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第6章 イエス様と我々

イエス様が心の中を発表できない理由

それでは、今日皆さんが復帰の栄光を備えるためには何を知らなければならないか?皆さんはまず生活を通して、イエスが現すことができなかった隠された復帰の価値を知らなければならないし、次には心を通してイエス様が現すことができなかった、秘められた復帰の価値を知らなければなりません。その次には、永遠なる命の価値を現すことができなかった、イエスの隠された復帰の内容を知らなければならないというのです。

そして、神様が天倫を代表して復帰の栄光を完結しようとされる時に、私たちは何を知らなければならないか?イエス様が30余りの生涯の生活過程で、心の中の奥深く隠しておいて万民の前にすべて語ることができず、明らかにすることができなかった内容が何かということを知らなければなりません。

万一、このような内容を皆さんが知ることができなかったとすれば、皆さんによって天上天下を代身する全体の復帰の価値を、地から天上にまで現すことができないのです。

今日、私たちがイエス様の明らかにした福音のみ言を調べてみると、その中にはイエス様の具体的な生活内容が全く出ていません。それでは、イエス様が何を暗示されたのかというと、奉仕の生活によって自分の隠れた一面を暗示しました。すなわち、自分が高くなることのできる栄光の息子でしたが、自分の一身を低くして罪人の足元に入って奉仕する生活によって、隠された一面を無言の生活として現されたのです。

イエス様は自分に従う12弟子たちにも、自分の心の中を発表することができませんでした。では、なぜイエス様がそのような秘密を発表することができなかったのかというと、天上の秘密を心の中にもっていたとしてもその秘密を教える人がいない時、それを発表すればサタンの前にうまくまるめこまれてしまうようになるということを,イエス様は知っておられたので発表することができませんでした。すなわち、イエス様は父から知らされた事実を一人で納めて、人間の前に伝えなければならないという切なくもどかしい心がありましたが、自分のそのような心を察して尋ねてきて聞いてくれる人がいなかったので、天上の秘密を人間たちの前に発表することができず隠された心の一面を人間たちの前に現すことができなかったのです。

このように、イエス様が十字架の絶頂にまで出て、教法士たちとピラトの前で“自称ユダヤ人の王”という罪目で尋問を受けるようになりました。その時、イエス様は沈黙で貫かれてピラトが“あなたがユダヤ人の王であるか”と、尋ねたその時に初めて自分を明らかにしました。

善であり義なる天の側の人たちが、イエス様を私たちの王として仕えることを生涯の栄光だと知り礼拝を捧げなければなりませんでしたが、イエス様はピラトの前で囚人の名で尋問を受けるようになりました。このように、避けることのできない立場でサタンの尋問を受けるようになり、神様の悲しさを代身した立場で沈黙を守られた口を開いて事実を事実のままに吐露されるようになったのです。

これを見る時、いくら天の歴史でもサタンが天の側に対して事実を明らかにして聞き返すようになれば、天の側でも秘めた心を表さざるを得ないのであり、またサタン側でも神様側にいる聖徒たちがサタンの隠された秘密の心を摘発すれば、それを表して直告せざるを得ないようになることを私たちは知るようになります。

イエス様は自分の中に、誰にも明らかにすることのできない復帰の内容を、平素生活する中で無言の奉仕を通して天倫の摂理を推進させただけではなく、その実践的な面においてもどこの誰より先駆者の立場に立って隠された復帰の内容を表したのです。それ故に、皆さんはこのような帰の理念を代身することのできるイエス様の心をかきわけて入っていって“あなたの心はこのようではありませんか?”と、聞き返すことができる人にならなければなりません。

(1956.7.3.復帰の価値を現そう)

聖霊の協助を受けて隠された摂理の秘密を知れば

万一そのような人が現れないとすれば、歴史がどれ程経過したとしてもイエス様の心の中に隠された摂理の秘密は、この地の上に表すことができないということを皆さんははっきり知らなければなりません。

そして、今日皆さんたちはイエス様が生活を通して現された復帰の秘密を知らなければならないし、心の中にある復帰の内容を知らなければなりません。

その後で皆さんは神様の前に自信を持って立つことができ、サタンの前に自信を持って出ることのできる者、すなわち一つの勝利的な生命を復帰完成した者になることができるというのです。

