目次
第7章 根本復帰のみ言
堕落によってサタンの子女になってしまった人間
私達は、数多くの人たちが未知の御旨の世界を、1つ1つ探してきたということを知っています。そうして探し出された勝利の基盤が1つの原則で立たされたとき、その原則に従っていくことによって復帰の道を行くのです。だから復帰の道は探していく道であり、探し出されたその基盤を中心として、原理原則を踏んで行く道だということを皆さんが知らなければなりません。
その原理原則というのは、おじいさんがその道を行くならば、彼の息子とか孫は、その通りに行かなくてもいいのかといえばそうではないのです。原理原則というのは、おじいさんがその道を行けば息子も行かなければならないし、孫もやはり行かなければならないのです。千年前の人であっても、千年後の人であっても、その原理原則を踏んでいく時は同じなのです。それが原理なのです、原理。
原理というのは、このような人にはこのように現れ、あのような人にはあのように別に現れるのではなく、優れた人でも愚かな人でも老若男女にかかわらず、同じ形で現れ、更にみな同じ形態で追究するようになるのです。これを皆さんが知らなければならないのです。それでは、原理の道というのは人間だけが行くのでしょうか?違います。神様も原理の道を通して人間と出会うのです。これを皆さんが知らなければなりません。
このように神様も原理の道を行こうと追究されており、更に人間も原理の道を行こうと努力すればよいのです。この2人の原理の道を通すことだけが、勝利の出会いがあるようになるのです。
それでは、悪というものは何でしょうか?原理の道を行くのを反対することが悪なのです。行くことができないようにするのが悪なのです。そこに障害物を置いておくことが悪になるのです。だから、原理原則には許しがないのです。
大韓民国が1つの主権国家として、3千万民衆を率いるときには、何を持って率いるのでしょうか?法を持って率いていくのです。その法は何の法でしょうか?憲法を基準としながら細部的に設定されているのです。
復帰路程をみると、人類始祖は過ちを犯しました。第1番目に過ちを犯したことは何でしょうか?信じることができなかったことです。信仰を失ってしまったのです。その次には、このように信じることができないことによって失ってしまったのは何でしょうか?実体を失ってしまったのです。実体。神様の愛を受けることができる体を失ってしまいました。即ち、地に落ちてしまった皆さんは、不信の後孫になったのです。だから実体があったとしても、神様と何の関係ももてない実体になってしまったのです。それ自体は神様の怨讐であるサタン、即ち、神様の怨讐の実体になっているのです。
その次には何を失ってしまったのでしょうか?神様が理想として束ねて下さった愛を失ってしまったのです。これが3大要件です。これを皆さんが知らなければなりません。
第1に不信が始まり、その次には、私達の体がサタンの体となり、更に私達自体の愛というものが、サタンによって彼の後孫を繁殖する愛になったのです。これが問題です。
それでは、不信で実体を失い、更には愛を失うことによって私達はどのようになったのでしょうか?私達は他の血筋を通して生まれました。父親が違ってしまったのです。
このように見るとき、堕落した結果、最後の結果がどのようになったでしょうか?もちろん、神様の御旨に反対する立場に立ち、天の前に立つことのできない罪を犯した人になりましたが、罪を犯したという結果、どのようになりましたか?神様の子女にならなければならないのに、サタンの子女になってしまったのです。言いかえると、私達は本来の父親に仕えなければならなかったのにもかかわらず、違う父親、想像さえもつかなかったサタンを父親として仕え、彼の血統を受け、遺伝的に血統を通して罪人の後孫として生まれたのです。これが問題です。
不信が根源となって、私達の体にサタンが侵入するようになりましたが、それではサタンが侵入することによって、サタンを中心とした愛で連結された私達自体は何になりましたか?サタンの子になってしまったのです。
(1972.6.6.根本復帰)
蕩減復帰のための信仰基台と実体基台
それでは、これを蕩減復帰しなければなりませんが、どのように復帰していくのかということが問題になるのです。皆さんは原理の本を通して信仰基台ということを学んだはずです。信仰基台を立てる理由は何でしょうか?アダムが神様を信じていた、その基準以上の所に上がっていくためです。信仰の基台はそのようになっているのです。他のことではないのです。アダムが信じることができなかったことによって堕落してしまったので、アダムよりも優れた信仰を持たなければ本然の位置に戻ることができないのです。
更に、アダムが神様のことを知っていた、その基準以上の所まで戻らなければならないのです。アダムは未成年期に堕落しましたが、私達は信仰において成年者とならなければならないのです。このようにみるとき、信仰基台という基準を立てようとすればすべてがアダムよりも優れていなければならないのです。人類始祖が堕落によって罪を撒き散らす前の所よりも高い所に戻らなければ、その所を経なければ復帰されないというのです。
イエス様はこの地に来られて、堕落した人達に対して 「誰よりも私を愛さなければ神様の前に行けない」 と言われました。ここで、 「誰よりも私」 というのは、 「人類始祖アダムよりももっと優れた私」 という言葉です。この言葉の中には全てのものが入っているのです。
ここには、いくら素晴らしいものがあったとしても、それを超えてイエス様をもっと愛さなければ神様の前に行くことができないのです。
またイエス様は、“私は道であり真理であり生命であるので、私によらなければ父の前に行く者はいない”と言われましたが、その道というのはどのような道でしょうか?その道は堕落して落ちてしまった道ではないのです。復帰の道なのです。この道がイエス様によって、即ちメシヤによって生じたのです。そうでしょう?“私は道であり真理である”と言われましたが、真のことを言われたのです。その次には“生命であるので、私によらなければ神様の前に行く者はいない”と言われましたが、その言葉には全く蕩減が無いということなのです。そうすれば成るでしょう?誰であっても、と言えば皆が入るのです。自分が愛する母親、父親、夫婦や子供もみな入るのです。
言いかえれば、1人の成熟した個人を中心として、父母がいて妻子がいるのです。そして隣近所や親戚がいて、国では国王がいますが、誰よりもイエス様を愛さなければ神様の前に行くことができないのです。それでは、アダムが堕落したということは何でしょうか?もしもアダムが、誰も否定することのできない絶対的な位置で愛の関係を結んでいたならば、それは絶対的な愛になるのです。そのようになっていたならば、“誰であっても私を愛さなければ、父の前に行く者はいない”という言葉は必要ないのです。既に父の前に行っているので、既にその所から出発したために、再び愛さなくてもいいのです。しかし、人類は堕落したので、堕落した張本人以上の所を通らなければ戻って行く道がないのです。
それでは、堕落の動機は何だったのでしょうか?不信が堕落の動機となったのです。本来はサタンに打ち勝って主管しなければならない人間が、信じることのできない位置に立つことによって、サタンの主管を受けるようになったのです。
それでは、信仰基台はどのように立てなければなりませんか?神様の前に、サタンよりも優れた祭物の基準を立てて捧げなければなりません。祭物というのは、どのような祭物を捧げるのでしょうか?サタンよりも優れた祭物を捧げなければなりません。それで、カインとアベルを通して祭物を捧げるようになったのです。しかし、カインよりもアベルが優れていなければならないのです。そうでしょう?カインとは何でしょうか?サタン側を象徴する基準です。故に、神側を象徴とするアベルが、サタン側の基準よりも優れなければ、サタン側の出発を見たアダム以上の所に上がって行くことができないのです。分かりましたか?
それで、信仰基台を立てようとすれば、カインよりも優れた祭物を捧げなければならないのです。カインとは何ですか?サタン側です。サタンとは誰ですか?堕落した天使長をいうのです。従って、サタンが出発した、その動機の基準よりも高くなければなりません。これが原則です。
このように信仰の基台を立てた後には実体基台を立てなければなりませんが、実体基台とは何でしょうか?人間は堕落することによって、体をサタンに引っ張られていったのです。だから、サタンに奪われた実体を取り戻して来なければならないのです。そのためには、サタンに打ち勝たなければなりません。だから、サタンに打ち勝つことをしなければならないのです。
(1972.6.6.根本復帰)
堕落したために蕩減条件が必要な人間
サタンに打ち勝つためには、 「あなたと私」 という個人の条件を中心として打ち勝ってはだめなのです。 「サタン世界の代表であるあなたと、神側世界代表の私。」 このようにしなければならないのです。分かりましたか?あなたと私と、ただ2人だけで闘うのではないのです。2人は2人でも、サタン側的代表者と神側的代表者なのです。代表者というのは1人でいるのではなく、世界が共にいるということです。私が統一教会を代表したというときには、私は1人の人間ですが、統一教会全体を代表したのです。
このように、カインはサタンを代表とし、アベルは天を代表としたために、カインという存在はサタン世界全体を代身としたのであり、そしてアベルという存在は神の世界全体を代身したのです。いつも、そのように考えなければならないのです。アベルという存在は、いつも神の世界全体を代身したのです。アベル的存在は、神の世界全体を代表したために、これはアブラハムの復活体であり、ノアの復活体と同じなのです。それだけではなく、アブラハムの代身者となり、ヤコブの代身者となり、モーセの代身者となり、イエスの代身存在にもなるのです。そのように見なければならないのです。
それでは、悪を代表したということは何を意味するのかといえば、カインの代身者となり、ノア時代に不信した民族の代表となり、アブラハムを反対した異国の代表者となるのです。また、ヤコブ路程で反対した全ての人々の代表者となり、モーセの時このエジプトの国と同じなのです。イエスの時の、ローマの国全体を代表としたのと同じなのです。
だから、それを代表したということは、たとえ人は1人ではあるけれども、その内容においては世界的であるというのです。世界的であればよいのです。皆さんはこれを知らなければなりません。サタンがアダムを引っ張って行くことによって、アダムだ1人を奪って行ったのでしょうか?アダムの理想の中にあった家庭、氏族、民族、国家世界、彼の望みまでも引っ張られて行ったのです。そうでしょう?それ故に、アダム1人の中には世界があるのです。それでは、アベルとは何でしょうか?アダムの代身存在です。カインとは何でしょうか?サタン世界の代表者です。
実体復帰というのは何かといえば、アダムがサタンに屈服したことを、反対にアダムがサタンを屈伏させることなのです。それは平面的な個人で屈伏させるのではなく、立体的な全体を代表して屈伏させるのです。それ故に、その関係というのは、個人対個人ではないのです。分かりましたか?アベルは天を代表としたのであり、カインは地を代表としたのです。彼らは全体を代表したのです。皆さんは、これを知らなければなりません。アダムがサタンに屈伏して引っ張られてしまったので、今日、復帰時代においては、神側を代表としたアベルが、サタン側を代表としたカインを屈伏させなければならないのです。それは、アダムが神様の息子であった本然の所で、再びサタンを、僕であった天使長に復帰させることをするのです。これが実体復帰です。このようになるのです。このように実体復帰するようになれば、ここから初めて相反することがなく、神様の愛を受けることのできるきっかけになるのです。分かりましたか?
それでは、このように復帰されたアダム自身が、神様から直接的に愛を受ければよいのでしょうか?言い換えると、堕落した人間が実体復帰したならば、実体復帰した所で、そのまま神様の愛を受ければよいのでしょうか?このように考えるかもしれませんが、そのようにはできません。なぜですか?
私達は、どこから出発したのでしょうか?悪から出発したのです。このようになったというのです。堕落した人間は善から出発したのではなく、神様から出発したのではなく、何から出発したのでしょうか?悪から出発したのです。
だから、悪から出発した私達には蕩減条件が必要なのです。善から出発したならば、蕩減条件が必要ありません。悪から出発したために、ここで出発した人は必ず蕩減条件を立てなければ戻って行くことができないのです。そこには信仰基台であるとか、実体基台であるとかいろいろありますが、実体基台を持ったとしても、それはどこまでも堕落した世界で出発したのであって、天から出発したのではないのです。本来の原理的基準で見れば、人間はどのような基準で出発しなければなりませんか?人間は神様から出発しなければなりません。
神様が人間を創られたのをみると、人間の出発は神様側の立場に立ちましたが、人間が堕落することによって、新しい出発はサタンから出発したのです。そうでしょう?従って、人間として望むすべての理想的な出発、全ての望みの出発ということは神様から出発したのではないというのです。サタンから出発したのです。それ故にサタンから出発した人間は、どこまでも、その出発地が天ではないというのです。違うのです。分かりましたか?それで、人間が置かれている所はまだ蕩減条件が残っている所なのです。このようになるのです。
(1972.6.6.根本復帰)
堕落したのでメシヤに接ぎ木しなければならない
それ故に、私たちが神様から出発したという所を再び受け継がれなければ、原理に立脚した本然の位置に置くことができないために、本然の原理の神様を迎えることができないのです。それで、出発基準を間違った私達人間の前に、誤ることがなく、神様から出発したという、そのような一つの主体を立てなければ行く道がないのです。このようになるのです。
それでは、この一つの主体とは何でしょうか?メシヤだというのです。その行く道を振り返っていくためには、メシヤが必要なのです。分かりましたか?だから、“メシヤのための基台”が必要なのです。何のことか分かりますか?皆さんが原理の本を読むときに、これをはっきりと知らなければなりません。
それでは、ここでこのようになるべき代表者の位置とはどのような位置でしょうか?(黒板に書きながら話される)そこには、まだサタンが讒訴する道が残っているのです。たとえ実体基台は復帰したとしても、信仰を失ってしまい、実体を失ってしまいその次に愛を失ってしまったので、いまだに愛の目的を達成しなければならない。
蕩減条件が残っているのです。このようになっているのです。だから原理の主人を中心として、いまだに関係を持つことができないのです。
例えて言うと、ここはどのような所ですか?(黒板に書きながら話される) 堕落することによって、甘柿が渋柿になってしまったのです。渋柿はカラスの餌にしかならないのです。この渋柿が、そのまま渋柿だけでいるならば何も使い道がないのです。しかし、この渋柿がなんと言うか、化けたとでも言うか、ひっくり返ったときには、新しい甘柿の実がなる道もあるというのです。この道とは何でしょうか?接ぎ木をするということです。何のことか分かりますか?接ぎ木をするということです。
渋柿を切ってしまって甘柿に接ぎ木しておけば、そのまま渋柿になりますか、甘柿になりますか? 「甘柿になります。」 甘柿になるのです。だから、このサタン世界圏内に、言い換えると渋柿世界に、甘柿が、わずか1株が必要なのです。この甘柿が1株出てくるときには、渋柿の畑が甘柿の畑として造ることができるのです。それが、そのままにしておいて成されるでしょうか?蕩減復帰をすることによって再び向きを変えるのです。わかりますか?
だから、出発が誤ったことを蕩減復帰することによって出発を正しておけば、渋柿となる人間が甘柿になることができますか。できませんか? 「できます。」 できるのです。
それでは、この渋柿の主人は誰ですか?神様ですか、サタンですか?間違いなくサタンが主人なのです。サタンが出発したために、結果もサタン側になるのが当然であり、間違いなくサタンが主人なのです。それではサタンが主人である、この渋柿の畑を神様が勝手に管理することができますか、できませんか? 「できません。」 できないのです。もしも、この世界が、神様が管理することのできる渋柿の畑ならば、そこに甘柿一株を植えて、それが芽生えて育った後には、神様が勝手に渋柿をぽっきりぽっきり切り取り、いつでも接ぎ木することができるのです。そうではないですか?しかし、神様が管理することのできる渋柿の畑ではなく、誰が管理する渋柿の畑ですか?サタンです。管理することのできる絶対的な主人として登場したのは誰ですか?サタンです。
しかし神様は、サタンに対して、 「おい、この者!人間は渋柿として生まれるようになったが、もともと人間という存在は本性的に見れば、私に属しているのではなかろうか?」 と原理的立場で主張することができるのです。その時、サタンは、 「違います。」 とは言えないのです。 「はい、そうです。本性的立場でみれば、人間があなたを愛するときに、私よりももっと愛さなければならないのが原則なので、あなたが必要として用いる人間となるためには、私を愛するよりも、あなたをもっと愛する人間にならなければなりません。そうでなければ、あなたの前に戻って行く人間がいないでしょう。」 というのです。それが原理的なのです。そうでしょう?
このようにサタンは、神様に対して原理的に論駁して闘いを展開していくのです。 「私を信じるよりも、あなたをもっと信じなければ戻って行くことができない。」 というのは原理的なのです。そうでしょう?更に、 「世界的な闘いの状態で私と闘い、私に打ち勝つ者でなければ、あなたのところに戻って行く者はいないのではないですか?」 と言いますが、これは全部、原理的なのです。そうでしょう?だからサタンは、 「私よりも神様をもっと信じなければ、渋柿の畑から分かれる道はない。」 というのです。それをサタンが主張するのです。だから渋柿の畑にいる者でも、神様に対して絶対的な信仰を持っていけば、そこから分かれていくのです。このようになるというのです。
(1972.6.6.根本復帰)
理想世界が到来するならば
だから信仰があるのです、信仰。そして宗教人達は信仰生活をするのです。どのような生活をするというのですか?信じる生活。その次に宗教人達は闘わなければなりません。どのような闘いをしなければなりませんか?サタンに実体をぶつける闘いをしなければなりません。だからこのような歌を歌うとき、信じる人達は何のようですか? 「軍兵です。」 軍兵と同じだといいました。しかし、軍兵とは何をする軍兵ですか?見物するのが軍兵ですか?闘うのが軍兵です。
だから信じる人達は、闘いの生活をするのです。それでは信仰生活をする時は、何を標準として信じなければなりませんか?人類始祖、アダム・エバよりも、もっと高い所に上がって行かなければならないということを目標として信じなければならないのです。これを今日、人間達がはっきりと知らなければなりません。
その次には、闘わなければなりませんが、誰と闘わなければなりませんか?兄弟同士で闘うのではありません。サタンと闘わなければなりません。サタンが現れるときは、どのように現れますか?何かの新しい善なる事をしようとする時は、必ずサタンが現れるようになっています。善なることをしようとする時はサタンも現れますが、神様も現れるようになるのです。それで皆さんは善悪の中間位置にいるのです。そうでしょう?
それで皆さんは、そこで悪を屈伏させ、善を残しながら、悪が自動的に順応することができる所に立てば、善なる人間になるのです。それを原理的にいえば、実体基台完成です。これを成すためには、サタンと闘って勝たなければならないのです。
それでは、サタンに勝って何をしなければなりませんか?サタンに勝ったので、賞を受けなければなりません。何の賞を受けるのですか?世の中では賞牌をもらって副賞としてお金をもらいますが、そのようなつまらない賞ではないのです。賞は賞であるけれども何の賞ですか?
