい。」 足を切っても信じますか? 「はい。」 鼻を切っても信じますか? 「はい。」 耳を切っても信じますか? 「はい。」 このようになれば変な人になるのです。(笑い) そのような人がいるというのです。 その切った腕、足は黄金に輝くというのです。太陽のように輝くというのです。それは栄光となるのです。

そのように、父母の道を行くのにおいて、怨讐達が前で行くなと反対をして、自分の四肢百体を全部切ってしまったとしても、父母に従っていき、父母を敬う女がいるとすれば、その女は孝女ですか、そうではありませんか? 「孝女です。」 孝女なのです。そのような孝女がいなければなりません。それでは孝子は?そのような孝子がいなければならないでしょう?孝子、孝女は何人必要ですか?孝子が一人、孝女が一人、二人だけいればいいのです。父母二人と、子供二人、このように四人だけいれば、み旨が成し遂げられるのです。

では、統一教会は何人いればみ旨が成し遂げられますか? 「四人です。」 八人です、八人。八人いれば、み旨が成し遂げられるのです。そのような家庭を中心にして一つにさえなれば、時代が過ぎていくほど、どんどん繁殖するのです。統一教会の祝福家庭たちを見れば、息子・娘たちをたくさん生んだでしょう?家庭の伝統は真の父母を中心にして、また真の父母の息子・娘を中心にして真の父母の孫の伝統を立てなければならないのです。

それでは皆さんは先生が腕を切って売ろうといったら売りますか、売りませんか? 「売ります。」 本当に売りますか? 「はい。」 それでは、腕を切って売る時に左の腕を切って売りますか、右の腕を切って売りますか? 「左です。」 違うのです。そのような人は落第です。父母の命令ならば。自分の最も良いものまでも父母のために犠牲にすることができれば、真の孝子、孝女になることができるのです。世の中でも、夫は捨てることができ、妻は捨てることができても、父母は捨てることができないでしょう?父母に従っていく道は、夫も捨てていかなければならない道であり、妻も捨てていかなければならない道です。そうでしょう?それが孝の道です。

皆さんたちはそのような覚悟ができていますか? 「はい。」 皆さんたちの新郎もそのような覚悟ができているでしょうか?皆さんは“私が新郎を捨てても、新郎が私を捨てるのは嫌だ”と言ってはいけません。(笑い)“私もそうであり、あなたもそうでなければなりません”と言わなければならないのです。

夫婦がお膳を前にして座って、妻は“あなたはみ旨のために、父母のためならば私を捨てても行かなければなりません。”と言わなければなりません。わかりましたか?夫もやはり、“あなたはみ旨を敬い、父母のためならば私を捨てても行かなければなりません。”と言わなければなりません。そして息子・娘たちは“真の父母のみ旨を立てるために、お父さん、お母さんは真の父母の伝統をよく立てなければなりません。”と言うことができなければなりません。このような息子・娘を持てば、これが将来、天の国の伝統になるのです。わかりましたか?

真の父母が涙を流した歴史があれば、その涙は母、父の涙となり、後孫たちの涙にならなければならないのです。これが伝統です。わかりましたか?真の父母の怨讐がいれば、その怨讐は私たちの怨讐であり、私たちの後孫の怨讐とならなければならないのです。そのようにならなければならないのです。わかりましたか?これを皆さんははっきり知らねばなりません。

(1971.5.6.我々が行くべき道)

真の父母に従っていく正常的な方法

私たちが天国に入るためには、真の父母を通らなければなりません。真の父母を通らなければ入ることができないのです。そのようになるのです。そうでしょう?それで真の父母が出てきたのです。真の父母が出てきたならば、真の父母を中心にした真の家庭が生じてくるのです。サタン世界でもこの真の家庭まで上がって行くためにここから出発するのです。闘ってこれを全部すべて否定しなければなりません。

皆さん、今、世の中ではフリーセックスといって性解放問題に対してあれこれいっています。そのような時に入ってきて、どこに行ってもそのような風潮が広がっています。男と女が道端で、お互いつかまえてキスをすることも普通なのです。特に、アメリカのような国に入ってみると、公園で男女が互いに愛するところをたくさん見ることができます。動物たちのようにです。私たちは今、このような風潮圏内に住んでいるのです。これがサタン世界の思潮です。