イエス様は30余年の生涯を通して4千年歴史を蕩減して、天上天下の全てのことを代身して復帰の中心を完結しました。ところで、今日までこのようなイエス様の完結された価値、即ち、イエス様が抱いていた心の中の秘密と知らせていないイエス様の生活の価値を引き継ぐことのできる者がいなかったのです。

それで、そのようなイエス様の内的な秘密と生活的な秘密を、誰が代身としてもって現れるのかというと聖霊だったというのです。

今日皆さんはイエス様の福音のみ言を信じますが、そのみ言自体だけ信じては復帰ができません。そこに必要なことは、聖霊が私の生活を協助して私と一緒に同居しなければならないのです。

そして、イエス様が犠牲と奉仕の路程を通ってきたと同じく、皆さんもそのような路程を通って十字架の絶頂まで出ていくことによって、イエス様の隠しておいた生活的な秘密がイエスと聖霊を通して始めて現れてくるようになるのです。また、心の中に持っていた内的な秘密もそのようにして現れるのです。

それ故に、今日私たちは聖霊が協助する生活を通して聖霊の心と一つになることによって心と生活が一つになり、イエス様と聖霊が一つになった因縁を私の一つの個体を中心にして結んでおかなければ、真の命があるはずがないことを知らなければなりません。

このように今日私たちは聖霊の協助を受けて、イエス様が生活的な側面で隠してきた秘密に積もった復帰の内容と、心に秘めてきた復帰の内容を成し遂げていく重要な過程にあるのです。したがって、そのような過程にある私たちはイエス様と聖霊が一つになったことと同じく聖霊と私が一つになって、イエス様を中心とする三位一体の形の基準を持つことによってのみ、この地の上で神様の勝利的な足場を造成することのできる平面的な基台が成されるということを知らなければなりません。

そして、皆さんは秘蔵されている真なる生命の内容を探していくのにおいて、イエス様と聖霊の協助を受ける生活をしているとしても、その生活は全体の生命を復帰するのにおいて一部分に過ぎないのです。なぜならば、全体生命の復帰の秘密は今なお天上の秘密として残っているからです。それ故に、イエス様と聖霊を通して生命的な価値の内容をある程度まで完成したとしても、それだけでは終結にならないというのです。今もなお神様は、イエス様と聖霊を通して現さなかった生命の隠された部分があるというのです。

(1956.7.3.復帰の価値を現そう)

我々に必要なこと

今日、全体的な復帰の価値を完結しなければならない我々においては、イエス様の生涯の‘秘密の価値'を多くの人たちに見せなければならないと同時に、もっておられた内的な秘密の価値を代身して、イエス様と聖霊を合わせた宇宙的な生命の価値を神様からもう一度認定を受けなければならないというのです。

それでは、今日皆さんたちはどのような状態にいるのか?皆さんたちは、イエス様を愛したい心がありますが、ありのまま愛することができないのです。それ故に、イエス様と聖霊が力を合わせて人間たちをして神様を愛するようにするために奉仕と仕える生活を継続して来たことと、イエス様が万物万象を代身して苦労されたその価値程に神様がイエスに対して愛することができなかったその愛の内容を皆さんが学ばなければなりません。

これから皆さんがそのような愛の内容を知って成していかなければ、天の染み透った恨を解いて差し上げ、神様の残された復帰の歴史をこの地の上で完結することができないのです。

それでは、今イエス様の3年公生涯路程と十字架の路程、昇天されて2千年の間イエス様と聖霊が一緒に苦労してこられた協助の路程を通して、生命復帰と長成復帰摂理の目的に向かっている私たちにおいて今必要なことは何か?それは、神様がイエスと聖霊を愛されて6000年の間宇宙を抱いて愛されたこの善の標準の心を見本にして、私たちの心とイエス様と聖霊の心が合って一つとなって、仕事をすることのできる愛の中心を立てなければならないのです。万一、そのような皆さんになることができなければ、生活的な復帰、心的な復帰、生命的な復帰を完遂して全体の生命と栄光の価値を完結することのできる神様の愛と関係を結ぶことができません。

(1956.7.3.復帰の価値を現そう)

神様と愛の関係を結ぼうとすれば

それでは、今日私たちがそのような神様の愛と関係を結ぶためにはどのようにしなければならないか?私たちはイエス様が歩いて行かれた全生涯の中心の内容を経て、今まで2000年の間人類のために苦労されたその心を経なければなりません。