1つしかない神様の愛を賞として受けることができるのです。それはすごいことでしょう?それが人類の探してきた理想なのです。それでは、愛を受けるときは誰を通して受けますか?本来、神様の愛は、父母を通して受けるようになっているのです。このようになるのです。本来、人間が生まれて神様の愛と因縁を結ぶためには、父母を通さなければなりません。そうでなければ、愛を受ける道がないのです。
だから今日、堕落した人間は何を探しているのですか?メシヤを探しているのです。メシヤはどのような方ですか?私達を再び生んでくれるために、父母として来られる方なのです。このようになるのです。だから、キリスト教では、復活とか何とか言うのです。それでは、再び生んでもらうためには、何を通して生んでもらうのですか?生命を通して生んでもらうのではないのです。愛を通して生んでもらうのです。
その愛はどこから出発しましたか?父子の関係を中心とした父母も父母ではありますが、本来の愛の主体は誰ですか?本来の愛の主体は神様です。天を代表として神様が愛の主体であるならば、地を代表としてアダムが愛の主体なのです。
このようにみるとき、父親が愛の主体であるのです。分かりましたか?父親が愛の主体であるので、その主体となる父親の前に相対となる母親が出てこなければなりません。これをキリスト教では、いまだに探し出すことのできない父親、母親の位置を探し出すために、その道をどのようにして探し出さなければならないのかということを決定的に教えてくれるのが、新郎新婦の理念なのです。分かりますか?
新郎とは何ですか?父のことをいうのです。新婦とは?母のことをいうのです。また、天は男性を象徴するのであり、地は女性を象徴するのです。それ故に、この地に来られたイエス様も天に昇って行ったのです。だから男性と女性が1つとなるように、天と地が1つにさえなれば、ここに理想が成されるのです。だから人間がいくら努力したとしても、人間世界の人だけでは理想世界は来ないというのです。必ず、天を中心として、天を主体として地を対象として立てたという世界に成る前には、理想世界は訪れることができないのです。
(1972.6.6.根本復帰)
イエスを生んで逃げるしかなかったマリア
イエスはこの地に来て神様の国を成そうとしました。さらに神様が愛する国民を率いようとしました。また、神様が愛するその地で住もうとしました。しかし、何もできなかったのです。結局は国も持てず、そしてユダヤ教を指導するために、ユダヤ教の大将となるために来たのに、その位置にも立てなかったのです。見なさい。国から追い出され、教会から追い出され、そして村からも追い出されたのです。イエスは私生児であると噂が流されたのです。イエスはヨセフの息子ではないというのです。それを、村中が知るようになったのです。そのような情報は、子供たちが早く知るようになったのです。
ヨセフがマリアを連れてくるときに、父親と母親の公認を受けて、結婚式をして連れてきましたか?泥棒のように、こっそりと連れてきたのです。そのように連れてきたのに、自分のおじいさんの部屋に連れてきましたか?村でいえば、人の往来は多いけれども、あまり入ってこない村の入り口の、小屋のような所に連れてきたのです。そのような家に連れて行ったのです。そのような小屋に連れて行ったのです。自分の家ではなく、他の家に連れて行ったのです。宣伝しながら連れてきたのではなく、隠しながら連れてきたのです。
結婚もしていない青年が若い女性を連れてきたので、村では関心を持ったでしょうか、持たなかったでしょうか?その村のおじいさん、おばあさん、おじさん、おばさんは知らなくても、子供達は既に知っていたのです。 「おい、あれを見ろ。ヨセフがどこかに入っていって出てきたぞ。昨日もそこから出てきて、今日も出てきた。一度ついて行って見てみよう。」 唾をつけて、障子に穴をあけて見たのです。そのようなことを好むのは子供達なのです。
昔、皆さんも、そのようなことをしてみたでしょう?してみましたか、してみませんでしたか? 「してみました。」 子供達はそのような考えがあるので、研究をしたりして言葉も早く覚えるのです。関心が多いので、半年もすれば言葉もみな覚えるのです。しかし、頭の大きい者は関心がないので、何処かに行って言葉を覚えようとしてもふらふらして、10年が過ぎても覚えられないのです。子供達は関心が多いのです。それが発展の動機になるのです。このように関心の多い子供達がついて行って、見ますか、見ませんか? 「見ます。」 唾をつけて、障子に穴をあけて見るのです。
このようにして見てみると、ヨセフとマリアが話をしていたのです。 「あなたが宿した、この子の父親は私ではないことには間違いない!それでは、この子の父親は誰なのか?」 と、このように尋ねますか、尋ねませんか?男性達は答えて見なさい。 「尋ねます。」 皆さんがヨセフであれば、尋ねますか、尋ねませんか? 「喧嘩します。」
喧嘩をするのは尋ねてみてから喧嘩するのであって、尋ねもしないでお腹を突くならば、礼儀をわきまえていないのです。そうなれば、本当の喧嘩になるのです。しかし、喧嘩をする前に、尋ねてみたはずです。尋ねてみると、マリアが言うには、そっと隠しながら、 「あなたは何故そのように言うのですか?私のお腹には子どもがいますが、父親はいません。この子は聖霊を通して宿ったのです」 と言ったはずです。彼女はなんと知恵深い女性でしょう。知恵深く答えましたが、もじゃもじゃ髪のヨセフが聞いたときに、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか? 「こっちを見なさい。死にかけたところを私が助けてあげたのに、私に冷たくするとはどういうことだ」 と言っても、ヨセフの腹の虫がおさまるでしょうか、おさまらないでしょうか?そして、自動的に喧嘩が起こるにきまっているのです。3度も尋ねても答えなければ、 「こっちを見なさい。おかしな奴・・・何だと?この女め!」 と言うのです。
村の隅々まで噂が飛び交ったので、ヨセフの母親も父親もヨセフに、 「おい、ヨセフお前がどこかの村の、どこかの家に若い娘を連れて行ったのは事実なのか?」 と聞かれたときに、黙っているでしょうか、黙っていないでしょうか?頭をもたれて黙ったのです。 「おい、お前!マリアという女を連れてきたという変な噂を聞いたが、それは事実なのか?」 と、尋ねましたか、尋ねませんでしたか?尋ねるしかなかったのです。 「なに、子を宿して、その父親が誰なのかと尋ねたという噂が出たが、それはどうなっているのか?」 と、そのように尋ねますか、尋ねませんか?それでは、父母がそのように尋ねるとき、ヨセフは 「お母さん、何を聞いてそう言うのですか?彼女のお腹にいる子は誰の子ですかって?男は私の他にいますか?」 と、自信満々に答えますか?ぐずぐずするにきまっているのです。だから不審に思ってしまい、彼の親戚まで皆、 「ヨセフ、あの大ばか者のろくでなしの男が、どんなに出来損ないか。他人の子を宿した女を処理するために・・・。村が汚されてしまう。」 と言ったでしょうか、言わなかったでしょうか?
このような噂が広まり出て、洗礼ヨハネの母とマリアは姉妹の間柄で、イエスよりも先に生まれた洗礼ヨハネは、村の方々で噂が流れたことを知っていたのです。そのような不思議な背後の因縁が、彼の家庭から不和の種となり、洗礼ヨハネがイエスに侍ることができないという経緯になったのです。そのような環境で、ヨセフについて行かなければならないマリアの立場が、どれほど窮屈だったでしょうか?だからイエスを産むときに、逃げるしかなかったのです。
神様もどんなに考えてみても故郷山川に帰りたいのですが・・・。どこにも行くところがないので、エジプトに逃げるしかなかったのです。このようなイエスの事情を、幼少年時代から義父の懐で育ったイエスの事情を皆さんは知らないのです。しかし先生はよく知っているのです。
(1972.6.6.根本復帰)
四位基台を復帰するまで闘わなければならないのが統一教会の使命
だから、皆さんをじっとみると、イエスよりも優れたものが多いのです。皆さんが統一教会に入って来た時、皆さんのお父さん、お母さんは反対しましたか、しませんでしたか。 「反対しました。」 反対しましたか?そうならば、イエスと同じようですね。しかし、統一教会は他の何かがあるというのです。皆さんは、自分のお父さんとお母さんが父母であると思っていたのに、統一教会では何を教えてくれるのかといえば、真の父母を教えてくれるのです。真の父母は何ですか?御旨に対して絶対的な立場に立とうという人が真の父母です。
それでは、イエスの、真の父母の立場に立たなければならないのは誰でしたか?マリアでありヨセフでした。それなのに、彼らがイエス側に立っていましたか?父母を持てなかったイエスだったのです。このような観点で、統一教会で真の父母という方がおられ、絶対的に皆さんの側になれる立場を比べてみれば、皆さんはイエスよりも劣っていますか? 「優れています。」 優れているのです。
さらに、親戚がイエスに反対しました。統一教会では、みんな食口というので親戚でしょう?親戚であっても、統一教会の道を行く人に指を指して反対しますか?イエスには、反対しない親戚がいませんでしたが、皆さんには、反対しない親戚がいるのと同じようなのです。分かりましたか?
また、イエスは地上で結婚できませんでしたが、私達は統一教会で合同結婚式をしているのです。今までの宗教では、絶対に出来なかった事なのです。パウロのような男も不具者になって貞操を守ったのです。そうでしょう?何のことか分かりますか?更に私達は、善なる先祖になろうと主張しています。だから、全てが立派にならざるをえないのです。分かりましたか?皆さんは、そのような自信を備えなければなりません。ドアをさっと開けて 「おい、サタンよ!こっちに来い!」 と、このようになるべきであり、サタンを怖がって逃げ回る人にはなってはいけないのです。そうでしょう?
三千里半島の何処に行っても、反対する者が1人でもいてはいけないのです。 「これをなくさなければならない。死ぬとしても、これを皆なくして死にます。」 というのが統一教会の所願なのです。江原道から来た人は手を上げなさい。江原道を歩き回れば反対する者がいますか、いませんか? 「います。」 それをみても、グーグーと寝ている人は、敵軍に包囲されていても寝ているのと同じなのです。だから、反対する人が一人もいないように努力しなければなりません。今後、三千里半島で統一教会に反対する人は、生きていけないようにしていくのが統一教会の使命なのです。だから、皆さんが後でそれを考えなければなりません。統一教会が韓国で生まれたので、韓国が主体国になるのです。だから韓国人は、統一教会を信じるか、逃げていくか、死ぬか、この3つのうちの1つをしなければなりません。何のことか分かりますか?3つのうちの1つをしなければなりません。そうでなければ、反対する者が残るようになるのです。信じれば大丈夫です。信じれば反対するようになりますか?だから、信じるか、そうでなければ荷物をまとめて太平洋を超えていくのか、そうでなければ中国に逃げるか、あるいは死ぬか、3つのうちの1つをしなければならないのです。逃げるのが嫌ならば統一教会を信じなければなりません。死ぬことが嫌ならば統一教会を信じなければなりません。私達はそうなるまで、へこたれずに闘っていかなければなりません。これが統一教会の思想です。
だから統一教会に反対する者がいる限り、私達は闘っていかなければなりませんか、闘わなくてもよいですか? 「闘わなければなりません。」 反対する者がいる限り、夫婦で暮らしても、子どもを胸に抱いて乳を飲ませていても、その子どもを切り捨てても出て行って闘わなければなりませんか、闘わなくてもいいですか? 「闘わなければなりません。」 出て行って闘わなければならないのです。同じなのです。妻がいくら 「行くな」 と言って事情を話し、涙をぽろぽろと流しても、放り投げて出て行って闘わなければなりませんか、闘わなくてもよいですか?闘わない時には、自分の首が引っかかってしまうのです。このような三者択一の問題が残っているのです。
まだ闘うべき者がたくさんいるので、統一教会の者は休む時間がありますか? 「ありません。」 ない、というのです。妻や夫にかかわらず、息子娘にかかわらず、四位基台に侵入を受けたので、四位基台を復帰しなければならないので、全体を総動員して闘って勝たなければならないのです。そして、勝ったという基準が、国家以上の基準にならなければ、天国ができないのです。これが原理の教えなのです。そうですか、そうではないですか?
復帰は、どのような復帰をしなければなりませんか?四位基台の復帰をしようというのでしょう?だから、四位基台の復帰をするならば、父を復帰し、その次には母を復帰し、そして息子娘を復帰しなければなりません。それで、祝福を受けた皆さんは、夫婦が完全に復帰されて息子娘を生み、堕落しない立場に立てておかなければなりません。これが皆さんの重大な使命であることを知らなければなりません。
(1972.6.6.根本復帰)
生まれ変わらなければ天国に入れない
根本復帰をするならば、どのようにすべきですか?今まで世界では、数多くの人が生まれたでしょう?人類は数千代を通して繁殖されて下ってきたのです。従って、根本復帰をするならば、再び数千代をさかのぼって行かなければなりません。分かりましたか?さかのぼって行くのです。そうでしょう?だから、根本復帰をするならば、アダムとエバが人類の先祖であるので、アダムとエバの腹中に再び入って、堕落しない姿で出てこなければなりません。そうではないですか?だから、先祖よりも劣ってはいけないのです。善なる基準において、先祖よりも劣っていれば復帰する道がないという結論がすぐに出るのです。そうではないですか?
数千代の先祖がいますが、その先祖が私に対して願うことができ、望みを託すことのできる 「私」 にならなければ、超えて立つ道が生じないというのです。このように追究して上がっていけば、結局は、堕落した人類始祖のアダムとエバよりももっと高い位置に上がらなければ、根本復帰という言葉が成立されないのです。これを知らなければなりません。アダムとエバは信仰を失い、実体を失い、愛を失ってしまうことによって、どのようになりましたか?血統的に逆になってしまったのです。だから、これを引っ繰り返さなければならないのです。分かりましたか?
ある夜、ニコデモがイエスのいる所に来て、 「天国に入るためには、どのようにしなければなりませんか?」 と尋ねた時に、イエスは、 「再び生まれなければ、天国に入ることができない」 と言いました。ニコデモは、 「どうして、このような事があり得ますか?」 と尋ねたので、イエスは、 「お前はイスラエルの先生なのに、それも知らないのか?」 と言ったのです。彼がユダヤの国の先生になったので、イエスは比喩ではなく、事実的内容を持って、一番重要なことに触れたのです。 「お前が再び生まれなければ、天国に入れない」 と言ったのです。再び生まれるためには、アダムとエバよりも劣っていては天国に入ることができないのです。再び生まれるときには、アダムとエバよりも優れていなければなりません。これが原則です。そうでなければ、根本復帰の場に上がっていくことができないのです。
このために神様は、どんなに苦労されてこられたのかということを知らねばなりません。聖人達は生まれ変わりましたか?生まれ変わろうとしましたが、できなかったのです。生まれ変わるためには、個人が生まれ変わらなければならず、家庭が生まれ変わらなければならず、親戚が生まれ変わらなければならず、国家が生まれ変わらなければならず、世界が生まれ変わらなければならないのです。しかし、これが分からないでいるのです。
今までキリスト教の信徒たちは、これが分からなかったのです。再び生まれ変わるためには、自分1人で生まれ変わると思っていたのです。そうではないのです。家庭が生まれ変わらなければならないし、氏族が生まれ変わらなければならないし、世界が生まれ変わらなければなりません。それでは、統一教会とは何でしょうか?即ち、これを願う群れだというのです。個人が生まれ変わることが問題ではなく、家庭を生まれ変わるようにしてあげ、その次に国と世界を生まれ変わるようにしてあげることが、統一教会であるということを知らなければなりません。分かりましたか?
今までの既成教会の信仰というのは、 「1人で天国に行こう」 ということでした。そのような人は泥棒なのです。 「世の中がどうなっても、私だけが天国に行けば・・・違うのです。そうではないのです。イエスの友達になり、イエスの相対となろうとすれば、イエスが望み、願っていることを成されなければなりません。世界を救援して、万民が喜ぶのを見て善しとされるのがイエスの思想であり、神様の思想なのです。それは間違いないでしょう?生まれ変わらなければならないという言葉は、訳もなく出た言葉ではないのです。
そうであるならば、生まれ変わって根本復帰したという代表者が出てこなければなりません。そして、その代表者の伝統を引き継いで、 「私はこのように生きます。」 と決心する事のできる群れが出てこなければ、復帰が成されないのです。
いつだったか、私はアダムの話をした時、アー、堕落して塀(韓国語でダム)が生じたのでアダムだと話しました。アーダム!と言うので塀が生じたのではないですか?そしてエバというのは、堕落したので 「なくした物をもう一度探してきなさい!再び仕事をして帰ってこなければならない!」 というので、エバなのです。そのように考えるのです。してくるのは、誰がして来なければならないのかといえば、女性がして来なければならないのです。だからエバなのです。 《エバは韓国語でヘワ=して来いの意》 分かりましたか?だから、エバの後継者となる統一教会の信徒は、うんざりするまで苦労をさせなければならないのです。するときには、夫を取り戻して来なければならないし、家庭を取り戻して来なければならないし、国も取り戻し、世界も取り戻さなければなりません。それをして来なければならないので、エバなのです。ヤコブは何かといえば、アダムの2人前をしなければならないのでヤコブというのです。ノアは何かといえば、解放してあげるのが責任であるのでノアなのです。それをみれば、韓国語はなんと素敵なのでしょうか? 「ノアにつかまった人は解放される。安心する」 といってノアなのです。このような話をすれば、これが皆さんの心に残るのです。エバは、 「して来い!」 といってエバなので、して来ようとするのにどんなに大変でしょうか。足が曲がり、腰が曲がり、指が曲がり、目が塞がっても成さなければならない責任があるので、不平を言わないのがエバなのです。
ここにエバがいます。エバが堕落することによって、サタンと因縁を結ぶようになりました。そのことを皆さんは、聖書を読んで原理を聞いたので全部知っているはずです。人間は母親から生まれました。エバはお母さんでしょう?本来、堕落しなかったならば、人間は生まれるとすぐに、神様の子女になるはずでした。生まれたのに、神様側とかサタン側というのはどういうことですか?1人はカインになり、1人はアベルにならなければならないのです。これが問題です。
(1972.6.6.根本復帰)
双子が闘わずに1つにならねばならないのが根本復帰の原則
息子というのは愛の実なのです。神様は原理の神様でしょう?原理的な立場で見ると、最初に生まれた息子も神様の息子にならねばならず、次に生まれた息子も神様の息子にならねばなりません。それが原理なのです。そうでしょう?