淫乱で蒔いたので、淫乱で結実する時だというのです。これを知らねばなりません。わかりましたか?死亡の動機を淫乱で植えたので、淫乱で結実する圏内に入るのです。皆さんは侵犯を受けないようにしなければなりません。そのようなことに、染まらないようにしなければなりません。なんのことかわかりますか?将来、このような圏内の世界を分けて覆しておかなければ、統一世界は成し遂げることができないというのです。

ここからは自分が開拓すれば発達していくでしょう?そうでしょう?(板書されながら)私たち統一教会は逆さまに降りていきます。このように逆さまに降りていきますが、統一教会が偉大なことは何か?真の父母の伝統が残ることのできる歴史的な道、神様が今まで蕩減復帰摂理歴史をしてこられた道があるでしょう?すなわち、アベルからノア、アブラハム、モーセ、イエス、先生の時代にまで降りて来る蕩減路程があります。蕩減してくるでしょう?逆さまに上がっていくことをするのです。

そのためには、どのようにしなければならないのか?その時代の世の中と全部反対となる生活をしなければならないのです。そうでしょう?この世の中で良いとすることを第一に避けて生きなければならないのです。真の父母の道を従っていくのに最も必要な方法であり、正常的な方法が何か?世の中の人たちが喜んで生きれば、私たちは悲しく生きるのであり、世の中の人たちが良く過ごせば、私たちは悲しく過ごすのです。そうでなければ、その道を行く事ができないのです。わかりましたか?

そのようにしてどこまで行かなければならないのか?皆さんは真の父母を中心にして、これを続けて脱していかなければなりません。世界から脱して、また脱してままた脱していけば、後にどこにかかってくるのかといえば、皆さん自体にかかるのです。(板書されながら)自分にかかるというのです。後には自分自身にどのように勝つのかということが問題なのです。毎日のように変わる世の中に住んでいますが、自分自身は毎日のように変わる人になってはいけません。毎日のようにああだこうだという世の中に住んでいますが、私はああだこうだといってはいけないというのです。ここに引っ掛かるようになっているのです。

皆さん見てください。皆さんは、神様が皆さんを愛することができるようになっているのか、愛することができないようになっているのか、ということを静かに考えてみてください。皆さん、ああだこうだと言いますか、言いませんか? 「いいます。」 言うでしょう。そのようにする人が孝女ですか、忠臣ですか、烈女ですか?その心が一片丹心ですか、二片丹心ですか?何ですか?ああだこうだということは二片丹心だというのです。

(1971.5.6.我々が行くべき道)

真の父母に侍ることによって救いを受ける

誰が、皆さんを死ぬようにしたとしても揺れるなというのです。子供が死んでも、この世の人のように泣いてはならないというのです。すべてこの法度を立てなければなりません。最後になれば自分に勝たなければなりません。それで、先生は今まで“宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい”という標語を掲げてきました。自分に勝つことが難しいというのです。

先ずは自分の体に勝つことが難しく、その次には自分の愛の対象、愛する人を中心に勝つことが難しいのです。神様を中心にして見る時、神様はどんな場所にいらっしゃるのか?栄光の場所にいらっしゃるべき神様が、苦痛の場所にいらっしゃる神様になりました。栄光の神様が何の神様になりましたか?苦痛の神様になりました。誰ゆえに?私たちゆえに。

苦痛の人間が栄光の人間に帰っていくためには、蕩減しなければなりません。それ故に、苦痛を受ける神様の心情を慰労して差し上げなければ、栄光の人間に帰っていくことができないのです。そうでしょう?神様の心情に帰っていかなければなりません。

そのようにしようとすれば、神様が涙を流されたので皆さんも涙を流さなければなりません。神様よりも、もっと多くの涙を流さなければなりません。そうすれば、神様が“ああ、もう終わりにしなさい”と言いながら、私たちを止めることのできるそのような場所まで来れば孝子になることができ、神様の因縁を探すことができるのです。これが蕩減復帰の心情です。それで、私たちが復帰の心情の道を行くのです。統一教会はこの道を行くのです。それ故に最後の最後には皆さん個人が問題だというのです。そして、個人がみ旨の前に立った次には何が問題かというと結婚が問題です。そうでしょう?