すなわち、歴史過程で万民に対して切なく思われたイエス様の内的心情に通じ、イエス様が昇天された後、今まで役事してきた聖霊の内的心情に通じなければなりません。創造以後6000年の間摂理されて、また将来近付く理想世界を成すために苦労される神様の切ない内的心情に同情して体恤することができなければならないというのです。そのような皆さんになることができなければ、皆さんは永遠に残る生命の栄光を代身することのできる神様の愛を中心にして、全体的な復帰の価値を完結することができないというのです。皆さんはこれを肝に銘じなければなりません。

それ故に、皆さんはイエス様が歩いて行かれたことと同じく、聖霊が成したことと同じ道を行かなければなりません。また、使徒たちが歩いて行った路程、すなわち自分一身が存在しているという意識まで全部忘れてしまって、ひたすら神様とイエス様と聖霊の為に生きたその使徒たちの生活を見本にしなければなりません。

そのような路程を行くようになる時、初めて自分の心と自分の生活を主管することができるのであり、自分の生命が流れ溢れて神様の愛と因縁を結ぶようになるのです。同じように、イエス様の愛が私によって現れて聖霊の愛が私の生活的分野にまで臨むようになるのです。皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。

(1956.7.3.復帰の価値を現そう)

罪悪の塀を壊すためイエス様が行かれた道

それでは、イエスキリストがこの罪悪の塀を壊すためにどのような道を行かれたのか?終わりの日に処して皆さんたちは、自分の生涯路程でイエスキリストが行かれたその道をもう一度越えて行かなければなりません。イエスキリストがサタンと闘うときに、宇宙的な罪を引き抜くためにその罪を攻撃する立場に立ちませんでした。イエスキリストは罪をなくすために、罪を屈服させるためにその罪を塞ぐ立場に立ったのです。これが、イエスキリストの精神であることを皆さんは知らなければなりません。

罪は悪なることであり悪いことです。創造の本性を通して持っている心がありますが、ここに反対となる作用をすることが罪なのです。イエス様がこの罪を精算する為に、この罪を引き受けたのです。それだけではなく、イエス様がこの罪を引き受けたことは個人から家庭、社会、国家、世界、人類、天上にいる霊人たちの罪まで引き受けたのです。創世以後、4千年歴史上の数多い霊人たちの罪まで引き受けたイエスキリストであったことを皆さんは知らなければなりません。

甚だしくは、地獄にいっている霊人たちの罪まで引き受けなければなりませんでした。何故ならば、イエス様は完成したアダムの立場で来られたからです。アダムが堕落することによってその怨恨が天上にまで襲うようになり、イエス様は堕落によって発生したそのすべてのことを引っ張り出して葬らなければならなかったのです。

それで、イエス様が新しい路程を開拓して行くその生活は、サタン世界の生活とは反対のものでした。サタン世界の要素と本質は望みがないことを知って、その反対に柔和と謙遜の道理を教えられました。したがって、キリスト教の真理は世の中を離脱する真理でした。キリスト教の真理は世の中に対して反発するものとなっているのです。

イエス様は前に来る罪を前で打つのではなく、後ろ向きになって引き受けるべき摂理的な事情があったので難しい生涯を生きられたのです。イエスキリストは、宇宙的なすべての罪を引き受けて勝利するその時間まで、十字架の苦痛を受けられた可愛そうな方だったのです。今日もあの世にいらっしゃいますが、休むことができずにいらっしゃるのです。地の上の誰か一人の方に、そのすべての罪の責任を託すことを願っておられるのです。

(1956.11.25.世の罪を背負って行かれた神様の子羊を見よう)

愛で迫害を消化して勝利しなさい

イエス様の愛は神様の愛を代身したのです。そして、神様の愛は宇宙のどんな存在物であったとしても反対して抑えることができない愛です。皆さんは、この神様の愛を受けなければなりません。そのようにしようとすれば、皆さんはこの世の中のすべての罪を皆さんに被せて、サタンが皆さんを試験したとしても彼らを凛々しく消化させることができ、それによって倒れることのない勝利の息子娘にならなければならないのです。そうでなければこの宇宙の力の中心、実存の中心として役事される神様の愛とは関係がなくなるのです。