しかし、堕落した後に、最初に生まれた息子はどちら側? 「サタン側。」 サタン側であり、次に生まれた息子は? 「神側。」 それは原理ですか?非原理型になってしまったのです。原理的になろうとすれば、1番目に生まれた息子も神側にならなければならず、2番目に生まれた息子も神側にならなければなりません。そして原理的に見れば、神側の息子が最初に生まれなければならないのです。そうでしょう?サタン側の息子が先に生まれるのは原理ではないのです。だから原理的な神様が堕落した人間を救援するためには、最初に生まれた位置の息子を愛さなければなりません。神様が愛することのできる息子になろうとすれば、先に生まれた位置に立たなければならないのです。原理的な神様は、原理的な立場に立った息子を愛さねばならないので、後で生まれた息子を愛することが出来ないのが原則です。何のことか分かりますか?
アベルという存在は神様側でしょう?しかし、カインはサタン側の存在です。神様は、この状態でアベルを愛することができません。原理基準に立脚した位置を取り戻す前までは、愛することができないのです。原理的に見るときに、もしも堕落しなかったならば、先に生まれた息子も神様の息子であり、後に生まれた息子も神様の息子なのです。結局は、2人とも神様側の息子にならなければなりません。それが原理でしょう?このようにならなければならないのに、堕落することによって逆さまになってしまったのです。サタン側の息子が先に生まれました。次の息子も神様側の息子ではありませんが、原理に立脚すると神様が元々の主人であるので、神様は取り戻す立場に立つのです。
サタンが先に出発したので、サタンが先に生まれた息子を取り、神様は2番目の立場に立ったので、2番目の息子を取るしかなかったのです。それが原理的なのです。堕落した後の息子を中心としては、そのようにするしかなかったのです。先に愛した人を、先に主管するようになるのです。そうでしょう?(黒板にて説明)
このようにして堕落した人間達が生まれたので、根本復帰をしようとすれば、どのようにしなければなりませんか?このようにしていけば復帰する道がないのです。復帰ということは、元に戻るということです。元に戻ろうとすれば、反対に上がって行かなければなりません。反対に上がって行けば、どこに行きますか?そのようにすれば、右側に行くようになるのです。そうでしょう、そうではないですか?これは、このように 反対に上がって行けばどこに行きますか?左側に行きます。母親がここにいるのにこのように出てきたのはサタン世界なのです。これは復帰された世界であるので、引っ繰り返すのです。そうでしょう?反対にならねばなりません。しかし、サタンの愛を中心として、サタンと母親が1つになることによって2つに分かれましたが、天の愛を中心として、母親の腹中を通して生まれるよりも、もっと高い位置に上がりながら出てくるときは、闘う子女としてではなくて、神様の子女になるのです。分かりましたか?カインが左側に行き、アベルが右側に行ったので、右側に生まれた息子が先に生まれた立場に立つのです。そうでしょう?これが原理の型に一致されるのです。後に生まれた息子は、先に生まれた兄の前に絶対服従しなければならないのです。
兄は弟を治めることができるのです。この原則が重要なのです。根本復帰をしようとすれば、このようなことをしなければなりません。母親の腹中を逆さまに突き抜けて、上っていって替えなければなりません。分かりましたか?これが根本復帰の原則です。
しかし母親が堕落したのです。だから、善悪の母体になったので、母親を中心としては完全復帰ができないのです。復帰されたとしても、半分はサタン側の干渉を受けるようになるのです。だから仕方なく、善の側に引き裂くことをしなければならないのです。しかし、反対に上がって行く道がないのです。道がないので、仕方なくこのようなことを、ある時につくっておかなくてはなりません。分かりましたか?そうなれば、これがこのようにならなければなりません。同じなのです。このような過程を経なければなりません。(黒板にて説明される)
これが、母親の腹中を中心としてなさなければなりません。2人の息子が生まれたのが堕落でしょう?愛の結実が息子なので、これが腹中から生まれるとき、本来は一つの愛で出発しなければなりません。これが原理原則なのです。そうでしょう?神様を中心とした1つの愛で双子になるのです。しかし双子は、闘う双子になってはいけないのです。闘わない立場で1つになったという条件を立てなければ、完全復帰が決定されないのです。これが根本復帰の原則です。
(1972.6.6.根本復帰)
腹中で闘わねばならなかったエサウとヤコブ
それでは、どのようにしなければなりませんか?神様を裏切った母親になったので、裏切らないで神様の御旨を全面的に支持できる、母親の使命の代を受け継いだ1人の人間が、この歴史上に出てこなければなりません。
神様は、このようになった人間を復帰するために、カインとアベルを替えることをしてきたのです。替えるための戦いをしてきたのです。だからカインは、アベルに 「屈伏しなさい。」 と言ってきたのです。
ところが、1番目の息子は誰の側であるかといえばサタン側なのです。だから1番目の、サタンの愛の子女をなくしてしまわなければならないのです。全体が、神様だけの愛の圏内にいる子女にならなければなりません。そうなればよいのです。これを復帰しようとするためには、アベルは弟でも兄の位置に入っていき、カインは兄でも弟の位置に入っていかなければならないのです。そこで不平を言うことなく、兄であるアベルの前に、弟であるカインが完全に1つになって従うようになるときには、本然の原理原則に立脚した位置が成立されるのです。何のことか分かりましたか?分かりましたか?こうなれば良いというのです。だから、ここで替えることをしなければならないのです。
しかし、カインがアベルを打ち殺してしまいました。カインは誰ですか?天使長の代表者でしょう?アベルはアダムの代身でしょう?天使長がアダムを屈伏させたのが堕落なのです。これを蕩減復帰するためには、アダムの代身であるアベルが、天使長の代身であるカインを屈伏させなければならないのです。このようになるのです。しかしカインはアベルを殺すことによって、再び天使長がアダムを打ったのと同じ結果になったので、サタン圏だけが残ってしまったのです。このようになったのです。分かりましたか?これは原理にある内容です。
だから神様は、再び替えるための役事をしなければならないのです。問題は何かといえば、1つになるようにすることなのです。1つになるためには、最低の場所まで行って、引っ繰り返さなければならないのです。このようになるのです。そうではないでしょうか?出発したときから母親の腹中で2つの種が出てきたので、2つの種が母親の腹中に入って替える役事をして、弟が勝利して長子として生まれることによって根本復帰が成されるのです。ここで、これが間違ったので、段々と狭くなって入っていくのです。これが誰かというと、エソウとヤコブなのです。エソウとヤコブは双子なのです。段々と近くなるのです。初めて双子の息子が生まれるのです。エソウは何ですか?カイン側です。ヤコブは何ですか?アベル側です。エソウは天使長側であり、ヤコブは望みを託されたアダム側です。このようなことが起こるのです。
リベカがエソウとヤコブを宿しましたが、腹中で2人が闘うのです。2人が腹中で闘うので、リベカが神様のところに行き、 「神様、私の腹中で2人の子どもが闘っていますが、どうしてですか?」 と言うので、神様が、 「あなたの腹中には2つの国があります。大きい者は小さい者に仕えるであろう」 (創世記25:23)と言われました。2つの国でしょう?その2つの国が、サタン側の国と神側の国です。それが原理原則です。神様は、そのような原理原則でもって教えてあげるのです。
だから、闘わずにはいられないのです。腹中で闘わなければならないのです。相反する愛の因縁の種が1つの腹中でぶつかったので、これを弟のアベルを中心としてカインが収拾される原則を立てようとしながら、必ず復帰しようとするので、対立して 「闘いながら勝利しなければならないのです。その前までは復帰が成されないのです。そうでしょう?だから闘うようになるのです。
そのようにして、この腹中から生まれて、どのようにするのですか?ヤコブとエソウを中心として見るとき、ヤコブは神様を手厚く愛しました。また、祝福を受けた、その血統がどれほど大事であるのか分かったのです。しかしエソウは、その反対でした。祝福がどうであるとか、神様の御旨がどうであるとかを考えないのです。エソウは外的な型であり、ヤコブは内的な型なのです。分かりましたか?
それで、蕩減復帰の代表的な使命を誰が背負うのかといえば、エソウが背負わなければならないのです。ヤコブは何の責任を果たさなければなりませんか?アダムが失敗したことを取り戻し、アベルが失敗したことを復帰しなければならないのです。
それでは、どのようにしなければなりませんか?蕩減復帰をするためには、その環境が堕落した時の立場と全く同じでなければ、復帰が成されないのです。
堕落したときに、エバはどのように堕落しましたか?エバにおいて神様は父親であり、アダムはお兄さんでしょう?エバはお父さんと神様の息子をだました時から、堕落が始まったのです。分かりましたか?この間違ったことを蕩減復帰するためには、リベカという女性が、その反対のことをしなければならないのです。
それでリベカは、父親の代身であるイサクと、息子を代身したエソウをだまさなければなりませんでした。そうすれば、復帰されるのではないですか?それは何かといえば、エバが父親と、その息子をだまして堕落したことが、サタンを中心としたことなので、これは神様を中心とした父親と息子をだましながら、祝福をヤコブに返してあげるのです。分かりましたか?それは仕方のないことなのです。
それでは、どうして神様は、嘘をつきながらエソウをだまして、自分の夫をだましたリベカの側についたのですか?そのような神様はどこにいますか?これが今まで謎だったのです。これが今まで分からなかった内容ですが、どうしてそうしなければなりませんでしたか?原理原則を外れて非法的なサタンを通して、父母と息子、神様と息子をだまして堕落したエバの根本内容を蕩減復帰する女性がいなければなりませんが、その女性がリベカなのです。リベカがイサクをだましたのは、神様をだましたのと同じなのです。エソウをだましたのは、アダムをだましたのと同じ立場に立ちながら、そこで落ちてしまったのではなく、神様側に戻って行くことのできる母になったのです。それで、その母の継代を誰が受けましたか?神様の祝福を受け継ぐことのできる、ヤコブが受けたのです。そうでしょう?
(1972.6.6.根本復帰)
霊肉で勝利してイスラエルを成し遂げたヤコブ
このような過程を経なければ原理原則が解かれないために、神様は不可避に、そのようなことをさせなければならなかったのです。
エソウとヤコブをみるとき、ヤコブはアダムの立場です。アダムは天使長にそそのかされながら、だまされて堕落したでしょう?だからヤコブは、どのようにしてでも、エソウの長子の特権を奪わなければならないのです。
そうだからといって、ヤコブはだまさなかったのです。事実をもって、狩に行ってお腹がすいて返ってきた兄に対して、 「お兄さん、レンズ豆のあつものを食べたければ私が捧げますので、その代わりに長子の特権を売ってください」 と、このような条件を立てながら奪ったのです。サタンが条件をもって奪っていったので、ヤコブは神様をもっと愛する立場に立ちながら、神様を愛せない立場のエソウからそれを奪い取ることは、復帰原則には外れていないのです。このようにしてヤコブは、エソウから長子の特権を買い、そして結局は祝福を受けたのです。母親と一緒にしたのです。分かりますか?
祝福を受けた後にどうなったのかといえば、エソウがヤコブを殺そうとしたために、ヤコブは逃げたのです。どこに行きましたか?ハランに行ったのです。そのままハランに行ったので、ここで蕩減復帰をしましたか?できませんでしたか?祝福を受けて解決しなければならない実体復帰が成されなかったのです。そのまま逃げたのです。
逃げてから、ヤコブがしなければならないことは何ですか?アダムが失敗するようになれば、アベルがその失敗を復帰しなければなりません。そうでしょう?父親と息子の失敗を、ヤコブが復帰しなければならないのです。言いかえると、アダムとアベルの失敗を復帰しなければならないのです。それを相対的に成すことのできる位置が、カイアンの代身であるエソウであり、アベルの代身であるヤコブが、その立場で再蕩減しなければならないのです。だから21年の間、苦労しながら失った家族を探し、万物を探しながら帰ってくるのです。天の分岐点となるのです。新しい国の出発となるのです。
このように帰ってきて、エソウに会うのです。ところが、昔、ヤコブを殺そうとしたエソウは、この悪賢いヤコブが帰ってくるようになっても、また殺そうとするのです。しかし、ここで殺されてしまっては大変なことになるのです。だから、ここでヤコブは2つの分野を蕩減しなければならないのです。アダムが失敗したことと、アベルが失敗したことを復帰しなければなりません。アダムは霊的な天使長により失敗し主管を受け、アベルは実体的な天使長型であるカインから支配されたのです。
これを蕩減復帰しなければ、ヤコブが解放される道が生じないのです。ヤコブが帰ってくるのは何のためですか?これを蕩減するために帰ってくるのです。だからヤコブは、帰ってくる途中で、2つの使命を成さなければならないのです。1つは何かといえば、アダムの霊的な堕落を復帰しなければならないことであり、そして、アベルの実体を蕩減復帰しなければならないのです。だからヤコブは、故郷に帰る前にヤボク川で天使と相撲をするようになったのです。
それは何を蕩減するためにですか?霊的な天使長に、実体的なアダムが支配されたことを蕩減するためにです。それを逆に蕩減復帰しようとするので、霊的な天使と実体であるヤコブが相撲をしながら、死ぬか生きるかの闘いをするのです。ここで、人間として初めて天使を破り倒し、勝利の基台ができたので、アダムが天使長から支配されたことを、再び支配することのできる権限を復帰したのです。だからイスラエルという名前が出てきたのです。分かりましたか?
ヤコブは、アダムが天使長によって失敗したことを復帰するという、霊的に天使長を屈伏させる第1の闘いは失敗しましたか、勝利しましたか?勝利したのです。だから、イスラエルという祝福を受けたのです。天使が 「私は負けた」 と降参したので、初めて天使長圏の世界が人間世界の前に支配されるようになったのです。分かりましたか?このようにして、霊的に勝利した基台ができたので、霊的な対象の実体がカインでありエソウでありましたが、霊的な面では、天使、サタンが直接介在して活動する道は既に塞がれたのです。実体だけを処理するときには、完全勝利が成されるのです。
ここでヤコブは、霊的には勝利したでしょう?しかし、実体であるエソウが問題です。エソウにの前に現れたヤコブはどうしたのかといえば、自分が21年間、苦労して得たものを全部あげたのです。ここから信仰の世界では、物質と、相対と、家庭と、僕を持つことのできない歴史が始まったのです。分かりましたか?これをあげないで屈伏させておいたなら、サタン世界で共に祝福を受け、物質も共に持ち、結婚も共にできるようになったのにもかかわらず、全てをあげてしまったので・・・。だから、 「自分の子女もみんなエソウのものです」 と言い、 「自分の僕もエソウのものです」 と言い、自分が持っている全ての物も、エソウの前に捧げたというのです。
このようにして、ヤコブは神様の祝福を残せる立場に立ったのであり、自分を殺そうとするエソウの立場は変わったのです。全てのものを捧げても、ヤコブは残ったのです。ここから隠密の世界になったのです。即ち、ここから賄賂を受けるという歴史が始まったのです。サタンというのは、賄賂を受けさえすればお辞儀をするというのです。たくさん賄賂をもらうという者は、悪の先祖になってしまうのです。理由もなく賄賂をもらおうとする者は、悪なる先祖になるというのです。分かりましたか?これが賄賂主義です。
賄賂を受けてしまえば、自分の仕事が変えられてしまうのです。世の中でもそうではないですか?賄賂を受けてしまえば、いくら機関の人間であっても、自分の責任遂行を正常的に果たすことができなくなってしまうのです。横道に逸れてしまうのです。誰が中心の位置に立つのかといえば、賄賂をあげた人が思い通りにできるので、中心の位置に立てるのです。殺そうと思えば殺し、生かそうと思えば生かしてあげるのです。そうでしょう?そのような歴史が起こるのです。
ヤコブを殺そうとしたエソウが、ヤコブを抱いて涙を流しながら歓迎することによって、カインがアベルを殺したことを実体復帰するようになったのです。ここから初めて、ヤコブを中心とした新しい歴史の出発となったのです。この歴史的な出発を通して出てきたのは、イスラエルの国です。分かりましたか?
(1972.6.6.根本復帰)
タマルとペレツを通した腹中復帰摂理
しかし、サタン世界で勝利したイスラエル圏をつくったとしても、悪から出発したので完全な善にはなれないのです。神様から出発されましたか?根本は神様からです。だから再び、1人の母親が出てこなければならないのです。分かりましたか?母親の腹中で間違って分かれたので、母親の腹中で正さなければならないのです。根本的な復帰をしなければならないのです。
ヤコブの息子の中には、4番目の息子ユダがいました。このユダの息子の嫁を通して、3代目にそのようなことをするのです。ユダの息子の嫁はタマルという女性です。しかし、タマルの夫が死んだのです。その頃のイスラエル民族の風習は、お兄さんが息子もなく死んでしまえば、弟が兄嫁を迎えて兄の代を継いでおけば、自分の代を継ぐということでした。しかし、ユダの2番目の息子は賢かったので、兄嫁と暮らすことを嫌がったのです。だから神様は彼を打って、霊界に連れて行ったのです。そして3番目の息子は、まだ小さい子どもだったのです。
タマルという女性はどのような女性であるかといえば、神様の祝福を残すことを何よりも重要視した女性です。その代を受け継ぐときにおいては、どのような冒険でもしていくという歴史的な代表女性です。それは、どのような位置と同じであるかといえば、エバの位置と同じなのです。エバは人類の母親として、神様の直系の伝統的継代を成さなければならないのにもかかわらず、これをおろそかにしてしまって破綻させたのです。それを復帰するためには、エバよりも優れた女性が出てこなければならないのです。死んで滅びることを念頭に置きながらも、ひたすら神様の祝福を受けた血統の継代を残すことが、自分の生命よりももっと価値があるということを思う女性が出てこなければならないのです。その女性が誰かといえばタマルです。
年の若い義弟を通しては、ユダの支派の血族を残すことが出来ないということを知ったタマルは、冒険をしたのです。自分は死んでしまっても、祝福を受けたユダの支派を残さなければならない責任が誰よりも切実に感じたタマルは、舅をだまして関係を結んだのです。それは、あたかも、エバが神様をだまして関係を結んだのと同じなのです。タマルは、神様の御旨を立てるために舅をだましたのです。そのようにして、天の道を復帰したのです。それは、エバとは正反対なのです。エバは神様をだまして、間違った愛の道に行って天地を滅ぼしてしまいましたが、タマルは、間違って滅んだ世の中を正しく直すために、神様をだましたエバと同じように、舅をだまして神様の代を継ぐようにしたのです。エバと正反対の立場に立脚した位置が、タマルの位置だったのです。分かりましたか?