その個人が問題になる時は、個人がみ旨に従っていかなければなりません。“私は死んでも父母のみ旨のとおりに行く”という場所に立ち、克服しなければならないのです。個人的に克服しなければなりません。その次には、家庭的に克服しなければなりません。父母のみ旨に家庭が従っていかなければなりません。そして、最も最後に真の父母の前に出て子女になったというときは、真の父母から血と肉を受けて生まれた立場に立つのです。そうでしょう?

父母から血と肉を受けて生まれて、その次には言葉を話すことも父母から学ばなければなりません。そうでしょう?ご飯を食べることも父母から学ばなければならないし、行動することも父母から学ばなければなりません。父母から学ぶこと以外の行動をすることはサタンのものです。これを皆さんははっきり知らねばなりません。

それ故に、皆さんはどこに行っても父母に対する関心を持たなければなりません。父母と一つになっていなければなりません。どこに行っても。父母に侍ることによって、救いを受けるというのです。わかりましたか?皆さんの生活もそのようにしなければなりません。よいことを見たとしても、一人で見るのではなく、父母に侍って“本当に素晴らしいです。”と父母に説明する孝子の心を持って生きなければならないのです。ご飯を食べる時にも、美味しいものがあれば父母に“これを召し上がってください。”ということのできる心を持って生きなければなりません。いつも父母と一つにならなければならないのです。

このように、父母の血と肉を受けて生まれた子供が、一生の間父母に侍って生きたという立場に立たなければ、本来神様が創造理想世界として認定された天国に入ることができないのです。これが原則なのです。そうでしょう?私がいるのは父母故にいるのです。

(1971.5.6.我々が行くべき道)

蕩減復帰は何もない場所から

皆さんの現在の立場がエバより良いですか、良くないですか? 「良いです。」 エバよりも良いというのです。皆さんは、背広を来て通う夫を見るではありませんか?エバは、エデンの園で裸になって通っていたアダムを見て暮らしたというのです。そして、皆さんは靴をはいて通う夫を見るではありませんか?エバはエデンの園で裸足で通ったアダムを見て暮らしたのです。全部すべてエバより良いというのです。

それを蕩減復帰しなければならないので、ただその通り復帰しなければならないので、裸足で出発しなさいというのです。それは愛ですか、愛ではありませんか? 「愛です。」 裸足で出発しなさいというのです。靴を脱いで出発しなさいというのです。復帰はこのようにしなければならないというのです。皆さんも同じです。世の中にないことをする、その伝統を模範にしなければならないのではないですか?そうでしょう?牢獄生活をしたので、牢獄生活から出発するのです。

皆さんがいつか一度裸足で大股で走ってみましたか?アダム・エバが仲が良かったならば、二人で手をつないで駆け回りましたか、駆け回りませんでしたか?兄と妹同士、お互い裸のままでそうしましたか、そうしませんでしたか?そのような意味からみれば、裸で踊りを踊るという言葉もいかした言葉だというのです。皆さん、夫婦だけで裸になって思うままに、踊りを踊ったといって誰か何か言いますか?裸で踊りを踊っても、ぼろきれを掛けて踊りを踊っても、エデンの園で誰が悪く言うのかというのです。それが伝統です。

そのように考えれば心配がないでしょう?皆さんは今、心配がありますか、ありませんか?私がなぜ、今日、この話をするのかというと、皆さんが帰っていく時、心配が多いだろうと思うからです。“アイゴー、行こうとすれば車賃がなければならないが、車賃がないなぁ”と心配をするというのです。(笑い)車賃がなければ歩いて行くのです。車がたくさん行ったり来たりするのに・・・。皆さんが、車に乗って行くことのできる方法を、私が教えてあげましょう。皆さん約10人が仲間になって、服を色とりどりに着なさいというのです。その次に、向こうに行ってみると高速道路側に車が休む場所があるのです。その前に行って踊りを踊るのです。