それ故に、イエスキリストがこの地上の人間たちによって苦しみを受けましたが、むしろ彼らを心配して涙を流されたことと同じく、終わりの日にそのようにできる聖徒が、信じる聖徒たちの中にたくさん現れなければなりません。そのような、聖徒たちが多くなれば、教団の分離はあるはずがないのです。そして殉教に当面しなくても、良心の作用、心理の作用、天理の力の作用が大きいので、天地がそのような聖徒たちにしたがって動くまいとしても動かざるを得ないようになるのです。

このような場所に立って始めて勝利の標柱を立てることができ、勝利の家庭、勝利の祭壇、勝利の世界を建設することができ、勝利を天にまで連結させることができるのです。そのような責任が皆さんにあるということを肝に命じなければなりません。そして、今日皆さん個人を中心にして起こる闘い、皆さん個人を中心にして起こるすべてのことは皆さん個人に限るのではありません。それ故に、皆さんは注意しなければならないのです。万一、皆さん個人が間違えば全体に影響を及ぼすのです。

これから皆さんは、神様のみ旨の前に妨害になる人になってはいけません。全体の為に犠牲になる道を行かなければなりません。そして、善なる人がいればその人によく侍らなければなりません。悪なる人がいたとしても、その人以上にもっと心配して切なく思うことができなければなりません。そのような個人になって、そのような家庭と社会と世界を作るために十字架の苦難まで背負っていかなければなりません。イエスキリストの心情を代身して、神様のみ旨を成すために忍んで勝利する人にならなければなりません。

(1956.11.25.世の罪を背負って行かれた神様の子羊を見よう)

冒険と革命の道を歩いたモーセ

モーセはイスラエル民族がエジフトの怨讐たちの国で、400年の苦難を経た時に天が呼び立てられました。このように、パロの恐ろしい圧政下で3か月の間母親の保護を受けて、その後パロの娘に捕らえられて宮中に入って40年生活をしました。皆さんは、モーセのパロ宮中での生活が豪華で良い環境だっただろうと考えるかも知れません。

しかし、み旨に対したモーセはエジプト宮中にいましたが、エジプトの民ではありませんでした。イスラエルを代表する神様の選民だということが日が経てば経つほど、彼の胸にしみ通ったのです。そうして、40年の人生ひとりイスラエルの志操を抱いて生活したモーセが宮中を出たとき、イスラエル人がエジプト人の前に苦しみを受けるのを見て、忍ぼうとしても忍ぶことができない義憤心が爆発してエジプト人を打って殺したのです。

その後パロ宮中を出て、残されたイスラエルの祝福のみ旨を心に抱いて、ミデヤン牧者生活を始めました。その生活は平安な生活ではありませんでした。その時代に、誰もが彼のように豪華なパロ宮中を捨てて牧者生活をするモーセを理解することができませんでした。しかし、モーセは失望することなく天の為の、他の人が知らない祭壇、イスラエルの為の隠れた祭壇を築いて出ていきました。このような、モーセだった故に80歳になった年に神様は彼を選ばれて、民族の怨恨を解くことのできる主人公として立てられたのです。

その後、モーセが移した歩みはすべて冒険的なものでした。現実を超越した神様の摂理の中心を抱いていたので、彼の人生全体も超現実的なことであり、願うことも出て闘うことも超現実的なことでした。神様の命令を受けてモーセがパロ宮中に行くようになる時、神様が行けといわれたその道を行くモーセを祝福して保護しなければならないはずなのに、神様はむしろモーセの行く道を塞いでモーセを殺そうとしました。神様は、どうして自分の命令を受けて行くモーセを塞いで殺そうとされたのか?現実的には到底あるはずのないことでした。ここに、我々人間が知ることの出来ない内容があるのです。

現実的に考えてみると、到底越えることのできない峠でした。しかしモーセは、すでに覚悟した体だったので死のうと生きようとみ旨一つだけ成し遂げることを祈る心情で神様が塞ぎ、サタンが塞ぐ試験の条件を越えたのです。そうして、パロ宮中で超現実的な神様の実存を確信して、10余り以上の不思議な奇跡を起こしたモーセは、4千年の歴史上になかった宇宙的な冒険の革命家だったことを皆さんは知らなければなりません。このように、モーセはどんな人の反対にも屈することなくみ旨に対して超現実的な信仰で、60万のイスラエル民族を導きました。このようなことを見る時、モーセの生涯全体は超現実的な冒険の行路だったことを皆さんは知らなければなりません。