どうしてタマルが、このような非法的な愛をしたのにもかかわらず、神の祝福を受けることのできる第1の母になったのでしょうか?これは堕落したエバが、父親である神様をだまして非法的な愛を通して滅んだので、タマルはエバと反対に、非法的な愛を通して滅んだのではなく、神様の所に戻って行こうとしながら、神様の継代を誰よりも尊重視したのです。蕩減復帰ができたので、神様がタマルを通して働いて、それが罪にはならないのです。原理に立脚した立場になるのです。分かりましたか?エバとは正反対の立場なのです。
だからタマルを通して、神様の摂理の手引きとなって残されるようになったのです。分かりましたか?タマルは、舅のユダが羊毛を刈るために通る道で、遊女のような格好をして、舅をだまして誘惑しながら関係を結んで身ごもったのです。これが復帰摂理の1つの勝利的基台になったということを、今まで分からなかったのです。分かりましたか?ヤコブも、お兄さんをだますしかなかったのです。全てがそのようになっているでしょう?
そのようにしてタマルが腹中に子どもを宿しましたが、ここで根本的にすり替えなければ、天倫の正常的な血統的基台が成せないので、神様はそれをするために、タマルに双子を宿すようにしたのです。分かりましたか? これが、ペレヅとゼラです。
だから、腹中ですり替えなければならないのです。すり替えなければ、正常的な因縁を通して原理的に先に生まれた長子の基準を地上に立てて、後に生まれた次子を主管することのできる基準を立てておかなければ、原理原則に戻ることができないのです。そうでしょう?このようなことをするために、タマルの腹中でペレヅとゼラが闘うのです。産気づいて子どもを産むようになりましたが、お兄さんが先に手を出したのです。
創世記38章を見れば、この内容が詳しく出ています。手を出してきたので、産婆が赤い糸で結んであげたのです。これが今後、主様が来られる前の時代に、共産党が出てくるということを予知したことなのです。赤い糸を結んであげた兄が少しだけ出てきましたが、それを押しのけて逆に弟が先に出てくるようになったのです。ベレツという言葉は、押しのけて出てきたという意味です。そのようにして、悪なる血統を受けた兄の位置と非法的なサタンの権限を先に立てたことを、初めて腹中を中心として、アベルとヤコブを通して、弟の位置で復帰しようとしたことを、兄の位置で先に出て、勝利的な道理を立てるようになったのです。兄が弟を支配することが原則なのです。
ここから初めて天道が正されるようになり、血統的な基準が正されなかったことを、それ以上の位置で復帰することのできる立場に立ったので、新しい民族の編成が成されるのです。だからイエス様は、このユダの支派から来なければならないという結論が出るのです。分かりましたか? 「はい。」 これを知らなければなりません。そのように、血統的に正しながら生まれることのできる伝統の基準は、タマルによって、ペレツを通して、その基台が造られたというのです。分かりましたか?
(1972.6.6.根本復帰)
マリアとイエスを通した神様の摂理
それでは、 「その時すぐに、メシヤが来なければならなかったのではないのか」 と、言うかもしれませんが、その時にはメシヤが来ることが出来ませんでした。どうしてでしょうか?メシヤが出発すべき位置というのは、家庭的基準ではないのです。分かりましたか?サタン世界の国家よりも優れた国家の位置で出発しなければ、メシヤの威信が立たないのです。メシヤとはどんな人でしょうか?完成したアダムです。だから、完成したアダムを反対するサタン圏があってはいけないのです。
サタン世界のどこの国よりも優勢となる国の基盤だけがメシヤは出発できるのであって、それ以下の位置では出発することができないのです。サタン世界内の家庭であったり氏族であったり、民族を探し出そうという位置では、メシヤとして立つことができないのです。そうではないですか?このサタン世界は、堕落した天使長が支配する世界でしょう?神様を裏切った天使長が支配するこの世界に、本来その世界を完成することができたアダムがそれ以下で来て、復帰しようとする原則はないのです。分かりましたか?それ以上の位置、天使よりも優れた位置で出発しなければならないのがアダムの行くべき道であり、神様の息子として立つ位置なのです。原則がそうではありませんか?
昨日、同じような話しをしましたが、ローマを制圧することのできるイスラエル圏から、堂々と出発したのがメシヤであるイエスの使命ではありましたが、個人のために十字架にかかるのがイエスの使命ではないのです。
ペレヅが出てきても、ペレヅは個人です。しかしサタン世界には国があるので、神様は国を編成するまでに、ペレヅが勝利した伝統を引き継ぎながら、二千年の間、連結させてきたのです。これを失ってはいけないのです。勝利した基台があるので、勝利した伝統を引き継ぎながら、二千年後には、これを引き継ぐ他の母が出てこなければならないのです。それは誰かといえばマリアです。
イスラエルの国とユダヤ教を代表して、そして1つの世界を代身しながら出発することのできるペレヅのような人を生まなければならないのです。マリアが、ペレヅのように、世界的な代表者として生んだのがイエスなのです。分かりましたか?ペレヅとゼラが腹中から闘って、弟が兄になって復帰しておいたので、その伝統を引き継いだ立場になれば、マリアは身ごもったとしても、サタンが讒訴する圏を脱する立場になるのです。だから、いくら身ごもったとしても、サタンが、“自分の子女である!”と主張できる何の条件もないのです。そのような子女であるので、身ごもった時から神様の愛を受けて生まれるのです。そのようにして生まれたのが、イエス様なのです。メシヤなのです。
このような役事をしてもた宗教は、キリスト教以外にはないのです。仏教も儒教も他の宗教もないのです。だからキリスト教だけが、神様を中心とした心情の因縁を引き継ぐことのできる宗教であることを知らなければなりません。
このようにして、血統を根本復帰して生まれた息子なので、腹中時代から神様の息子であり、生まれてから死ぬまで神様の息子になるのです。そうでしょう?サタンが訴できない位置に立てば、堕落しないアダムの位置になるでしょう?それと同じように、最初からも、育ってからも、死ぬ時もサタンがいてはいけないのです。
国の基準で出発したならば、個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰を一時にできるという勝利的位置に立てるのですが、国以外には讒訴する基盤がないのにもかかわらず、国が1つになれなければ、個人的にカインに対して再び闘わなければならないし、家庭的な闘いを再びしなければならないし、氏族的、民族的、国家的、世界的な闘いを再びしなければならないのです。このようにしてきたことが、今までの霊的なキリスト教でした。
それではマリアとは、どのような存在でしょうか?マリアは、神様の御旨以外には知らない女性です。タマルと同じなのです。彼女は、アダムとエバが間違った基準を再現させながら、神様を慕い天の節操を追究しながら、生命を失うことも覚悟した女性です。御旨のためには、どのようにしたのですか?その時は、処女が身ごもれば、直ちに石に打たれて、殺されるようになっていたのです。そうでしょう? 「はい。」 身ごもれば、モーセの法によって、直ちに殺されるのにもかかわらず、神様の御旨のためには死ぬことも恐れずに覚悟していた女性なのです。
ガブリエル天使が来て、身ごもったことを告げたときに、マリアは、 「私は男を知らない」 と言いましたが、 「神様にはできないことはありません」 と告げられたときに、マリアは、 「主よ、私は主のはしためです。御旨の通りにしてください」 と言ったのです。 「私が死んで滅んでも、神様の御旨が成されるのであるならば、私は死んでも当然なことです」 と死を覚悟して、イエスを身ごもったのです。そうでしょう?それがタマルと同じなのです。
エバとは違うのです。エバは自分の利益のために、自分の意を成すために神様を背き、自分の意を中心として偽りの愛をしたけれども、マリアはそのような立場に立たなかったのです。神様の御旨を取り戻すためには、非法的な愛の因縁を通した道があったとしても、それを通して、神様の代を継ぐために全ての犠牲を覚悟した代表的な女性なのです。それがエバとは反対の立場なのです。だからといって、マリアには夫がいなかったのではありません。夫がいたのです。夫は誰でしょうか?婚約したヨセフです。その時のヨセフとマリアは、どのような時であったかといえば、アダムとエバが堕落する直前であった約婚時代と同じなのです。そうでしょう?将来は結婚するにしても、約婚時代と同じ立場でサタンに奪われてしまったことを蕩減復帰するために、アダムとエバと同じ約婚段階に立つのです。マリアは、ヨセフを否認する立場になりながらも神様に従ってきたのです。分かりましたか?
ヨセフはどのような立場であるのかといえば、天使長の代身です。ヨセフは天使長の代身であり、マリアはエバの立場です。だからマリアは、ヨセフと暮らしてはならないのです。ヨセフは誰かといえば、堕落したアダムとエバを復帰するために、象徴的に立てられた夫の型なのです。だから、夫になってはいけないのです。しかし、ヨセフと暮らして子どもを生んだために、結局イエスは死ぬようになってしまったのです。
父親が怨讐となり、兄弟が怨讐となったのです。マリアは、そこに捕まってしまって、どうしようもできなくなって、イエスについていくことができなかったのです。イエスとマリアが合わさって、ヨセフの家庭を全て奪ってこなければならなかったのです。ヨセフの財産全部を、ヨセフが持っている教団全部です。そのようにして、天使長と同じ立場であるヨセフが絶対服従したならば、地上に天使長復帰圏が成されたのにもかかわらず、それができなかったので、イエスは死んだのです。イエスが死ぬことによって、ヨセフの役事は完全に地に落ちてしまい、ヨセフの役事の代を継いだユダヤ教とイスラエルの国は、今もな日の目を見ることができず、地に落ちた国となってしまったことを皆さんは知らなければなりません。分かりましたか? 「はい。」
イエスのときに来て、初めてこのようになったのです。このように見るときに、4千年の間、神様がアダム1人によって汚れてしまった血統を正すために苦労しながら、初めて息子の姿を備えて生まれたのがイエスなのです。それにもかかわらず、イエスを殺してしまったのです。
(1972.6.6.根本復帰)
原理の道は踏んで行く道
このようにすることによって皆さんは、根本復帰された血統的内容を引き継いだ再臨思想を通して、そのような内縁に一致したので、個人的な復帰、氏族的な復帰、民族的な復帰、国家的な復帰の基準を皆さんが、彼と共に一致したという立場に立つことによって、切り取って接ぎ木されるのと同じであるというのです。分かりましたか?そのように接ぎ木されるときには、その方が世界を復帰したなら、私も世界を復帰したということになるのです。
一つになることによって初めて、渋柿の畑が甘柿の畑になるのです。世界的に、この甘柿の畑をつくろうとしているのが神様の摂理です。これによって、悪で出発したことが、血統的に神様の愛を中心として、もともと神様から出発したという起源を通し、その結果も神様の愛の圏で結果が結ばれたということだけが、堕落圏を脱いだ勝利的天国になるというのです。そのような人になれば、天国の息子になることができ天国の民族になることができるのです。わかりましたか? 「はい」 これが、統一教会が行かねばならない道です。
それでは皆さんは、どのようにしなければなりませんか?ここには、いろいろな式が多くあります。分かりましたか?個人としては、どのように蕩減復帰を完成するのですか?これを皆さんは知らないのです。夫婦としては、どのように蕩減復帰するのですか?これも知らないのです。だから皆さんには、祝福を受けた人達に、そこに引っかからないようにするために、先生が指示して教えてあげるのです。
初めは、不信の種を抜かなければなりません。即ち、サタンの讒訴圏である体が解放されなければならず、その次には神様の愛、天の原則的な種に全部が接ぎ木されなければなりません。そのようなことを全て収拾しておけば、祝福を受けた家庭になるということを知らなければなりません。この祝福を受けた家庭が失敗するときには、無抵抗圏に入っていくしかないのです。何のことか分かりますか?失敗すれば、許される法がないのです。統一教会の信徒は、これをしっかりと知らなければなりません。祝福を受けて自分勝手に行動する者は、今後、統一教会に入って来ることができるのかという時、入ってくることができますか、できませんか?(できません)入ってくることができないのです。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。
もしも、祝福を受けた者が、自分勝手に妻と夫を捨てて出て行き、結婚して子どもを生んだならば、どうなるのかみていなさい!それを、神様は見向きもしないのです。それを見たがるでしょうか?これを今、よく分からないでいるのです。そのような時が、近い未来でおこるのです。そのような恐ろしい時が来るということを、知らなければならないのです。
そのような人達を、サタンがサタン視するのです。サタンは、 「私は長生期完成級の心情を蹂躙した」 と言いながら、 「完成級の心情は蹂躙しなかった」 と言うのです。しかし、祝福を受けて堕落した者は、完成級の心情を蹂躙したために、サタンもサタン視するというのです。サタンが、 「おい、この者」 と言うのです。サタンが審判長になるのです。分かりましたか?そのような時が来るということを知らなければなりません。
こんなにも根本復帰が難しいとは……。これをするために、長い歴史時代の中で皆さんが知らないうちに、夢のような話ですが、歴史を通して、このような摂理の因縁が残されたということを見るとき、統一原理を否定する道理がないということです。聖書を読んだ人は、これを否定することができないのです。分かりましたか?
歴史的な内容がこのように連結されているために、時代的圏内に、このような勝利的な基盤を築かなければならないということが原理の教えです。だから原理の道は、昔も今もついてくるのです。踏んで行かなければばりません。分かりましたか?だかなければ、もう一度、行かなければならないのです。7年の間に行けなければ、21ら、ここでは、乗り越えて行く道がないのです。皆さんが7年路程を行くことができ年間で行かなければならないという原則を知らなければなりません。分かりましたか? 「はい。」
2次7年路程を行けなかった人は、今から21年路程が残されているのです。その時は大変なのです。 「こんなことは知らなかった」 と言うはずです。そうだからといって、先生は教えなかったのではないのです。全部、教えてあげたのです。先生は責任だけ果たすのです。分かりましたか?死ぬ前に、へこたれずに、この道を行かなければならないのが皆さんの使命です。
(1972.6.6.根本復帰)
愛の秩序を正すための復帰歴史
7年路程では、することが多いのです。ヤコブは7年路程で何をしたのかといえば、ラケルを取り戻す闘いをしたのです。そうでしょう?7年の苦労をして、ラケルを取り戻そうとしたのにレアが現れたのです。だからもう一度、7年の苦労をして、ラケルを取り戻そうとしたのではありませんか?だから、7千年歴史のサタン世界は、レアの種になったのです。そうでしょう?ラケルを取り戻す前には、ヤコブの本来の理想相対が現れないのです。もう一度、エバを捜し出す再臨思想が残されているということを、ヤコブの1代で見せてくれたのです。そのようになるのです。
だから14年ぶりに、初めて取り戻したのです。レアとラケルを中心として見るとき、誰が中心ですか?ラケルを中心として、レアは僕にならなければなりません。レアはお姉さんですが、サタン世界に奪われていったエバを取り戻す型なのです。即ち、それは、僕の妻を連れてくることです。連れてこなければ、ラケルを取り戻す道がないのです。だから皆さんが、カインを取り戻さなければ、アベルとして登場する道がないのと同じなのです。分かりましたか?
モーセがクスの女性を妾として得たとしても、それを呪ったアロンとミデアンは、らい病になってしまったのです。だから、堕落した世界に奪われて、そこで子どもを生んで暮らしている女性を取り戻さなければならないのです。それを取り戻す前までは、純粋な娘を見つけてくることができないのです。このようになるのです。だから、マリアはレアの代身であり、イエスの新婦はラケルの代身にならなければならないのです。母親がレアの立場で、ラケルを捜してあげなければならないのです。このようなことが、歴史路程に残されているのです。
このような複雑な問題などが、原理が分かれば全て解かれるのです。ダビデ王の息子ソロモンの母親は何でしょうか?ウリヤの妻は誰ですか?バテシバです。ウリヤは何かといえば天使長型です。ダビデは神様型です。ウリヤは忠臣であるので、天使長と同じです。そうでしょう?堕落とは、神様の妻になるエバを天使長が奪っていったことなのです。だから、これを蕩減復帰するためには、忠臣の妻を奪って来なければならないのです。それで、バテシバを奪うために、自分の忠臣であるウリヤを戦争に送って殺してしまったのです。そのような暴君がどこにいますか?ところが、どうして彼の血統が混ざって、バテシバを通して生まれた息子が、栄光のソロモンになるのですか?
復帰原則が、そのようにして隠されるのです。ウリヤはサタンの立場に立ったために、犠牲にさせなければならないのです。終わりの日に処断しなければならない原則が立っているのです。そこで奪ってきた女性を通して、初めて生まれたソロモン王と同じように、イエスも彼と同じ伝統を引き継ぎながら生まれたのです。このようになるのです。
ルツやラハブという人達をみると、皆、正常的な愛の因縁を持った人達ではないのです。マタイの福音書を見ると、4大淫女がでています。なぜそうなのですか?そのように堕落したために、そのような位置で復帰していくのです。
だから終わりの日には、どうなりますか?終わりの日には、女性達がまかり間違えば、理想を描く女性達に2人の夫ができるようになるのです。そうなのです。終末の世の中には、世界でそのような風が吹くのです。今のアメリカでは、どんなことが起きているのかといえば、今までは一夫多妻主義であったけれども、今からは 「反対だ!」 と言って、一妻多夫主義が必要であると主張します。お金を持った女性達が、数人の男を連れて暮らすというのです。男は妾ですか、何ですか?何といいますか?そのような言葉はないでしょう?1人の女性が数人の男を連れて暮らすというのです。歴史に無いことが起こっているのです。
だから、愛の秩序が破綻してしまう時が来るというのです。統一教会が、この秩序を正さなければ、世界を救援することができないのです。分かりましたか?エバは1人の女性として、2人の夫に仕えました。そうでしょう?1人はサタン、天使長。1人は自分の夫、アダムです。このような立場に立ったために、女性達は宗教を信じる人も、イエスを信じる人も、2人の夫に仕えるようになるのです。分かりましたか?