約10人から50人が、そのように踊りを踊るようになれば、トラックの運転手たちがこの姿を見て・・・。後には、トラックの運転手が全員走ってきて、一緒に一度大きく見栄えがするように遊ぶのです。そのように運転手たちと一つになったでしょう?そのようになれば、車が出て行こうとする時は一人一人・・・。挨拶は何の挨拶ですか?ただ車に上がって乗ることなのです。そのように車に上がって乗れば、運転手たちが笑うようになるのであって、憎んだりしますか?ただ、ヒヒヒと笑いながら乗ればいいのです。研究すれば、どんな方法でもあるのです。

また、あるお婆さんがじっと見ると、荷を頭に乗せて大変そうに歩いて行くのです。そのような時は、お婆さんの横に行って“お婆さん、どこまで行かれますか?”と言って、言葉をかけるのです。“私は、大邱(テグ)まで行くよ。”と言えば、“お婆さん、乗せていらっしゃる荷は何ですか?”と言って、貴重な荷のようであれば頼むのです。“私も大邱(テグ)まで行くのですが・・・。”と。その時は大邱(テグ)に行くのです。“私も今、大邱(テグ)に行かなければなりませんが、すっかり忘れて車賃を持ってこなかったのですが、どのようにすればいいのかわかりません。私がお婆さんの荷を大邱(テグ)まで行ってお持ちして差し上げますので、車賃を少し貸して下さい。そして、私が大邱(テグ)に行ってお返し致しますので・・・。”と言いながら車賃を借りるのです。

借りたお金で車に乗った次に、お婆さんの前でまた訴えるのです。“私はこのようなみ旨を中心にして、このようにしてソウルに集合しましたが、私たちは月給をもらう人たちではないので、お金はなく大邱(テグ)は必ず行かなければならないので、お婆さんをつかまえてそのように頼んだのです。”と事実を話すのです。そうすれば、貸してくれたお金を後でくれと言いますか?(笑い)むしろ、昼食代をたくさんもらって“気をつけていくんだよ”と挨拶まで受けて、後にそのお婆さんの家に訪ねていけば伝道もできるのです。世の中はすべて、そのようにしてでも生きていくことが出来るようになっています。

その次には、一日くらい市内を回ってみれば、お金を儲けることは問題ありません。お金を儲けることは問題ないというのです。それゆえに、行くことを心配せずいく方法を研究しなさいというのです。なんのことか、わかりますか?行くことを心配してはならないのです。

(1971.5.6.我々が行くべき道)

皆さんが行くべき道

それでは、先生が牢獄生活をしたので、皆さんも牢獄生活をしなければなりませんか、しなくともいいですか? 「しなければなりません。それでは、強盗をして牢獄生活をしますか?民族を愛すると、身悶えをしなければなりません。悔しくも濡れ衣を着せられて牢獄生活をしたとしても“神様の聖なる歴史的な伝統の因縁に、私が一度同参することができるようになったことを感謝します。お父様がこの道を通って来られる時、この道を嫌だと言われたならば、今日、私たちと出会う道理がなかったのではありませんか”と考えなければなりません。そうではありませんか?“先生はそのような道を当然の道として探してこられたので、一、二回ではなく継続的に牢獄の門を出たり入ったりしたのではないか”と考えなければならないのです。

万一、皆さんが乞食をすることがあれば“師が乞食をしたその事情を知ることのできる場所に立ったことが、どれほど大きな栄光か?神様が乞食の身を通ってこられある時の、その事情を私が感じることができることがどれほど栄光か?”と、ありがたく考えなければなりません。私がこのように感謝する心でこの道を来たので、今日、統一教会の先生になったのです。

食べさせるものはなく息子を抱きしめて涙した場所・・・。先生が聖進オモニをほったらかして北韓に向かっていく時、そのような事情が起こったのです。米一粒も残しておかない場所から神様が追い払ったのです。しかし、先生は心配しませんでした。全ての事を神様の前にまかせたので、殺そうとするならば殺し、そうでないならばそのようにするなという思いで出て行きました。手紙がくれば門の前に全部すべて送り返すか、破ってしまいました。私に知らせが来ることを怨讐のように思ったのです。私の前に全く現れるな、としたのです。