(1956.12.2.神様の摂理と超現実的な冒険性)

冒険の歴史を覚悟されたイエス

民族復帰の代表者であるモーセの次に、世界復帰の使命者として来られた方がイエス様です。イエス様は、過去4000年の歴史過程の数多い先知先烈たちが、神様のみ旨を成す為に超現実的な生活をしてきたことをご存じでした。そして、自分一身こそ先知先烈たちが神様の摂理の為に来て成すことができず逝ったみ旨を、完成すべき責任を持った一身だということをはっきり感じました。

歴史を回顧してみたイエス様は、数多い先知先烈たちの怨恨が残っていて今もなお復帰摂理が終結せずにあることを悟って、それを終結しなければならないと覚悟したのです。

彼こそ、4000年の路程を開拓するための超現実的な冒険の路程を歩いていくという覚悟を持ちました。数多い先知先烈たちの、冒険的な歴史路程を総合した路程を歩いても残ることができる覚悟を持ったイエス様だったことを皆さんは知らなければなりません。

イエス様は宇宙的な冒険の歴史を精算するべき使命を背負ったので、彼は生まれながらにして冒険の道を歩かれました。彼の生活はまさに超現実的な冒険の生活でした。そして、最後には十字架にかかる死の道までも超現実的な冒険の道であったということを知らなければなりません。

それでは、イエスの生涯は何を材料とした生涯だったのか?4000年歴史を総決算する生涯だったのであり、その時まで天の怨恨に染み透った冒険的な路程を終結する生涯だったのであり、新しい勝利の基盤を成すための地上にない超現実的な勝利の生涯でした。

(1956.12.2.神様の摂理と超現実的な冒険性)

マリヤとヨセフの従順心

これから皆さんが知らなければならないことは、イエス様が処女マリヤの体を通して生まれたということです。冒険的な生涯を持ってこられたイエス様の前に、聖母マリヤのような人がいなかったならば、神様のみ旨はどのようになるところだったか。聖母マリヤのような処女マリヤが、すなわち天の女性がいなかったらイエス・キリストは誕生することができなかったのです。

地の上にマリヤのような冒険的な祭物の土台がなかったならば、冒険的な路程を経て、新しい生命を持って生まれなければならなかったイエスの誕生はあるはすがなかったのです。

処女マリヤに天使が現れて“お前が懐妊して男の子を生むだろう”と知らせた時、マリヤは“私は男を知りませんが、それは何のことですか”と聞きました。天使がもう一度“できないことがない神様がお前を選ばれたのだ”と言いました。その時、マリヤは“主よ、わたしははしためです。御心のままになさって下さい”と答えました。この一言が宇宙的な冒険を表す言葉でした。

その当時、処女が懐妊した事実が明らかになればモーセを通して立てた律法によって、その場で石をぶつけられて死ぬことを知りながらも、マリヤは現実の環境を越えて“主よ、みこころのままになさって下さい。はしためですから御心のままになさって下さい。私は死んでもあなたのものであり、滅んでもあなたのものですからみこころのままになさって下さい”と言ったのです。天はこのように、地上に生きる実体的な祭物マリヤがいることによってイエス様を誕生させたのです。

それだけではありません。皆さんが、今日信じ行っている信仰生活にも皆さんが知らない冒険の道が多いのです。自分と婚約したマリヤが懐妊した事実を、啓示を通して予告を受けたヨセフは、人間的ないろいろな苦しみ故にマリヤとの因縁を切ろうともしました。自分と婚約した処女が懐妊したという事実は、ヨセフにいろいろな人間的な苦しみを抱かせたのです。しかし、ヨセフは起こったすべての事実を自分が責任を持ってマリヤを救おうとしました。これは、易しいことではありませんでした。超現実的なことでした。

そのようなわけで今日皆さんにはヤコブが行った道、ヨセフが行った道を行くべき使命があり、イエス様が行った道、マリヤが行った道に従って行くべき使命が残っています。

したがって、このような超現実的な場面が皆さんに横たわっていること、超現実的に通じることのできる冒険的な峠が皆さんの前に横たわっていることを、皆さんは知らなければなりません。