新郎であられるイエスなので別の夫でしょう?自分の夫がいても、新郎であられるイエスに仕えていくというのです。2人の夫に仕えていくのです。そうですか、違いますか?そのようになっているのです。ペテン師が反対するのです。皆が色目を使っているのです。そのようなことをする女性が多いというのです。このようなことを見るときに、植えた通りに収穫するので、そのような時になってきていることを知らなければなりません。
(1972.6.6根本復帰)
イエス様の誕生を中心とした内外の事情
マリアは聞かれた時、素直にこの子は誰の子だと答えることができる立場ではありませんでした。神様の能力で、聖霊により身ごもったと言わざるを得なかったのです。マリアがそのようなことを言った時、どんな男性がそれを信じるでしょうか?ヨセフは自分の生命をかけて救ってあげたにもかかわらず、命の恩人である自分にその正体を隠すために弁明して嘘をついたと考えたでしょう。このような事情で内的な立場でマリアとヨセフの間には言い得ないトラブルがあったことでしょう。また、ヨセフが婚約者を式も挙げずに、誰にもわからないように、そっと連れてきた事実が親戚や村の人々からの注目の対象にならざるを得なかったのです。そのような状況ですので、村の子供たちとか友達たちは変な目で見ざるを得なかったのです。
そのような中で月日が過ぎるほど、ヨセフとマリア二人の間にはお互いが理解できない問題を中心とした内的トラブルがあったでしょうし、そのような事実は自然に噂にならざるを得なかったのです。
そのような変な噂が広がったので、ヨセフの親戚や兄弟たちは、ヨセフにその噂について聞かざるを得なかったのです。また、父や母や叔父や叔母も聞こうとしました。その時ごとに、ヨセフは堂々と自分とマリアに関して弁明できる立場ではなかったので、曖昧にせざるを得なかったし、ヨセフはそのような態度で、密かに何を考えているのかわからない様相を見せるようになったのです。そうして噂は、村全体はもちろん、近隣の村まで広がったのです。
そのような立場で一ヶ月、二ヶ月、時間が過ぎるに従ってイエスを妊娠したマリアの腹は大きくなって、そのようなマリアは恥ずかしくて外に出て行けない環境に追われたことを皆さんは知らねばなりません。その時、マリアはそのような環境に留まるよりはむしろ、どこかに行けるならば飛んで行きたかっただろうし、消えることができるならば消えたかったのです。しかし、そのようにできない立場で、人々の目を避けて自分の体を支えなければならなかったのです。心が休まらず、耐えられない10ヶ月という期間が続いたのです。
その期間にマリアは神様の前に祈ったことでしょう。人のいない砂漠やどのような所でもいいですが、誰にもわからない所に行って、子供を生むことができる道があるならば、その道を行くのが彼女の願いだったのです。
万一、マリアがそのような環境、そのような村で子供を生むならば、どれほど噂が立ったでしょうか。ヨセフの父母、親戚がどのように見て、また、祖父母がいたならば彼らはどのように見たでしょうか。マリアが子供を生むとき、喜びで称えるべきにもかかわらず、むしろ、厄介に考える立場で見るようになったので、問題にならざるを得なかったのです。
マリアとヨセフがこのように複雑でややこしい環境に追われた中で、出産の日はだんだん近づいてきたのです。そのような時、遂に、ローマの皇帝から、ユダヤの、国の全ての民は戸籍をしろという命令が下りたのです。そして、マリアはダビデ城(エルサレム)に向かう途中で、ベツレヘムで出産をするようになったのです。これがイエス様の誕生を中心とした内外の事情なのです。
どのような男性でも婚約者が妊娠したならば、その経緯を聞くでしょう。婚約者の妊娠に対する問題を提示しないか、というのです。もちろん、ヨセフは、天使が密かに教えてくれたこともあって、内心では理解しようとしましたが、その理由を知りたかったのです。そのような環境の中で、イエス様は地上に誕生されました。そのイエス様を、ヨセフはいつも喜びの心で対すべきでしたが、そのようにできませんでした。異父の子供に対する父の心情というのは、異父の子供を持ったことのない人にはわからないのです。
(1972.6.6.根本復帰)
悲しかったイエス様の幼少期
ヨセフが異父の立場で婚約者のマリアの体を借りて生まれたイエスは、ヨセフにとって、10ヶ月前から憂慮の対象だったし、その後マリアとの関係において心の苦痛を起こせしめる問題のイエスに対する感情というのは良い筈がなかったのです。もちろん、天が教えて下さったことを思い、喜びで対さねばならないということはわかっているのですが、それよりは生理的な感情が前に立ったために、イエスに対する時、喜びで対することができず、歓喜する立場で対することができませんでした。それが異父であるヨセフの立場だったのです。
イエスはそのようなややこしい三角関係の間で育つ以外にありませんでした。ベツレヘムで誕生したイエスがエジプトに避難して育ったのもヘロデ王が殺そうとしたためもありますが、このような事情もあったためだとも見ることができます。
そしてエジプトで3年余りの年月を過ごして戻ってくる時にも、自分の故郷には行けなかったのです。ガリラヤ湖畔のナザレに行って育ったのです。物心ついたイエスは父母であるマリアとヨセフの間が、自分の為に何かわからない問題が生じて家庭が良くない雰囲気に包まれていたということに感づいていました。このように哀れな環境で生きねばならなかったのが、イエスの事情ではなかったのか、と考えるのは当然のことです。
そのために、イエスは母の膝の上で抱かれながらも、必ず、自分の異父であるヨセフの目を気にしなければならないし、マリアも乳を飲ませながらも、喜びの顔でイエスに乳を飲ませることができませんでした。ヨセフがいる時は特に、恥ずかしい心で乳をあげる立場でした。このような関係の中で育ったイエスであることを知らねばなりません。
聖書にはないですが、知らねばならないことは、祝日になれば村の子供たちは全てきれいな服を着て、いい食べ物を食べますが、イエスはそのような時ごとに、誰よりも孤独な立場に立って悲しみを感じざるを得ない生活をしたのです。マリアはイエスを他の息子・娘達よりも良く食べさせ、良くしてやることができない立場だったために、そのようなこともヨセフの目を気にしながらせねばならない寂しい立場で、悲しい試練を経てきたということを皆さんは知らねばなりません。イエスはこのような生活の中で物心がついていったのです。
聖書にはイエスが12歳のとき、ヨセフとマリアがイエスを連れて、エルサレム聖殿に巡礼したという記録があります。その記録を見れば、父母であるヨセフとマリアがイエスをエルサレム聖殿に残したまま帰ってきて、3日後に再びイエスに出会った話があります。世の中に、どのような父母が12歳の自分の息子を一人置いて帰りますか?常識的に見る時、世の中のどこにもこのようなことはありえないのです。
それならば、なぜそのようになったのか?ヨセフはイエスに対してそうしないように努力しても、どうしようもなく、異父の子供という立場で扱ってしまうのです。いつも、イエスのために問題になったのです。
マリアはエルサレムに巡礼して帰る時、イエスをそこに残してあることを知っていました。しかし、ヨセフの目を気にせざるを得なかったのです。ヨセフの機嫌が悪い状態で、マリアが 「イエスを連れていきましょう。」 とでも言おうものなら、そこに反発が生じて、問題が生じるので、マリアは知りながらも、ヨセフの目を気にして、そのまま従ったのです。そして家にまで着いて、3日後に再び行って、イエスに出会うようになったのです。ヨセフも良く考えてみると、幼いイエスを一人残しておいたのは、人間として、してはいけない事だと思い、イエスを連れに行かざるを得なかったのです。
その時イエスは正殿で祭祀長、書記官たちと聖書の討論をしていました。それを見て、マリアは 「あなたはどうして私達にこのようにしたのか?(ルカ2:48)」 と聞きました。しかし、イエスの答えは 「どうして私を探したのですか、私が私の父の家にいることをわからなかったのですか?(ルカ2:49)」 だったのです。その言葉はどのような意味で言ったのか?父母に対する反駁でした。父母の立場で子供を残して3日間経ってから、やっと来て、何を言っているのか、というのです。
また、聖書を見れば、弟子たちがイエスに、 「お母様や兄弟たちが来て探していました。」 といった時、イエスは 「私の母、兄弟たちとは、即ち、神様のみ言を聞いて行う人々である。(ルカ8:21)」 と言われました。その言葉は父母が父のみ旨をしているかしていないか、という意味です。このような言葉を見る時に、ヨセフの家庭でマリアはイエスを中心として、神様のみ旨を受け入れることができなかったということを皆さんは知らねばなりません。
(1971.1.10.根本復帰)
マリアの立場
マリアはイエスが家を離れた後、ガリラヤにある親戚の家でカナの婚姻の時にイエスに初めて会いました。イエスも親戚の家で宴会があるのを知って行きましたが、そこでマリアに会ったのです。そこでマリアがイエスに、宴会のお酒が切れた、と言った時に、イエスは母であるマリアに対して 「女よ。私と何の関係があるのか?」 と叱りつけました。この言葉の中には、イエスは誰にも語る事のできない隠された内的な事情が絡んでいることを知らねばなりません。
それが何かといえば、イエスにも母がいたし、祖母がいたし、姉がいたし、妹がいたし、それ以外にも親戚の男女がいたにもかかわらず、30歳になった年のいった独身男性を大工の手伝いだけさせながら、結婚の心配もせずに、マリアが母としての責任を果たせなかったというのです。どのような困難があっても、マリアはイエスの行く道を探してあげて、これから天のみ旨を抱いて行かれるイエスであればこそ、内心で憂慮してあげながら、イエスの未来に対して深く考えなければならなかったのです。 「あなたはどのような道を、どのように行くのか?」 と言いつつ、母と子息間でお互い秘密裏に工作をしてでも、み旨を成すことができる道を開拓しなければならなかったのです。このような面で、マリアはイエスの行く道を探してあげる責任を果たせなかったのです。
皆さんがここで一つ知らねばならないことは何か?今日、堕落したこの地上で神様の愛を受けることができる息子が出て来なければ、神様が愛することができる娘が出て来ることができないのです。創造原理がそうです。神様は、アダム、即ち、男を先ず造られました。そして、男を見本として女を造られたのです。そのために、先ず、この地上で神様が愛することができる息子が生まれなければなりません。では、そのような息子が地上にいるか?いないというのです。したがって、神様は愛することができる息子を持つのに、この地上で、そのような息子が生まれるようにするためには、女性の体を借りなければなりません。そうではありませんか?
それでは、マリアという人はどのような立場にいる人か?神様の前に僕です。マリアは天側に立っていますが、元来、天使長の血統を通して生まれた女性です。天使長がサタンになったのです。マリアは堕落した女性の中で、天に戻ってくるために歴史時代における最初の女性だったのです。ガブリエル天使がマリアに現れて 「あなたは受胎して息子を生むでしょう。(ルカ1:31)」 という告知をした時、マリアは 「私は男を知らないのに、どうしてそのようなことが起こりますか?(ルカ1:34)」 と答えました。これに対して天使が 「神様にすべてのみ言はかなわないことがない(ルカ1:37)」 と言うと、マリアは 「主の下女ですので、み言通りに私になさってください。(ルカ1:38)」 と言いました。神様のみ旨を成すことができる道があれば、生命をかけて全てを覚悟した身なので、許諾されたみ旨があるのなら、何でも受けていきますと盟誓したのです。そしてマリアは神様を背反した歴史時代において、神様の為に生死を覚悟して立った最初の女性になったのです。
マリアがこのような立場に立つことができたのは体面と威信と生死の問題を越えたためです。そのような決意をしなくては、それを受け入れることはできません。既に自分には婚約した男性がいて、運命が決定した状況なのに、このようなことがありえるというのは家庭を辱めることであり、自分の威信を地に落とすことなのです。それだけではなく、モーセの法のために自分は死ななければならない運命に置かれるのです。しかし、その道が神様のみ旨ということを知り、全てを捧げて、生死を覚悟して、それを受け入れたのです。そして、マリアは初めて歴史上に初めて神様のみ旨に対することができる女性として登場したのです。
マリアは僕でした。天使長側に立っている僕、天使長の娘でした。神様は、この地上に必ず、神様の息子を送らねばならないのに、女性がいなくては生むことができないために、仕方なく神様が尊い皇太子を送るにおいて、サタン側の女性の体を借りたのです。神様がそのように生むようにしたのは、嬉しくてではなく、女性がいなくては、この世を祝福することができる子供を生むことができないので、仕方なく、僕の体でも借りてイエスを誕生させたのです。わかりますか?
マリアは僕です。マリアはイエスの母ではありません。イエスの母の立場に立ちはしましたが、マリアは、神様がイエスを生むために仕方なく借りた女性なのです。今日、カトリックでは、マリアを崇拝しますが、そうではなく、マリアの体を通さなくては、神様の息子が出て来ることができないので、そのようにしただけなのです。
(1971.1.10.根本復帰)
天側の息子を立てるためにあった蕩減復帰摂理
それではイエスは誰なのか?アダムの代身です。失われたアダムの代身です。アダムが堕落したために、神様の愛の圏内で再び抱かれるために探し出されたアダムなのです。ですから、このように生まれたイエスは皆さんとは違います。それでは、知っている人もいるでしょうが、イエスは皆さんとどのように違うのか、そしてなぜメシヤになるのか、また、なぜ神様の息子になるのか、という問題です。マリアもサタンの血統を受け継いだ堕落した後孫です。マリアが神様のみ旨に従って来たといいますが、サタンの血統として汚された女性の体なので、そのような女性の体を通して生まれたイエスも汚された体になり、サタンが讒訴できることになるのです。
そのために、神様はそれを蕩減する為に、歴史的な戦いをして来られました。アダム家庭では、カインとアベルが戦いました。この兄弟は大きくなってから戦いました。その戦いが何かといえば、兄弟を交換するための戦いでした。結局、弟の前に兄が屈服しなければならないのです。それを細かく話そうとすれば、時間がかかりますが、少しお話しましょう。
愛の結実体として生まれた息子・娘には兄がいて弟がいて、1・2・3・4・・・と順次的に生まれます。そして父母の前に、縦的に立つようになります。そうでしょう?一つの父母の愛の結実は、一つの立場で、一つの系統に立つようになります。兄がいれば、弟は順次的に立つようになるのです。しかし、アダムが堕落することで、カイン・アベルは横的な立場に立つようになりました。カイン・アベルはお互い横的な立場、即ち、横に立つようになりました。愛の結実が二つになったのです。
本来、創造原理によれば、愛の結実が二つになることができますか?原則は一つの結実にならねばならないのに、二つになったために、一つの結実の立場に立ったという条件を立てねばなりません。そうしようとすれば、どのようにならねばならないのか?この地上で愛の結実として生まれるにおいて、先ず、サタンを中心としてまれるようになっていません。そうでしょう?誰を中心として生まれねばならないのか?先ず、神様を中心として生まれねばならないのです。しかし、先ず、サタンを中心として生まれたカインが兄になったのです。反対になったのです。
本来の息子・娘は神様の愛によって生まれねばなりません。全部、神様の息子にならねばならないのに、初めに生まれたカインはサタンの息子になったのです。それなので、全て、神様の息子・娘の立場に立てなくては、神様が人間を主管することができないし、人間も神様と共に幸福な生活をすることができないのです。それなので、二股になったので、これは大きな問題だというのです。そのために、サタン側にいる兄は仕方なく、天側にいる弟に屈服しなければならないのです。
なぜ、そうすべきなのか?原理的に見る時、エデンの園でアダムと天使長が堕落しなかったならば、神様を中心としてアダムと天使長が一つになったのです。三者が一つになるのです。先ず、神様とアダムが一つになるべきが、なれなかったのです。その次にアダムと天使長が一つになれなくて、天使長が神様と一つになれなかったのです。これが堕落です。
アダムが神様と一つになれずに、神様の息子になれなかったので、神様も完全な生命の要因を持てずに、完全な愛を持てなかったのです。アダムが神様に生命と愛を連結できずに、サタンと共に生命と愛の関係を持ったのです。これが問題です。
アダムが神様の愛を中心として、神様の生命に連結して完成したアダムになったならば、問題は全て解決したのです。そのようになったならば、アダムは神様の愛を受けたことでしょうが、堕落によって神様の子女の位置を喪失するようになったのです。そして、アダムはサタンの生命を受けてサタンの愛を受けたのです。
そのために、復帰路程において先ずしなければならないのが何かといえば、アダムが神様と一体になるのです。一つの体になるのです。一つの体にならなくては、生命が連結しないのです。その次には、アダムと天使長、神様と天使長が一つにならねばならないのです。これが原則です。生命の順序が神様から、アダム、天使長に連結しなければならないのです。したがって、神様もアダムを愛して、天使長もアダムを愛するべきが堕落によって、その反対になったのです。
そのために、これを復帰しようとすれば、愛する立場に立って屈服しなければなりません。そうでしょう?兄の立場にいる人は弟の立場にいる人に屈服しなければならないので、弟と兄の立場を交換するための歴史が今までの復帰摂理歴史なのです。
(1971.1.10.根本復帰)
恩讐を愛さなければならない理由
皆さんが一つ知らねばならないことは、サタンが今まで罪悪史の源泉になっているのですが、なぜ、イエス様は怨讐を愛せと言わねばならなかったのか、ということです。
本来、サタンは天使長でした。しかし、その天使長が 「私は堕落してサタンになったが、神様は全知全能であられる絶対者なので、神様が立てた法度を中心として解決しなければならないのではないですか?私は法から外れてサタンになったが、神様は全知全能であられる絶対者なので、神様が設定した法を中心として実践しなければならないのではないでしょうか?」 と言うのです。そうではないでしょうか?
その法が、どのようになっているのか?神様は創造当時から、完成した立場で天使長を愛する立場に立たねばならないという法を立てたのです。しかし、完成した後にも天使長を愛さねばならないのです。そうでしょう?それなのに、長成期完成級で堕落してしまったのです。完成段階で人間と天使長が堕落してしまったのです。
しかし、天地法度が、神様は完成段階で天使長を愛するようになっているので、天使長は、 「自分は堕落したけれども、神様はその法度のまま、完成した立場で自分を愛さねばならず、そうする前には、完全な神様として登場することはできないのではないか」 と言ってぶら下がっているのです。結局、サタンは 「神様は完成した立場で、私を愛したという条件を立てなくては、あなたのみ旨は成されない」 と言いつつ、ぶら下がっているのです。なんのことか、わかりますか?