一線に行っている将兵が、自分の家を心配して全体に支障を持ってくるようになれば、彼はその国の忠臣になることができないのです。あれこれと考えなければならないのです。今、皆さんもそのような立場にいるでしょう?家に帰りたくてしくしく泣く人は、その目が腐らなければならないというのです。国のために、自分を捨てようとしなければなりません。皆さんはどのような場所に行っても、真の父母の因縁を中心とした生活をしなければなりません。これが、皆さんが将来行くべき道だということを知らねばなりません。

皆さんは、私が工場に毎日のように出入りすることを見て、皆さんの後孫たちが将来、この国、この民族を代表することのできる企業家になって、皆さんの後孫に先生はこのように工場に通ったと教育しなければなりません。それが、事業をする後孫の前に残すべき伝統だというのです。わかりましたか?教会を愛することにおいても、誰よりも愛したという伝統を残さなければならないのです。伝統を相続するのに、自分以上に愛することのできる人を探して相続させようというのです。それが、天の法度です。

(1971.5.6.我々が行くべき道)

国と世界のために犠牲の道を行きなさい

皆さんは先生が好きですか?好きではありませんか? 「好きです。」 好きではない人は卑しいものです、卑しいもの。(笑い)好きではない人はこのような言葉を聞いても当然なのです。なぜそうなの?原則がそうだというのです。西洋の人達も先生をみな好きでしょう? 「はい。」 統一教会に来てみ言を聞けば、先生を皆好きになります。アメリカ人、ドイツ人、黒人、青い色の人、まだらな模様の人、皆好きです。このように生きるのが良いですか、それとも皆さんが考えるように、ただ無味乾燥にどうにかして生きるのが良いですか?このようにして生きることが良いというのです。このようにして、真の因縁と我々の使命の骨髄がわかりました。一度行ってみますか? 「はい。」 行く時は、しっかり包んでいきますか? 「はい。」 本当に行ってみますか? 「はい。」 行く時はしっかり包んでいきますか、看板を付けていきますか?

昔、統一教会員たちが伝道に出かけて、“どこから来たか?”と尋ねられれば、“どこから来たって、どこから来ますか?通りながら、水をもらおうと思ってきました。”このように言いました。これは気分がいいですか、悪いですか? 「悪いです。」 これからは、胸を開いて行こうというのです。それで、近所の人達が嫁に行ったのか、行っていないのか尋ねるというのです。そのような時どうしなければなりませんか?皆さんたち、娘がいいですか、嫁がいいですか? 「娘です。」 それでは、便利な方にして下さい。(笑い)まだ娘が多いからね、そうでしょう?777双が多いので、娘たちがもっと多いでしょう?

だから、みんな娘だといってもサタンから讒訴を受けません。777家庭を中心にして答えたのです。これからは、胸を張って顔をあげて行くことができます。この国、この民を既成の牧師よりももっと愛するようになる時には、私たちは滅びず、彼らが滅びるようになります。

神様は、どのような人を残すでしょうか?神様をすべて愛するという人を残しますか、少し愛するという人を残しますか?二人の中で、一人を残すとすれば誰を残しますか?残す時は、すべて愛する人を残すので、牧師が私たちより先に死ぬという言葉はただしいのです。神様が私の側だからです。

夜昼なく狂ったように隣近所を回りながら、近所に不便な点が無いかと大声で言うといって、法に引っ掛かりますか?無事通過だというのです。引っ掛かる法はないというのです。この不義の因縁に従って、凝り固まってしまった世の中の方に引っ掛かるのか?引っ掛からないというのです。自然解放圏を持つことができる自由な天国の舞台は、そのような場所から起こるのではないかというのです。これは理論的に妥当な言葉です。

それ故に、狂ったように人を愛しなさいというのです。狂う時には昼間だけ狂うのではありません。明け方でもいつでも、近所の人たちを愛したくて、愛する父母、兄弟、妻子よりももっと近所の人を愛する心を持って、泣きながらその近所の人たちを自分の念願の舞台として考えて汗を流しなさいというのです。汗を流すこともありがたく、悪口を言われることもありがたく、追われることもありがたいのです。これが、私の愛の度数を立体的に備えるための一つの調和法です。このような心を持って、一年が過ぎて、三年が過ぎるようになれば、その近所の人たちはその人の前にひざまずくのです。これが天地法度だというのです。