(1956.12.2.神様の摂理と超現実的な冒険性)

完全な救いのための苦労

神様が造られたアタムエバをサタンが奪っていきましたが、霊だけ持っていったのではなく霊と肉を合わせて持っていったので、天の側ではこの霊と肉を合わせたアダムエバをサタンから取り戻してきて、神様が自ら愛することのできる道を開拓するために今日私たち信じる聖徒たちを立てられたことを、皆さんは肝に銘じなければなりません。

イエス・キリストは、このような驚くべき宇宙の創造的な一つの中心を標準にしてこの地に来られました。それでは、イエス・キリストは最後の闘いの標準をどこにおいたのか?それはイエスに従った聖徒たちが神様の霊的な愛だけを受けたので、彼らが霊肉合わせて神様の愛を受けることができるようになるところに置きました。霊肉合わせて神様の愛を受けることが願いだったので、霊的な救援摂理だけをされたイエス様は天にいって完全な栄光を受けることができません。天に行っても、地の上にいる私たち人間たちのために祈祷しなければならないのです。

このように、イエス・キリストの願いが今もなお地上で完全に成すことができていない故に、イエス様を中心とした12使徒以下、楽園にいる数多い霊人たちがこの一つの願いを標準にして総動員されているということを皆さんは知らなければなりません。今日終りの日に処している私たちには、摂理路程で協助した天使たちの苦労の実績が残っています。その他に、数多くの使徒たちの苦労の実績が残っています。このように、歴史的な苦労のすべての実績と条件を、今日私たちが責任を持たなければなりません。過去の神様の摂理のみ旨を代身して苦労して協助した千万の聖徒たちと、イエス様以下、霊界にいるすべての霊人たちの願いも私たちが解怨することができなければなりません。

終わりの日に処した私たちは、過去の歴史を代身して神様の前に出るようになる時に、イエスキリストの認定を受けなければならないし、聖霊の認定を受けなければなりません。そして、イエスと聖霊の認定を受ける段階を経た後には、三位神が、皆さんが神様の前に出ることができるのかを決定するようになるというのです。このような段階まで役事しているのが新約摂理だということを皆さんは知らなければなりません。

(1956.12.16.希望の天国を所有する者達)

神様がイエスを捨てられた理由と変わらなかったイエス

長い歴史を経てきながら人間たちが神様の心情を蹂躙して、神様のみ旨を捨てて、神様を裏切ったので、蕩減復帰原理によってイエス様が人間の代身として神様から捨てられる立場に処するようになったのです。

イエスが“父よ、どうして私を捨てられるのですか?”というみ言をいわれ、十字架で逝かれたことは、私たちの先祖であるアダムとエバからその後4千年の間、人間たちが神様を裏切って犯した罪の蕩減のためでした。人が神様を捨てたので、蕩減原則によって神様がイエス様を捨てるしかなかったのです。

しかし、イエス様は天を裏切りませんでした。神様の息子はサタン世界に投げておいても神様の息子であり、神様の息子は地獄に行っても神様の息子です。このような中心を持って、30余年の生涯を捧げて苦労していかれたイエス・キリストでした。

今、このようなイエス様を信じている皆さん、新郎であるイエスの前に新婦となるために信じてきた皆さん、皆さんは6000年歴史を代身した神様の息子として立つことができなければなりません。神様の前にサタンを堂々と讒訴することのできる人を天が探しているということを知らなければなりません。

今まで歴史過程の数多い聖徒たちは、どうしてイエス・キリストや聖霊までもサタンの試験を受けなければならないのかと考えます。それは、霊肉を備えて完結するべき使命が今もなお完結していないからです。

それでは、今まで2000年の間、イエス・聖霊とサタンとの闇で起こってきたこの闘いはいつ終わるのでしょうか?神様に対するサタンの讒訴がいつ終わるのか?これを終わりにしようとすれば、イエス・キリストが実体を持って地の上で4000年の歴史を代身して、罪とサタンを退き勝った神様の息子だと、自信を持って言ったことと同じ中心を持った人が現れなければなりません。そうすれば6000年間、神様に讒訴してきたサタンを退き、またイエス様と聖霊が、サタンと繰り広げてきた闘いが終わることができるのです。これをキリスト教徒たちは知らなければなりません。知ってみればそうだというのです。