その次には、人間を中心としてぶら下がっているのです。神様は、全知全能であられるので、神様の息子が完成したならば、み旨が成されるのです。そのために、サタンは人間が完成した立場に出て行く完成した息子と認めるには 「神様の息子は神様の偉業を受け継ぐ者なので、完成した立場に出て行く息子たちも完成した立場で僕である天使長を愛するようになっているのではないですか?完成した息子として私を愛してみたか?」 と言ってくるのです。このように、二つの条件を引っ掛けるのです。そのために、6000年が引っ掛かったのです。
神様は完成した立場におられますが、神様が完成した日を迎えるその日は、人間が完成する日です。人間の完成と共に、神様が完成した立場で登場されるのです。そのために、アダムの代身として送ったイエスが完成した立場で徐々に全体の相続を受けることができれば、神様の完成が始まるのです。これは、即ち、神様の完成が人間の完成になるのです。
そのために、神様が完成した人間である息子の心の中に入って行かれ、息子を通して天使長を愛したという条件を立てなくては、天使長を追い出すことができないのです。そのような事情を知ったイエスは神様が4000年間恨の埋まった受難の道を歩んで来られたのは、この一つの完成基準を解決できなかったためであることを知り、自分が十字架の死の道を行く恨があったとしても、この恨を解いて差し上げねばならない気の毒な事情を持つ立場であったのです。そうでしょう?
そのために、イエスは怨讐に対して 「父よ。あの者達を許したまえ。彼らは自分達のしていることがわからないのです。(ルカ23:34)」 という福を祈ったのです。自分を殺そうとする怨讐を愛さざるをえない心を持って福を祈ってあげたのです。これが愛したということですか、罰したということですか?愛したという条件を立てたのです。
そして、神様がサタンに 「私の息子は死ぬ立場でも、お前を愛した。生命を捧げる立場でも愛したので、愛の中の、最高の愛ではないか?お前は天使長の立場で堕落してサタンになったが、本来、天使長の立場にいるお前に対して、主人がすべきことまでしたので、神様の息子の権威を持った完成の愛を与えて余りあるのではないか?」 と言うことができるし、その時サタンは 「はい」 と答える以外にないのです。わかりますか?
そして 「本来、人間は完成した息子なので、サタンであるお前は彼を愛すると共に、彼に絶対服従しなければならない。絶対的に彼をお前の体のように愛さねばならない。愛しなさい。」 と言うのです。完全に屈服せねばならないのです。サタンはここから後退するのです。そうして、神様をサタンよりもっと愛して、イエスをサタンよりもっと愛するようになる時、サタンは手を出すことはできなくなるのです。そして、ここから、サタンは天の国、即ち、天国と別れていくのです。なんのことかわかりますか?
このような事情があるので、今日、キリスト教徒達は、怨讐を愛さなくては天の国に帰って行くことはできないのです。それなので、怨讐を愛する心を持って帰らねばなりません。これをカイン・アベルの立場で見る時、アベルは誰を愛さねばならないのか?カインを救ってあげなければならないのです。カインが天使長の立場だからです。そうでしょう?天使長を解放させなくては帰ることができないので、統一教会の原理の中で、カイン・アベルの問題が登場したのです。
(1971.1.10.根本復帰)
腹中復帰の基盤の上で神様の息子として生まれたイエス
イエス時代に天使長の実体はヨセフでした。ヨセフとマリアは怨讐の関係です。エバはアダムに 「あなたが堕落したのは、あなたが主体になるべきにもかかわらず、堕落をしていない立場だったのに、なぜ、私の言葉を聞いたのか?」 と言っているのです。また、アダムは 「あなたは、なぜ、私を堕落させたのか?」 と言いながら、怨んでいるのです。そのような点で、ヨセフとマリアはお互い、怨讐なのです。
マリアはタマルのように非合法な道を行きました。タマルが非合法な道を行って勝利したのを継承するためには、非合法な道を行って、夫ではない、違う男性を通して妊娠しなければならないのです。マリアはタマルと同じように、自分の生命を捧げることを覚悟したのです。対面や威信や生死は問題ではなかったのです。神様の祝福の継代のためには、自分は石で打ち殺されても良いと考えたのです。死んでも、子供を生んだ後に死ぬならば良いという覚悟をして立ったマリアの立場はタマルと同じだったのです。
1900余年前に立てておいたヤコブ家庭とユダ家庭で備えた勝利の基盤が歴史を経てきながら継承されたのです。そしてマリアを通して神様が願われた息子をはらみましたが、その息子は双子ではなくイエス一人だったのです。イエス様は、そのように、勝利の胎中で抱かれた息子であるので、サタンが自分の息子だと讒訴することができないのです。そして、イエス様は、初めて、天上のみ旨を立てることができる神様の独り子として、地上に降臨するようになったのです。わかりますか?
イエス様はどのような教祖にも比較することのできない教祖で、神様の息子であることを否定できません。聖書がどうしたらそのようになるのか、理論的に全く合うのです。これは、文先生が作った話ではありません。そのようになっているのです。
イエス様は神様の息子です。サタンが血統的に人類に侵入できる基盤を堅固に固めましたが、それを腹中で交換する基盤を備えて、マリアがイエスを腹中で妊娠したその時から、サタンが腹中に自分の子供が入っているという条件を立てられないようにしたのです。腹中にいる子供は、主人である神様の最初の結実として、神様が私の息子だといいながら、堂々たる権威を持って誕生させることができる子供だったのです。そのようなイエス様が僕の体を借りて生まれたのです。
イエス様はアダムの代身でしょう?しかし、アダムを見本として造ったのはエバなので、イエス様を見本としてエバを創造しなければなりません。イエス様は生まれたならば、エバも創造の原則通り復帰しなければならないでしょう?再創造しなければなりません。間違ったことを正しくして、本来の姿に造らねばならないのです。
(1971.1.10.根本復帰)
本然の一人の女性を探さねばならなかったイエス
こういう全てを知って原理講義をすれば、誰が質問しても答えることができるのです。既成教会の牧師達が降参するのではないでしょうか?このような秘密はどこに行っても、億千万を積んでも学ぶことはできないのです。そうでしょう?先生がいるので、これを全て学ぶことができるのです。
それなので、統一教会の原理は先生に生命が復活して連続しているのと同じです。先生が生命をかけて戦って探し出したのです。その一つ一つの問題が解決される度先生の生命が復活してきた、生きた歴史なのです。それなので、皆さんは原理を生命よりも重要視して生きなければなりません。わかりましたか?
イエス様が誕生する時まで、サタンは人々に 「お前の体には私の血が入っている」 と言いながら、讒訴しました。優れた人も、劣った人も、皆、そのような讒訴を受けるのです。釈迦や孔子を信じる人には悪いけれども、彼らも同じです。堕落した後孫なので、神様の立場から見る時には、そうだというのです。しかし、イエス様はそうではないのです。
イエス様は前に語ったように、そのような過程を経て生まれましたが、そのように生まれた女性がいますか、いませんか? 「いません。」 そのために、そのように生まれた男性であるイエスは昔、エデンの園で失ってしまったエバを再創造しなければならなかったのです。“私に似なさい”と言って再創造せねばならなかったのです。
エバはアダムに似て造ったでしょう?人は、エバをアダムのあばら骨を取って造ったので男性はあばら骨が一つない、と言います。しかし、あばら骨を取ったのではありません。あばら骨がないか、数えてみなさい。これは、見本にして造ったという意味です。皆さんは本の中で要点を整理することを、骨組みといいます。骨子ともいいます。それと同じです。あばら骨を取って造ったというのは、即ち、それを見本にして造ったという意味なのです。
(1971.1.10.根本復帰)
聖婚できなかったイエス様
それでは、マリアはどのようにすべきなのか?僕であるマリアは堕落したエバの立場で自分の継代を通して堕落しないエバを造るためにあらゆる精誠を尽くさねばならなかったのです。そうではありませんか?
これはどういう意味かといえば、イエスが結婚することに関心を持たねばならないというのです。ですが、マリアはガリラヤのカナの婚宴に参席してそこに来たイエスに 「葡萄酒が切れた。」 と言った時に、イエス様は 「女よ。私と何の関係があるの 「か?」 と言われたのです。嫌味ですか、嫌味でないですか?あなたと私は何の関係があるのかというのです。他人の家の婚宴は何の関係があるのか、私の婚宴はどうなったのか、というのです。
先生がこのような族譜を暴いて悪口を言われる必要がありません。しかし、歴史を正して伝統を正しく立てねばならないので、不可避なのです。そうではないでしょうか?イエスが死ぬようになったのは結婚できなかったためです。結婚したら、なぜ、死ぬのですか
マリアは全身全霊を尽くして女性を創造しなければならなかったのです。マリアは女性です。マリアは僕としての女性の中で代表的な女性であるために、僕圏内にいる女性たちを全部、動員しなければならなかったのです。三人以上、動員しなければならなかったのです。三位基台を立てねばならないのです。そのように動員しておいて、お互い、協助しなければならないのです。
イエス様の親戚たちの中で、娘がいれば探してみて、そのような娘たちを集めて基台を造らねばなりませんでしたが、それができなかったのです。イエスの親戚の中で誰がいましたか?洗礼ヨハネの妹がいたならば、どれほど良かったですか?洗礼ヨハネの母はマリアがイエスを身篭った後、面倒を見てくれました。イエスが腹中に入る時から、歓迎しました。それによって、洗礼ヨハネの姉妹や姻戚の八親等内に娘がいたならば、洗礼ヨハネの母とマリア、そして姉がいたならば、その姉と三人が一つとなって、イエス様より年の若い親族の娘と因縁を結ぶようにしなければならなかったのです。イエス様と共に一人の女性を再創造しなければならなかったのです。
万一、洗礼ヨハネの妹がいれば、その妹が幼い時から、イエス様が東に行けば一緒に東に行くし、西に行けば一緒に西に行くし、行けなければ“私は死ぬ”と言うくらい、ひたすらイエス様を愛するほどに教育しなければならなかったのです。そのようにするのは誰でもいいのではありません。その女性は、今まで信じることができなかった歴史的な内容を解くことができる特別な氏族の中から出て来なければならないのです。その特別な氏族はどんな氏族か?洗礼ヨハネ家庭とヨセフ家庭です。ヨセフ家庭ではヨセフの親族もいたでしょう。そうでしょう?
神様は、イスラエルの国の中ではユダヤ教が中心で、ユダヤ教の中では、ヨセフ家庭が中心で、ヨセフ家庭(氏族)の中では洗礼ヨハネの家庭が中心であることは知っておられました。そのために、それらの家庭は一番重要な血族でした。先祖の中で種が良いというのです。神様は、イエスを、見こみがあり、また、名門である家門を通して生まれるようにされたのです。また、洗礼ヨハネ家庭を見ても、エリザベツが洗礼ヨハネを身篭った時、祭祀長をしていたザカリヤが唖になった事件が起こったのを見る時、族譜、すなわち、家門が良い家であるというのです。それなので、そのように良い親族圏内から、イエス様の相対者を得たならば、神様は嫌がったでしょうか、それとも、喜ばれたでしょうか?
イエスの相対は他の所から得ることはできません。自分の直系で親族内の姉妹でなければ、二親等までの親族しかありません。血統が違ったらいけないのです。二親等までの親族ならば、一つの所属内なので可能なのです。このように親族内の姉妹を通してみ旨が成されたならば、どのようになっていたでしょうか?イエス様に従って、イエス様でなければ自決して死ぬという、イエス様でなければ結婚しないという、そのような姉妹がいたならば、どのようになっていたでしょうか?イエス様が死ぬ時に自分も一緒に死ぬと追いかけていく女性がいたならば、どのようになっていたでしょうか?そのように考えてみましたか?
ペテロ、ヤコブ、ヨハネのような主弟子たちも、全部逃げてしまいましたが、イエス様をひたすら慕う女性が 「私も死にます。イエス様が行かれるならば、私も共に死にます。」 と言って現れたなら、どうなったでしょうか?そうなったならば、イエス様は昇天する必要がないのです。そして、イエス様が昇天をしなかったならば、キリスト教徒たちは絶対に虐殺されなかったのです。そのような事実を見ると息が詰まるのです。
この地上に、神様の王子が来られたのに、男達は天使長の立場なので逃げましたが、彼の相対として残ることができるエバの群れ、自分の郎君が行かなければならない道を、操を持って守ることができる一人の女性、片思いでも慕うことができる女性がいたならば、どのようになっていたでしょうか?皆さんはこれを考えてみましたか?
万一、そのようになったならば、イエス様は死んだとしても、神様の前に栄光を返すことができるのです。または、 「あなたは、この地上で、私を愛することができる一人の人を見つけられたのではないでしょうか?死ぬ場所にまで、私の横で、私を愛して死んで行った、か弱い女性を哀れに思ってください。」 と恵みを乞うことができるのです。万民を代身して、恵みを乞うことができるのです。
万一、そのようになったならば、イエス様は死の道、黄泉の道であったとしても孤独ではなかったのです。地獄に行ったとしても、ペアで行ったでしょうし、楽園に行ったとしてもペアで行ったのではないでしょうか?聖霊を送る必要がないのです。しかし、ペアとしていることができない運命だったために、聖霊を送ったのです。父神であるイエスは天の国に行って、母神である聖霊は地に降りて来る離別が生じたのです。そのような女性がいたならば、昇天は必要ないのです。地は息子・娘を直接保護するので、そのように死ぬことはないのです。
(1971.1.10.根本復帰)
イエス様に対し責任を果たせなかったマリアと親戚
このような恨が積もっているので、キリスト教は血の宗教になり、血を流す歴史を経てきました。このような悔しい事情が積もっているのです。もっと繊細に話してあげたいのですが時間がありません。これだけ話せばいいでしょう。原理にはそのような内容がありません。原理はイエスまで説明しているので、イエス以後、先生に関することは、皆さんは知りません。そのために、皆さんは、これから本当の勉強が残っているのです。
それを教えてあげていないのです。試験を受けて落ちる人は落ちて、本当に残るべき人達だけ残るならば、私が天の国に連れて行くことができる家庭をつくっておいて、教えてあげるのです。そのような家庭を作るために、今、このような苦労をさせているのです。女性達を追い出して苦労させて、今は男性達と子女達までも苦労させようとするのです。
イエスやマリアは、このような内容を知りませんでした。ボサボサ髪の独身者となって、ただ神様が教えてくれればうなずき、 「しなさい」 と言われたとおりにしかしなかったので、そのような準備は一つもしませんでした。万一、わかったならば、親戚の姉妹達に接近して、み旨を教えてあげたのではないでしょうか?事実、当時の事情として、イエス自身がそのようにすることができる立場ではありませんでした。父違いの子供として生まれたと言う噂の為にそのようにできない立場であったことによって、母であるマリアと洗礼ヨハネの母、そして自分の姉か、または親族の姉などで3人の女性がしなければならなかったのです。そのように、女性さえ一つになったならば、間違いなく成すことができたのに、これをできませんでした。
皆さん達の中でも、いつみ旨が成されるのか、と思う人がいるでしょう。神様の特権的な恵沢、天地がひっくり返るほどの福が降りて来て、皆さんを尋ねて来ているのに、そのようなことを知っていますか?それを受けろ、と言っても、目をパチクリするだけですね。歴史がそのように成されていくのです。
では、イエス様がかわいそうですか、かわいそうでないですか? 「かわいそうです。」 このように、イエス様を結婚させられなかった女性達になってしまったので、滅びるようになったのです。わかりますか?イエス様が結婚できなかったので、父母に侍ることができずに、親戚を形成できずに、教会を持てずに、国を形成することができないようになったのです。
(1971.1.10.根本復帰)
エバ復帰路程
統一教会の女性たちが、なぜ、3年路程に行かねばならないのですか?その理由がわかりますか?60年代は女性を個人的に送り出しました。個人の女性だというのです。そのために、先生が3年間、開拓の一線において女性を先頭に立てました。そうでしょう?その3年が過ぎたならば、男性が多くなると言いました。最近は男性が多いでしょう。
女性が神様の息子を追い出しました。個人的に追い出し、家庭的に追い出し、民族的に追い出したのです。そうでしょう?女性たちが一つになったならば、状況がそのようにならなかったのです。宗教は女性のものです。女性たちが一つとなってイエス様を救出しなければならなかったのです。イエス様を殺そうと反対する群れの3倍の女性たちが集まって、私を殺せと言って騒いだならば、イエス様を殺したでしょうか?殺せないのです。それは、大変なことです。
そして、個人の女性の蕩減時代が来ましたが、今、家庭の女性時代に上がってきたのです。このような蕩減時代がなければならないのです。個人アベル蕩減がなければならないし、家庭アベル蕩減がなければならないのです。蕩減をしなくては、上がることができないのです。各段階のこのような蕩減があるのです。個人女性蕩減をすれば、一段階上がらねばならないでしょう?一段階上がるのにそのまま上がることができますか?そのままでは絶対上がることができないのです。蕩減をして上がるのです。
そのために、先生も苦労しているのです。万一、キリスト教が先生を受け入れたならば、キリスト教は2000年間、個人と家庭を蕩減して来たので、一遍に全て解決するのです。しかし、キリスト教が反対したので、再蕩減の路程が残されたのです。そして、先生は北韓の共産党世界、怨讐サタン世界の果てに行ったのです。そこで南韓を探し出し、奪ってきたのです。戻ってくる時、奪って来てでも探してこなければ、足場を作ることができないのです。このようにして、個人・家庭・氏族まで上がってきました。たくさん上がってきたでしょう?そのたび、迫害を受けて追われながら来たのです。
先生は個人復帰路程を経て60年代から聖婚式を中心として家庭復帰の足場を築いて来ました。イエス家庭、即ち、エバを育てねばならないのと同じように、先生もオモニを育てねばならないのです。先生がなぜ年の若いオモニを選んだのかわかりますか?先生が育てねばならなかったのです。20代を越えれば、真の母になれないのです。
アダム・エバが10代圏で、即ち、エバが16歳頃に堕落したので、何もわからない10代圏内にいる女性を選んで、天の法度を通して誰も知らないうちに育てなければならなかったのです。このように何も知らない10代の女性が、夫が行く道の前に絶対的に生命を全て捧げて順応しますと宣誓をして、天を通して公約を立てて、オモニの位置に上がっていくのです。全部わかってはいけないのです。何も知らない状態で上がっていくのです。
オモニが何をわかるでしょうか?先生の年齢40代に対して18歳になった夫人を迎えて、どれほど息が詰まりますか?ご飯を食べるのと、神様以外知らないオモニでした。しかし、そのオモニとその背後にある神様のみ旨があったので、何も知らないオモニを連れて育てたのです。その期間が1次7年路程の期間でした。
神様は女性を6日目に創りました。7日という期間を越えなければなりませんが、そのような安息期間を越えることができませんでした。そのために、男性としての先生は勝利の基盤を築きましたが、女性として、オモニの勝利の基盤は築くことができなかったのです。それなので女性として勝利の基盤を越えるようにして、家庭の基盤を築くためのその期間が、第1次7年路程なのです。
そのために、オモニは泣きながらでも、従順にならなければならなかったのでした。泣いても、タマルのような心、マリアのような心を持たねばならないのです。私の一身が滅ぼうと関係なく、肥料になるという考えを持たねばならない、国の為に、世界の為に、み旨のために祝福を受けた血族を残すために、どんな冒険でもすることができると決意する立場に立たなくては、オモニの名前を持つことができないのです。先生が、その教育をしてきたのが、第1次7年路程だったのです。
そして第2次7年路程は何かといえば、女性として行く道を築く期間です。祝福を受けた男性達は何かといえば全部が天使長型です。オモニが1次路程を行ったので、祝福を受けた女性達が2次路程を行かねばならないのです。即ち、2次7年路程は息子・娘の立場にいる家庭達が位置を決定する期間なのです。
その次の3次7年路程からはどのような期間に該当するのか?そのときは、祝福を受けた皆さんの息子・娘達が、14・15・16歳を越えるようになるのです。そうでしょう?3次7年路程さえ越えれば、祝福を受けた人達の中で、アダム・エバが堕落したその時の年齢を越えた子供たちが出てくるようになるのです。なんのことかわかりますか?そのために、その時から統一教会が世界的に伸びていくようになります。
(1971.1.10.根本復帰)
アベルの使命
今日、このような全ての片寄ったものを受ける環境でも、片寄ったものではなく、完全に根本復帰しながら天布を正して、原理原則に立脚した神様の愛を中心として、絶対的に男と女が永遠不変となる原則を立てながら、神様の愛を受け継ぐことのできる愛の中で生まれた子女として、氏族、民族、国家が形成されることのできる時になることによって、地上天国がなされるのです。これをするのが統一教会です。
だから復帰は、個人の復帰だけではありません。完全復帰は、個人を完全に根本復帰しなければならず、理想的な家庭が現れなかったので、家庭を中心として根本復帰をしなければならず、理想的な国家が現れなかったので、国家も根本復帰をしなければならず、世界も創造原理を中心として根本復帰をすることによって、地上に神様が喜ばれる天国が成されるのです。地上天国が成される時、天上天国は自動的に成されるようになるのです。皆さんはこのようなことを知って、そのことのために呼ばれた皆さんであることを知らなければなりません。分かりましたか? 「はい。」
だからメシヤは絶対に必要なのです。メシヤとは個人的復帰のモデルであり、家庭的復帰のモデルであり、氏族的復帰の主体であり、民族的復帰の主体であり、世界的復帰の主体であるので、彼と共に、彼の行く道を一緒に行かなければなりません。彼が右足を踏み出し、そして左足を踏み出していくのに歩調を合わせなければならないのです。神様がアベルであれば、アベルが行けばカインもついて行かなければならないでしょう?カインが一歩踏み出せば、アベルも一歩ついて行くでしょう?このように、2人が1つになる前には、神様に侍ることができないのです。
だからアベルは、何をしなければなりませんか?3大復帰をしなければならないのです。第1は、カインを復帰しなければなりません。分かりましたか?次には、父母を解放させなければなりません。その次には何の使命がありますか?神様を解放させてあげなければなりません。このように、3大使命があるというのです。分かりましたか?言い換えれば、サタン世界を開放させてあげなければ、父母が現れないということです。その次には、父母を解放させてあげなければ、神様が解放されないのです。この3大解放圏の責任を果たさなければならないのが、アベルの使命です。分かりましたか?