それで、イエス様も3年間そのようなことをしようとしたのです。弟子たちの足を洗ってあげて、弟子たちに食べるものを与えたのです。そのようにして、不足な、愚かな、無知な、世間知らずで、寝ることだけはぐうぐう寝る弟子たちが、食べるものが無いと不平を言えば、“おなかがすいただろう?”と、冷たい部屋に寝ていると、“寒いだろう?“と言いながら、涙を流したのです。私は寒くても、寒そうにしている人たちを見て涙を流す人から、歴史時代において新しい文化の世界が誕生するようになるのです。わかりましたか?

故に、皆さんが神様の愛をすべて与えて、その隣近所の数多い人の胸に火をつけることのできる騎手にならなければなりません。そのようにする道は、愛したくてあえぎながら、犠牲になっていく道です。血と涙が落ちたその足跡の後ろには、必ず希望の花が咲くのです。幸福の歌が出てくるのです。わかりましたか?必ずそうだというのです。

それ故に、皆さんが真の愛の因縁によって、3千万民族のために行かなければなりません。年をとっている人は根です。血気盛りの青春時代に、私の人生の最高の頂上時代にすべての精誠を尽くして、天上天下のその何かが占領したとしても私の愛を止めることはできない、というほど愛したという立場に立ったならば、幸福な青年であるということを知らねばなりません。それゆえに、青春時代に国を抱きしめて世界を抱きしめて自分の命をそこに投入して犠牲になって、その道を喜んで走っていこうというそのような人の後ろには死亡が待っているのではなく、神様の愛が両手両足を広げているというのです。

イエス様がそうでした。結婚もできない30歳のぼうぼう髪の独身男が、民族の反逆者として追われ、愛する弟子たちにまで否定され、自分の教会と氏族と民族と国にまで反対を受ける孤独な身でその道を行きましたが、彼らが射る矢に当るのではなく、彼らの恨みの試練に巻き込まれて嘆息する男として、行ったのではありません。彼らが恨む場所にいても、イエス様は“私が与えたかった愛を与えることができなかった恨を地上に後孫の前に残していくので、後孫やキリスト教信徒たちがこの愛を与えてくれますように。”と、神様の前に祈祷の心情を残していったので、キリスト教はその民族を越えて、国家を越えて、世界的な文化圏を形成することができたのではありませんか?すべて、その手中に占領したのです。

それで、イエス様が怨讐のために祈祷したのです。そのような場所においてのみ、真の神様の愛をすべて受けることができる因縁に通じることができ、そこから始めて私たちが探している因縁の中に私たちの使命の錨を下ろすことができます。そのような場所が神様の願いの基盤になるのであり、真の父母の願いの基盤になるのであり、真の夫婦の願いの基盤になるのであり、真の民族の願いの基盤になるのであり、真の世界の願いの基盤になるというのです。それは、これから皆さんの行動的な面に、活動する面に現れるというのです。わかりましたか? 「はい。」 皆さんは、これをはっきりと知らねばなりません。

(1971.5.7.因縁と使命)

再臨主のすること

その次には、成約時代です。イエス様がもう一度来るといいましたが、成約時代に来る時はどのようになって来るのか?祭物の結実であり、アダムの結実であり、その次に内的な結実においても、カインの蘇生的な結実と長成的な結実となって来なければなりません。そうして、カインを屈服させなければならないのです。それ故に、イエス様は十字架で逝かれる時、霊的にそのようなすべてのことをみな備えて逝かれたのです。

蘇生的な結実と長成的な結実をなしたのです。それが何かというと、天使世界の屈服と養子的な立場の実体圏を復帰した立場に立ったので、カインを蘇生的に屈服させて、また、長成的に屈服させたのです。イエス様は、養子の代表です。イエス様は、洗礼ヨハネの立場を代身して死にました。洗礼ヨハネの使命を果たして死んだので結局、息子の役はできませんでした。したがって、蘇生的天使長型と長成的養子型を復帰すべき中心存在として、また、これを結実として現せなければ、再臨主がこの地上に来ることができないというのです。蘇生的天使長型と長成的養子型、この二つを結合させなければなりません。そして、その後にここに新郎が来るのです。