今日、統一教会の信徒の中に、 「おい、私が先に入ってきたのでアベルであり、後で入ってきた人はカインだから私に侍りなさい!」 と言っている狂った者がいるのです。そのような狂った者がたくさんいるのです。アベルとは、どのようなのがアベルですか?神様の御旨通りにする人がアベルです。より公的な人がアベルです。
カインは何ですか?サタンです。サタンは何ですか?自分を考えるときから出発したのです。アベルは自分を考えるのではなく、神様を考えるときから始まったのです。これを知らなければなりません。
先に入って来たとしても、欲張り者はカインです。自分の考えが先にいく人はカインです。そのような者は、追放しなければなりません。先生は、このような原則で人に対します。いくら長くなった食口でも、その根性が自分のためにする時は、見向きもしないのです。今は仕方なく、そのままにしておいていますが、時が来たら荷物をまとめて追い出すのです。本部にも、そのような者がいます。先に入って来たからといって、アベルではないのです。分かりましたか?私的な基準が先立つのはカインであり、自分よりも公的な問題、神様をもっと考えるのがアベルです。これをはっきりと知らなければなりません。
だからアベルは、何をしなければなりませんか? 「私は1人で天国に行く」 と言ってはいけません。1人では絶対に天国には行けないのです。イエスは世界的なアベルでしょう?イエスもカインを復帰する前には、天国に行けないのです。カインが讒訴し得る闘いの圏を残しては、天国の王子として即位することができないのです。このように、世の中を救援しなければならない責任があるために、今もなお、天国に入って行くことができず、天国に入るための待合室のような楽園で、この地上に行ったり来たりして、世界的なカイン圏を復帰するために闘っているのです。
このようにしながら、カイン・アベルが完全に1つとなりながら、神様のために歩むことによって、初めて父母を探すことができるのです。分かりましたか?カイン・アベルが1つになる前には、父母に侍ることができないのです。分かりましたか?統一教会の信徒は、これを知らなければなりません。真の父母に従って侍るためには、1人ではだめなのです。カインを復帰させなければなりません。
このカインは歴史的なカインです。アダム時代に反対した1代、イエス時代に反対した2代、再臨主時代に反対した3代。この3時代を代表した最小限度の3人の不従順なカインを、完全に自分の前に屈伏させなければなりません。イエスの死の道において、3弟子が先に命を犠牲になりながら責任を果たさなければならないのにもかかわらず、イエスが死ぬときに逃げて行った3人であるので、イエスは恨めしくなったのです。だからキリスト教は、受難の宗教になったのです。カインとなるその3人が、皆さんの恩徳を忘れられず、皆さんの死の場を代わりに死ぬことのできる囲いをつくらなければ、戻って行けない道というのが、復帰の道なのです。
アダムが堕落する時に8人が堕落したので、復帰するときにも8人を選んで復帰しなければなりません。皆さんは、これを知らなければなりなせん。アダムは、本来、3天使長を主管しなければならないでしょう?アダムの前に絶対服従することのできる3天使が、昼でも夜でもアダムに仕えることができる、そのような基準を備えることができなかったのが堕落ではないですか?堕落したので、霊肉を中心として3天使長の復帰をしなければならないのです。
霊的に3天使長を復帰することのできる基準は、霊界では知っているので無難ではあるけれども、実体の3天使長復帰は、実体で蕩減しなければならないのです。これを統一教会では、信仰の3子女を探しながら、実体蕩減復帰とともに、霊的蕩減復帰とともに、霊肉を復帰した基準で初めて父母の位置に立ち、アダム家庭が失った8人食口を整えなければならないのです。これが、統一教会の原理が教えてくれる道です。
(1972.6.6.根本復帰)
祝福を受けた女性達の使命
これは、先生もそのように行かなければならず、イエスもそのように行かなければならないのです。イエスが後で死の境地に立つときに、3人の弟子と一緒に死んで一緒に生きなければならないのです。それにもかかわらず、イエスが死の境地に立ったときには、3弟子は逃げて行ってしまったのでしょう?だから戻って来られないのです。
しかし、ありがたいことに・・・。右側の強盗が、楽園に一番初めに入ったチャンピオンです。そうでしょう?罪を背負って死の境地にいる右側の強盗が、ペテロよりも立派であるのです。分かりましたか?イエスの死の場で、一緒に血を流しながらイエスを信じた基台があるので、楽園の門が開かれたのです。もしも、そのような強盗さえいなかったならば、パタンと閉められてしまうのです。入っていけないのです。これを蕩減しようとするので、キリスト教を信じる人達が罪人の扱いを受けて殺されてしまうというのです。だから右側の強盗と同じ運命で、血を流していくのです。わかりましたか?そのようなことを編みながら来たのが、キリスト教です。分かりましたか?
先生も、イエス様が出来なかったことを成さなければならないので、この3弟子を立てて、祝福してあげなければならないのです。だから統一教会に、3子女がいるのです。分かりましたか?先生が聖婚式をする前に、この3子女の約婚式をしておいて、先生の聖婚式をした後に、祝福をしてあげたのです。ここから解いてきたのです。
その次には12弟子、その次には36家庭、その次に70門徒と同じような72家庭。イエスには70門徒がいましたか?その次に120門徒と同じような124家庭、430家庭。その次に777家庭。このように蕩減復帰をして、世界的に発展してきたのです。これで統一の運勢は既に世界的基盤を備えて、今後、登場するようになったのです。どんどん、どんどんと現れてくるのです。分かりましたか?これが原理です。
だから430家庭を祝福してあげながら、先生が命令したのは何ですか?「あなたたちは、氏族的メシヤになりなさい」 ということです。 「氏族的メシヤになりなさい!」 と言ったのです。今からは氏族を中心として、メシヤの使命を果たしなさいということです。これが成せないときは、皆さんは引っかかるのです。神様がイエスを送るときには、 「世界的メシヤになりなさい!」 と言って送ったのです。先生がこの地に来るとき、そのような責任を受け継ぎながら来たならば、先生が世界的勝利の基台を備えたならば、皆さんは氏族的メシヤの使命を果たせば、世界が早く復帰されるのです。
祝福を受けた家庭は、全てがイエスよりもそれ以上で祝福を受けた位置です。イエスが再臨しながら新郎新婦として結ばれ神様の保護圏内に立ったという、そのような夫婦の位置に立ったのです。この、でくの坊達!祝福を受けた家庭は手を上げなさい。 「2000年ぶりに探し出された、イエスの新婦を完成したあなた達!」 。皆さんがそうですか?皆さんは歴史的な家庭です。祝福を受けた男性は手を上げなさい。イエスが初めて再臨して御旨を成した、そのような夫の位置に立ったのが祝福を受けた男性です。分かりましたか?しかし、どうしようもなく愚かな者が多いというのです。愚か者。世の中の人がみれば、恥ずかしい者がたくさんいるのです。このような人は、これからサッと切り捨てるのです。
しかし、もう一度、先生が許しの道をあげるのです。今回、家庭を動員したことが、今まで皆さんが間違ったことを許してあげるのです。だから、3年路程を出発しなさいというのです。もう一度、チャンスをあげるのです。大韓民国においては、女性を中心として南がぜんぶ動員して、38度線に出て人民軍隊と闘って打ち勝ちなさいとするのです。38度線を守護するのは、大韓民国の国軍ではないのです。統一教会の女性達です。女!女性の軍隊として、人民軍隊を全部、神の愛で溶かさなければならないのです。
昔、サタンがエバを誘惑して滅ぼしてしまったので、エバがサタンを征服しなければ復帰が成されないのです。これが女性の行く道です。だから女性達は、今までいろいろなことをしてきたのです。その国を滅ぼすためには、体を売りながら歩き回ったことが多かったのです。そうだからといって変に思う必要がないのです。闘って勝てばよいのです。首根っこを切り取れば良いというのです。
だから統一教会の女性達は、少なくても、金日成が生きた以上の基準で生きなくてはなりません。そのようにできなければ、天国には行けないのです。何のことか分かりますか?これから統一教会を信じる人は皆、以北の金日成が生きた以上の基準で、生きていくことのできる時があるというのです。皆さん、これからは世界的に、777家庭といえば、その国では軍楽が鳴り響き、唯一の貴賓として丁重にもてなされながら、その国の官僚が動員されて奉られる時が来るのです。分かりましたか?
その時になって、 「アイゴー!私は立派だから、こうなるのだ!」 と言って、先生のことが眼中にもないという人は罰を受けるのです。 「恩徳の大きい神様によって、このようになりました」 と言いながら、神様にお返ししなければなりません。そのような時が、もうすぐに来るというのです。分かりましたか?その時を迎えるならば、それ以上に従ったという実力がなくてはならないでしょう?そのような資格者の看板をつけるために、先生が今、このような命令をするのです。それは嫌ですか、いいですか? 「いいです。」 だから、大韓民国のどんな男よりも優れているという、愛国、愛民族をする伝統を立てさせてあげるために、家庭を捨てて、子どもを捨てて、夫を捨てるようにして、このようなことをさせるのです。夫は愚かでしょう?ヨセフと同じなのです。
マリアがイエスのために3年の間、夫を捨てて、子どもを捨てたならば、ヨセフの家庭は滅ばなかったのです。それを蕩減復帰してくるのです。何のことか分かりますか?イエスの3年路程において、マリアが責任を果たせなかったことを蕩減復帰するのです。マリアがヨセフを捨てて、子どもを捨てて、様々な犠牲を覚悟してでも、イエスのために喜んで従って行かなければならないのと同じように、その道を行かなかったためににイエスが死んだので、これを蕩減復帰するためのことをしようというのが3年路程です。さっと入ってきますか?さっと入ってきますか、入ってきませんか? 「入ってきます。」
だから、 「ヨセフを夢にも思うな!自分の新郎を夢にも思うな!自分の子どもを夢にも思うな!ただ、イエスだけを思いなさい!」 と言うのです。皆さんが地方に出て手紙を書くときには、 「夫に会いたい。子どもに会いたい」 と書いてはいけないのです。ただ、先生だけを中心として、先生の子女を考えなさいというのです。分かりましたか?
これが女性においては、心情的に天に接ぎ木することです。そのような愛をしてから自分の夫を愛することは、引っかからないのです。また、天の子女を愛したので、自分の子女を愛したとしても引っかからないのです。そのようなことをするために、女性達が出ているのです。分かりましたか?女性達、分かりましたか? 「はい。」 だけども、目だけパチパチしていて・・・。この邪悪なのが女性なのです!男はいないのです。皆さんの心には、先生しかいないのです。そうですか、そうではありませんか? 「そうです。」 先生しかいないのです。そうですか? 「はい。」 夫が騒いだとしても仕方が無いのです。そのイエス家庭を解怨成就してあげるためには不可避なことなのです。
(1972.6.6.根本復帰)
真珠門を通過できる信仰の子女を立てねばならない
先に自分の子女を愛するようにはなっていないのです。イエスの子女を愛する前には、ヨセフが自分の子女を愛することができないのと同じなのです。だから、先生の家庭の子どもたちを、自分の子どもよりももっと愛することができるようにしなさいというのです。皆さんは縦的、横的な立場で、1つになった所がないというのです。1つになった所がないのに出発したならば、自分勝手に離れてしまうのです。いくらここから出発したとしても、どこに行きますか?サタンの所に行きます。だから今度の期間は、聖書の 「誰よりも愛せ」 という基準と、 「あなたの家族が怨讐」 という言葉を蕩減復帰する期間なのです。
子どもがいるために、行くべき道を行かなければならないので心が苦しいのです。 「赤ん坊をみれば、不憫で可哀相で死にそうだ!他の人は皆、行ったのに、自分は行かないので死にそうだ!」 と言うのです。 「こいつ!生まれなかったら良かったのに」 と、そのように思うようになれば、正常的な天の娘の心です。 「アイゴー、統一教会がなかったならば良かったのに...。」 このように言うときには、サタン側になるのです。
蕩減復帰は許しがないのです。先生が 「出なさい」 と言われて出て行って仕事をしているのに、夫が、 「来なければ離婚する」 という時、 「アイゴー、離婚したら大変なことになるのに...。」 離婚が何ですか,離婚離婚をしたければして、したくなければするなというのです。もしも離婚するようになれば、私がもっと良い夫を探してあげましょう。探してあげるようになるのです。そのような夫は今後、逆さまに折り曲げられる時が来るのです。
だから皆さんは、それを蕩減復帰しなければなりません。先生が今、話だけをしているのではありません。その通りにする時が来ます。無慈悲にする時が来るのです。祝福を受けたのに、 「先生、私は誰々ですが」 と言っても、 「私がいつ、お前を知ったのか」 と言うのです。そのような時は、無慈悲な先生です。原理原則においては、許しがないのです。 「いつ出会ったのか?」 そのような時が来るのです。だから、この3年期間が重要な期間であることを知らなければなりません。今回、動員に応じなかった人は、今後、入籍できないということを知らねばなりません。分かりましたか?
ただ、皆さんの心が神様だけを思って天の家庭のためにするならば、その家庭が国のためにするので、その家庭に従って行けば自分が国を占めることができるのです。このようになるのです。その家庭が世界のための中心位置となっているので、自分が世界に行くことのできる道は彼を通して、彼を世界的な中心として侍っていくことによって、ついていくことができるのです。これが原理の道です。分かりましたか?原理の道が、そのようになっているのです。
皆さんが、原理に立脚した先生の代身の位置に立とうとするならば、信仰の3子女をつくり、12子女をつくり、70門徒をつくり、少なくとも120名を伝道して結婚させなければなりません。そうすれば、霊界に行って12真珠門を四方で、昼でも夜でも自由に出て行っても、門守が 「誰ですか?」 とは言わないで、 「どうぞ、お入りください」 と言って案内するのです。もしも、信仰の3子女しかいなければ、いつも1つの門だけを中心として行ったり来たりするのです。他の所には行けないのです。それをしますか?信仰の3子女を中心として完全に1つになれば、天国に入って行くことはできますが、出るときは他の門からは出られないのです。その門に戻ってから出てこなければならないのです。
イエスが、東西南北の四方で往来することのできる、そのような環境をつくろうとしましたが、追いやられてしまったので十字架で亡くなられたのです。その時、3つの門だけでも、天国に入って行くことのできる門を開けておこうとしたのに、3弟子を連れて、 「死んでも一緒に死のう。生きても一緒に生きよう!」 とは、できなかったのです。しかも、ゲッセマネの園で3度の祈祷をする時も、3弟子はぐうぐうと寝ていたのです。
それと同じように、統一教会の文先生が、死ぬか生きるかの最後の決戦をしているのに、 「先生は何故、ああなのか」 と言って、まるでイエスの時に寝ていた者と同じなのです。先生が10歩行けば、皆さんも 「10歩行きます!」 としなければなりませんか、しなくてもいいのですか? 「しなければなりません。」 夜を徹するようになければ、皆さんも夜を徹さなければなりませんか、しなくてもいいですか? 「しなければなりません。」 しなければならないのです。
原理の道は、そのようにして行くのです。だから皆さんは、信仰の3子女がいなければならないのです。アダム家庭の8人食口を中心として落ちてしまったので、8人食口を中心として上がっていかなければなりません。上がっていくときは、誰を中心として上がっていくのですか?堕落する時はサタンの子を宿して堕落しましたが、上がっていくときは、自分が愛する子女を宿して上がっていくのです。
祝福を受けた皆さんが上がって行くときは、そのまま上がって行けません。皆さんは、まだ愛を受けられる、堕落しない完成したアダムの位置を超えていないのです。このように話をしていたら、一日中かかってしまうのです。(黒板にて)アダム・エバはここで(長生期完成級)堕落したでしょう?ここは(長生期完成級)誰が上がって行くのかといえば、堕落しないアダム・エバが上がっていくのです。そこは堕落しないアダム・エバのような人でなければ、上がって行くことができないのです。そうでしょう?