再臨主が来るようにすることのできる動機を、地上のキリスト教が準備しなければなりません。エバがアダムを誘引して堕落をしたので、後のアダムであるイエス様が再臨することのできる動機を準備するためには、地上のキリスト教が世界的なエバ圏、新婦圏を形成しなければならないのです。そうすれば、新郎は特別なキリスト教国家を中心にして、そこに訪ねてくるのです。

新郎である主が、この地上に来て何をどのようにしなければならないのか?家庭を探さなければなりません。蘇生期には家庭がありますが、長成期には家庭がありません。ところで、蘇生期の家庭はサタン的な家庭なので、新郎が来て探すべき家庭がないのです。それでは、新郎が来て訪ねるべき家庭がどこにあるのか?神様を良く信じたヨセフ家庭とか、ザカリヤ家庭のような基盤があればわかりませんが、キリスト教が反対するようになり、キリスト教からそのような家庭を探すことができなければ、反対に離れるようになるのです。反対に離れるようになれば、どこに行って探さなければならないか?神様側から探すのではなく、サタン側の家庭から探してくるようになるというのです。

ところで、サタン側から探してこようとすれば、サタン側が“ここにいる!あなたが探しに来た人はここにいる!”と言って、出してくれればいいけれど、この強情な怨讐がそのように差し出すと思いますか?出さないというのです。ヤコブがハランで21年の間、僕の生活をした次に、約束通り自分の夫人と、子息たちと、分け前をもって出ようとして時に、ラバンが“さあ、行きなさい!”と言いましたか?言いませんでした。ヤコブがラバンの様子を伺ってみると、自分を送り出してくれそうになかったので、ラバンをだまして出て行ったのです。そして自分のものを探すことができなければ主人になることができないので、ラバンの家の自分のものは全部奪ってこなければならないと考えたのです。自分のものを探すためには拳で打っても奪ってこなければなりませんが、そうしてラバンが死んでしまえば自分も死ぬようになるので、闘って奪ってはいけないと考えたのです。それで、こっそり嘘をついて出ていくことが最高の戦法だと考えたのです。そのようにしてラバンの家から出てきたのです。

モーセもそうでした。イスラエル民族をカナンに送るとしておいて、送らなかったのでパロをだましたというのです。来られる主もそれと同じ立場だというのです。来られる主が、この地に誰を探しに来られるのか?新婦を探しに来られるのです。それでは新婦がどこにいますか?キリスト教圏内から新婦を探さなければなりませんが、キリスト教が反対することによって、サタン世界から奪ってこなければならないというのです。キリスト教は新婦の立場で新郎を迎える準備をしなければなりませんでしたが、しませんでした。キリスト教がそれをしなかったので、サタン世界に行って新婦を奪ってこなければなりません。サタン世界に行って“私の妻を出しなさい。”と言えば、サタンが出しますか、出しませんか?出しません。出してくれればすぐに探してくることができますが、出さないので探してくることができないのです。そうだと言ってサタンを殺して奪ってくることはできないのです。なぜならば、サタンがエバを奪っていく時、神様を殺して奪ってはいかなかったからです。だから、サタンを殺して奪ってくることはできないというのです。

サタンを殺さずに探してこなければなりません。探してくるのにおいてサタンが出さないので、仕方なく作戦を使わなければならないのです。サタンを屈服させる作戦を使わなければならないのです。犠牲になって僕の生活をして、逆に復帰して上がって行かなければなりません。僕である天使長が、エバを堕落させてひっくり返しました。それで、それと同じく僕の生活をするのです。復帰の道には僕の生活をすることが必要となります。なぜならば、その主人、すなわちサタンよりももっと大きな愛を持たなければ、新婦を探してくることができないからです。エバが神様の真の愛を中心にして、自分の全てのことを否定して“私は死んだとしてもあなたのそばに行きます。”ということができ、その夫に屈服することのできる基盤を作ってはじめて探してくることのできる道がこの道です。万一、そのようにすることができなければ、だましてでも奪ってこなければなりません。

(1971.5.24.万物の日と復帰の過程)