祝福は、ここで(長生期完成級)受けるのです。アダム・エバの2人が間違った愛をすることによって、落ちてしまったでしょう?だからアダム・エバが、結婚をする前の間違った愛ではなく、神様の保護のもとで愛することによって上がって行くのです。そうでしょう?
上がって行くときには、そのままでは上がって行けません。夫婦が上がることができないというのです。どのようにしなければなりませんか?先生だけを中心としてはいけません。自分においても、愛の子女を抱きながら上がって行かなければなりません。彼ら(アダム・エバ)は、サタンの子女を抱きながら落ちてしまったでしょう?だから、サタンの子女の代わりに、天の子女を抱きながら上がらなければなりません。分かりましたか?
だから、先生の家庭が必要です。分かりましたか?先生と先生の家庭を中心としなければ、上がっていくことができないのです。分かりましたか?何のことか分かりましたか?このようなことを、今まで精密に皆さんの知らない間に全部してきたのです。サタンがどうすることもできないようにして、後退するしかないようにして原理的に合わせながら、水が漏れないようにしたので、サタンが退くしかないのです。
しかし皆さんは、そのような夢とかをみますか?復帰歴史がどのようになっているのか分かりますか?分からないでしょう?昼も夜も皆さんが、四方で穴をポッカリとあけてしまったのです。皆さんが穴をあけてしまったけれども、その中で先生が塞いでいるのです。統一教会が塞いでいるのです。だから、先生と1つになり、統一教会と1つにならなければならないのです。そうでなければ、行く道がないのです。
この位置は、どのような位置ですか?(黒板にて)この位置に上がろうとすれば、どのようにしなければなりませんか?天使長が侍る位置に立とうとすれば、どのようにしなければならないのかというときには、イエスを中心としてみると、イエスはこの位置で生まれたので、3天使長復帰型が東方博士の3人です。分かりましたか?3人が屈伏して老いて死ぬようにイエスに侍らなければならなかったのに、この狂った者達が逃げて行ってしまったのです。逃げて行っても、また来なければならないのです。戻ってきて、イスラエルではイエスを殺そうとしているならば、自分たちはその国で名の通った東方博士であるがゆえに、イエスを代弁し保護しなければならないのです。このようにしていたのなら、イエスは死にましたか? 「いいえ。」 エジプトに逃げるのではないのです。ここでは、3人だというのです。天使長ですが、東方博士なので相当に素晴らしい人なのです。
これと同じように、イエスがここに上がるならば、東方博士と同じ実体の3人がいなければならないでしょう?ペテロ、ヤコブ、ヨハネです。彼らを中心として上がろうとしましたが、彼らが壊してしまったので、イエスは行く道が塞がれてしまったのです。だから、死ぬしかなかったのです。異国に行っても何もできないのです。異国に行っても探す道がないのです。亡命できないイエスの身の上であるので、仕方なく死ぬしかなかったというのです。
これを蕩減するならば、アダムの代わりの位置に行くならば、アダムを中心として、天使長が絶対服従して仕えていくと完成段階に上がることと同じように、皆さんも神様の御旨の前に立って、信仰の3子女が完全に絶対服従しなければなりません。そうなれば、この完成の道を上がっていくのです。そうでしょう?そうですか?これを合わせなければ、上がる道がないのです。
だから祝福家庭は、今からこれを備えなければ入籍ができないのです。だから皆さんが信仰の子女3家庭を中心として、12人をつくらなければ大変になるのです。だから、この3年の期間に、しななければならないのです。マリアが使命を果たせなかったので、統一教会でその使命を果たさなければならないのですが、蕩減期間が3年なのです。12人以上復帰しなければ戻って行けないということを知らなければなりません。分かりましたか?今度の3年期間が終わった後にも、それができなかった人は帰れないのです。しかし、それができた人は帰ることができるのです。何のことか分かりますか?できずに帰って来たならば、永遠に滅びるのです。今度の期間で、これを蕩減復帰しなければなりません。1人の人が12人以上…。本来は、72名までしなければならないのです。それをやめたとしても、12名だけ探しなさいというのです。探せなければ、帰って来られないのです。3年かかっても10年かかっても、そのまま行かなければならないという原則があるために、たとえ帰ってきたとしても、また行かなければなりません。帰って来れば3倍かかるのです。10年の年月がかかるというのです。だから、いっそのこと帰って来ない方がいいのです。
(1972.6.6.根本復帰)
神様の恨、イエス様の恨、人類の恨
我々統一教会は食口という言葉を使うでしょう?食口というのは何を中心とする言葉かといえば、イエス様を中心としていう言葉です。天国がどのように成されるのか、気懸りでしょう?皆さんはこれをはっきり知らねばなりません。天国はカイン・アベルの蕩減法を適用して成されるのです。わかりますか?その次には、イエス様の解怨、神様の解怨、イスラエル民族の解怨が成されずには、天国は成されないのです。
それはなぜか?神様は4000年間、イスラエル民族を準備して、そのイスラエル民族を信じてイエス様を送りましたし、また、4000年間ユダヤ教を準備して、そのユダヤ教を信じてイエス様を送られたからです。ヨセフ家庭も歴史的結実として神様が選び立てられたのです。それでは誰のためにヨセフ家庭が立てられ、誰のためにユダヤ教が誕生し、誰のためにイスラエルの国が建国されたのでしょうか?イスラエル民族のためですか?ユダヤ教のため?ヨセフ家庭のため?誰のためですか?イエス様のためです。間違いないのです。
それでは神様は誰のために4000年間受難を経て来られたのですか?神様自身のためでしたか?誰のためでしたか?息子のためです。その息子が誰ですか? 「イエス様です。」 それなのに、イエス様が死なれることによって、神様の恨が積もりましたか、積もりませんでしたか? 「積もりました。」 また、イエス様自身も恨が積もりましたか、積もりませんでしたか?み旨を成せなかったので、恨が積もったのです。それだけでなく、イスラエル民族もイエス様に侍れなかったので、恨が積もったのです。このように3代の恨が積もったのです。初めは神様の恨、次にイエス様の恨、3つ目にイスラエル民族の恨、即ち、人類の恨です。ですから、この3代の恨を解かねばならないのです。
それでは神様の恨は何か?神様の恨を解いて差し上げようとすれば、神様の恨が何かを知らねばなりません。イスラエルの国の人々が全てイエス様に侍らなくてもいいのです。侍る人が1人でも良く、10人でも良いのです。代表者が1人でもイエス様に侍ったならば、イスラエルの国がイエス様に侍ったことでしょう。ユダヤ教の代表者が1人でもイエス様に侍ったならば、ユダヤ教がイエス様に侍ったことでしょう。そうでしょう? 「はい。」 その次にはヨセフ家庭一派の中で1人でもイエス様を本当に受け入れたならば、その一派はイエス様を受け入れたことでしょう。その一人の人がマリアだとしても良く、ヨセフだとしても良いのです。マリアよりヨセフがそのようにしたならば、マリアは問題なく喜んでヨセフに従ったでしょう。しかし、そのような一人もいなかったのです。
国を代表することができる一人がいなかったし、教会を代表する一人がいなかったし、家庭を代表する一人がいなかったのです。これが4000年間苦労して来られた神様の恨だったのです。万一、国を代表することができる一人が出てきて、教会を代表することができる一人が出てきて、家庭を代表することができる一人が出てきて、この3人がイエス様に侍ったならば、イエス様は死ななかったのではないでしょうか?そして、その3人が和合して家に言って、教会に行って、国にいってみ旨を中心として一つになったならば、統一されたでしょうか、されないでしょうか? 「されました。」
今日、統一教会を中心としてみても同じです。昔、解放直後、李博士とキリスト教の総会長一人と、その次に統一教会を中心として先生を絶対的に侍る家庭の代表者がいたならば、大韓民国が統一されたでしょうか、されないでしょうか?その時は解放直後だけに,政府もない時でした。そのために人為によっていくらでも新しい国を立てることができる時でした。
神様の恨を解くため3人が登場したならば天地が?それなので3位基台が必要なのです。これが問題です。神様が4000年間、イスラエル民族を準備して来られたのは、イエス様を愛するようにするためでした。ユダヤ教もそうでしょう?しかし、彼らはそのようにできませんでした。そのために、神様が愛さねばならない民族と教会と家庭を愛しえなかったのが神様の恨なのです。他のことは全部してみましたが、愛してみることができなかったのが、神様の恨なのです。今、神様の恨が何かわかったでしょう?
(1971.1.10.根本復帰)
恨を解いてこそ天国に入ることができる
それでは、イエス様の恨は何か?イエス様は神様の恨を解くことができる立場を迎えて、神様が愛するように準備した民族を、神様が4000年間愛された以上愛さねばならないのです。また、ユダヤ教を神様が4000年間愛された以上愛さねばならないのです。数千年間、中心氏族を残すために、神様がヨセフの氏族を愛された以上、イエス様がヨセフ家庭を愛さねばならないのです。それなのに、それをすることができなかったのが、イエス様の恨になったのです。そのように愛してこそ、息子の対面を立てることができるのに、できなかったのが恨になったのです。
その次には、人類の恨、即ち、イスラエル民族の恨が何か?イエス様を愛することができなかったのです。イスラエル民族はイエス様を愛せなかったことによって、主人を失った、夫を失った家と同じなのです。主人いなければ、通りすがりの泥棒が乱暴するのです。寡婦になればそうなるというのです。お金持ちの家で夫が死んで、妻だけになれば、通りすがりの乞食の群れややくざの群れまでが乱暴をして巻き上げある物があれば、巻き上げようとするのです。そのようになれば、その家は醜くなっていくのです。
これと同じようにイスラエル民族は主人であるイエス様を追い出してしまった後には、国のない放浪の民の身になってしまったのです。放浪の群れになっただけでなく、追われて追放される民族として2000年間国のない民族として残ってきたのです。それでもその民族は立派な民族です。2000年間、気概を守ってきたのです。骨のある民族であり、特別な種ゆえに、2000年間放浪の民になりつつ、神様をつかみ、単一民族として今まで来たのです。
イスラエルは1948年5月に独立しました。独立したのは再び春の時期が戻ってきたことを意味します。春の日が戻って来る前にはイスラエル民族に蕩減が生じるのです。完全に清算しなければならないのです。それなので、清算が完全にされていなかったので、第2次大戦の時、ユダヤ人がヒットラーに600万の虐殺を受けたのです。そのように蕩減条件を越えるようにして解放を迎えるようになったのです。イスラエル民族はそのように全てを清算して初めて、2000年ぶりに国を探すようになったのです。しかし、12弟子を初めとして、周囲の全てからイエス様が背信を受けて、反対を受けたのと同じように、イスラエル民族も四方から銃を向けられ、反対を受ける立場に立つようになったのです。では、これをどのように統一すべきか?その統一法案は私が教えてあげねばなりません。これを全部、平和統一しなくては、イスラエルの歴史が悲惨になるのです。人類の恨はイスラエルの国とイスラエル民族を失ってしまったことであり、イエス様の血族を失ってしまったことなのです。一度、来られたその方の妻はどこに行って、その方の息子・娘たちはどこに行きましたか?それが恨なのです。その方の血族に侍るべき人類が、その方の血族に侍ることができなかったのが人類の恨なのです。
イエス様は独身のままでいてはいけないのです。イエス様が夫になったという話を聞いた事がありますか?聞くことができなかったのが人類の恨です。イエス様が妻を迎えたのを見ましたか?それを見る事ができなかったのが恨です。イエス様おじさん・イエス様おばさんがこの地上で生きるのを見ましたか?それを見ることができなかったのが人類の恨だというのです。イエス様おじいさんを見ましたか?イエス様の孫がいましたか? 「いませんでした。」 イエス様もおじいさんになって、おじさんになって、夫として妻を迎えて息子・娘を生んで孫を見て人類と共に幸福の土台を準備しなければなりませんでした。そのようなことを全部捨ててしまったの人類の願いの起源は完全に埋没してしまったのです。そのために、自分たちだけで家を作って住んでいるのです。
この三大恨を解かなくては天国を成すことはできません。天国はこのような恨が積もっているので、成され得ないのです。天国を成そうとすれば、この恨を解かねばならないのです。それでは統一教会の文先生は恨を解かねばなりませんか、解かなくても良いですか?統一教会の教会員達も恨を解かねばなりませんか、解かなくても良いですか? 「解かなければなりません。」
そうしようとすれば、どのようにしなければなりませんか?6000年間準備しておいた霊的イスラエル圏を引き継がねばならないのです。霊的イスラエルを指導する思想的な中心がキリスト教以外にないのです。イエス様が死なれることによって、霊的になるしかないのです。このような基盤の上に先生が来ようとすれば、それを引き継がねばならないのです。そうでしょう?霊界に入って全部引き継がねばなりません。そのようにして統一法案を模索しておいて、その霊的統一法案を持って、地上統一法案を成就させねばならないのです。
(1971.1.10.根本復帰)
全ての人をイエス様として考え愛しなさい
つまり、国が愛して、教会が愛して家庭が愛することによって、神様の恨が解怨されるのです。恨がなくなるのです。また、そのようにすることができる者達を先生は国の代身として愛することができるのです。一人に対して、国の代身として愛して、全体キリスト教の代身として愛して、全体の家庭の代身として愛する立場に立つとき、国と教会、そして家庭を愛せなかった恨は全て解くことができるのです。この三人を持ってして解くことができるのです。解かれますか、解かれませんか? 「解かれます。」
その次にイスラエルの恨は何か?イエス様の息子・娘に侍ることができなかったのが恨です。また、イエス様夫婦に侍ることができなかったのが恨です。このような恨を解いていくのが、真の父母思想です。そうでしょう?イエス様がおじさん・おばさんという話を聞いたことがありますか?先生もおじさんになれず、おじいさんになれなければ滅びるのです。
今は、先生がお兄さんにもなれるし、おじいさんにもなることができる環境を持つ事ができたので、人類の恨はどのようになりますか? 「解かれます。」 それによって、国と教会と家庭において愛することができなかった三大の恨を解くことができる所なのです。本来、何を中心として恨が積もり始めたのか?家庭を中心として恨が積もり始めたのです。家庭の延長が教会であり、教会の延長が国なのです。結局、恨の出発地がどこか?家庭なのです。イエス様も三家庭を代表としたペテロ・ヤコブヨハネの三人を探し立てましたが、息子が一つになれなかったことによって、み旨を成就できなかったのです。この三人は何を意味するのでしょうか?全体の人類を代表し、教会を代表し、家庭を代表するのです。また、三人の息子・娘を代表するのです。全部代表するのです。しかしながら、これらが一つになれなくて恨が積もったために、これらが一つになってこそ恨を解くことができるのです。
この根を解くためには、イエス様が受けられなかった愛を受けなくてはいけないし、また、愛しえなかったものを愛さねばならないのです。それで、先生はそうだとしても、皆さん同士はどのようにしなければならないのか?これが問題です。イエス様を中心として、イエス様のおじいさんもいなくてはいけないし、イエス様のおじさんもいなくてはいけないし、イエス様のお兄さんやお姉さん、そして、弟や妹もいなくてはならなかったのです。その局面を再現させねばならないのです。これが食ロであり、氏族です。わかりますか?そして、これが民族の縮小であり、教会の縮小であり、氏族・家庭の縮小なのです。全てになるのです。そのために、年配のおじいさんたちはイエス様の本当のおじいさんにならねばなりません。おじいさんになってイエス様を愛せ、と言うのです。そのようにして、おじいさんの立場でイエス様を愛することができなかった恨を解いていかねばならないのです。そうやって、イエス様を愛さねばなりません。従って、年齢上、おじいさんになった人々は統一教会の少年たちに対する時、少年イエスを考えて対しなさいというのです。その少年をイエス様のように考えて愛することによって、イエス様を愛することができなかったおじいさんの恨を解かねばならないのです。
おじさん程度の年齢になった人々達も同じです。いつ、イエス様の親戚のおじさんがイエス様を愛しましたか?イエス様を愛さなくては天国に入ることができないのです。“私は道であり、真理であり、生命である。私によらない者は父の前に行くことはできない。”という程に、イエス様を愛さなくては天国に入ることはできません。イエス時代に、イエス様の親戚のおじさんがイエス様を愛することができなかったので、今日、その状況を統一教会の中で再現して、おじさんのような立場にいる人は少年をイエス様のように愛することによって、イエス様を愛することができなかったおじさんの恨を解かねばならないのです。
おばあさんやおばさんについても同じです。また、姉や兄の年齢の立場にいる人も、自分の弟のような人が、ここ統一教会にいるならば、彼を自分の弟のようではなく、イエス様のように考えなさいというのです。そのように考えたならば、どんな幼子でも 「えい、この野郎、私の言う事を聞け!」 と言えますか?自分の弟のような人の前で、年齢的にお兄さん・お姉さんの立場に立ったとしても、その少年に対するに当たって、イエス様に対するように対する兄や姉にならなければなりません。そうすることによって、兄・姉としてイエス様を愛することができなかった恨を解かねばならないのです。
イエス様には年の若い弟達もいました。彼らがイエス様を兄として愛することができなかったために、これを蕩減復帰しなければならないのです。その役事をここでしろと言うのです。そのような仕事をするために生まれたのが何ですか?食口です。誰を中心として? 「イエス様です。」 皆さんはそのような方法で愛することができなければ、天国に行くことができないのです。
そのため統一教会員たちは相手から、イエス様の代身として愛を受けなければなりません。イエス様の代身として愛を受けろというのです。年配のおじいさん、おばあさんも同じです。全部そのように愛し、また愛されなさいというのです。夫人達も、イエス様の妻としての立場に立つことができる心情基準を持って、愛し、愛されなさいというのです。そのようにする所が天国なのです。
(1971.1.10.根本復帰)