楽園にいる可哀想なイエス・キリストは、今日までも罪人である人間たちを探すべき運命におかれています。皆さんが祈祷して休む時間にも、イエス様は祈祷しなければならないというのです。聖霊も休むことができません。神様も休むことができません。このように、少しも休む時間がない歴史を経てきているのです。

これから私たちは神様の息子だという意識を持って、“神様の体面と、イエス様の対面と、聖霊の対面が私によって立てられます。”と祈祷することのできる祭物にならなければなりません。皆さんは、神様の対面を立てて差し上げなければなりません。イエス様の体面を立てて差し上げなければなりません。聖霊の体面を立てて差し上げなければなりません。

人類を愛するべき天倫の因縁を持っても、人類を愛することができない切ない立場にいらっしゃる神様は、内的にまさにこのような条件に引っ掛かっていたのです。万一、神様が“天と地を代身して誇ることのできる資格を持った私の息子よ。”と自ら語ることのできるそのような存在が現われれば、現われさえすれば、その時にはサタンが讒訴できません。その時には、サタンが讒訴できないというのです。

イエス・キリストが“私は神様の息子”だという意識を持っていたように、これからイエスと聖霊の苦労を引き継いで6000年歴史の終末期である今日、全宇宙と対立して立っても“神様とイエス・キリストが願われるみ旨がこれです。私は歴史を代身した神様の息子です。私だけが神様の息子です。”と言うことのできる聖徒たち、このような観念を探していこうとする聖徒がこの国韓国に多ければ、そのような聖徒が世界のどの国より韓国に多ければ、韓国は世界の中心国家になるのです。

これから私たちは、息子娘の意識を完結させて勝利の一日を父の前に立てて、サタンの前に誇ることのできる存在、天がこのような存在を探していらっしゃることを知らなければなりません。

(1956.12.16.希望の天国を所有する者達)

父を慰労するために心を労し気を砕かれたイエス

イエス様は、宇宙的な使命を持ってこの地に来られて、一生の間苦難を受けられました。しかしその悲しみのために祈祷されず、かえって父の心の痛みと心配を慰労するために心を労し気を砕かれました。そうしながら、地を眺め見て人間たちの無知を受け入れるために切なく思われたイエスだったのです。しかし、イエスの生涯は30余りの人生が涙の生涯としてだけで終わったのではありませんでした。彼は神様の苦労を代身して立ったので、死のうが生きようが父のみ旨だけを、栄光となるようにして差し上げようという心を持って生きました。イエス様は神様が分かって下さっても下さらなくても、地の上の人間たちが分かってくれようとくれなくてもそのようなことは関係なく、時と場所を気に止めることなくみ旨のために生きられました。

み旨を完全に成そうと来られたイエスだったので、十字架で亡くなられるようになったからといって、苦心したり失望したりしなかったイエスでした。死の場所まで出ても、イエスは自分を弁明しませんでした。皆さんが知っているように、ピラトの法定を通してゴルゴタの山頂を経て、十字架で釘を打たれる運命の場所まで出ながらもイエスは弁明しませんでした。無弁明の主人公でした。人間たちがあのように、反対するのも自分の責任だと感じたイエスでした。イエス・キリストを信じている私たちは、お生まれになったイエスから、生きておられるイエスを経て、逝かれたイエスの友達にならなければなりません。

イエスは何と友達になったのかというと、生命と友達になったのではなく、死と友達になった方でした。歴史過程で数多い人たちが死の道を行きましたが、万民の死を代身して死の友達となって、万民を代身して亡くなった方はイエスだけだったというのです。

それ故に、キリスト教は死と犠牲の宗教であり、キリスト教の真理は死に勝つ真理です。そして、イエスの活動は自分の身を破壊させるものでした。そのようにしながらも、恨むことなく愛することのできるイエスの行路だったことを、皆さんは認識しなければなりません。

イエス様は死の友達だったので、死が早まるときにも死を気に止められませんでした。怨讐のために死ぬことができる、余裕の生涯を生きたということを皆さんは知らなければなりません。

後には十字架にかかったイエスを神様までも“知らない。”といわれました。そのときイエスが“父よ、どうして私をお見捨てになるのですか?”と叫ばれましたが、これは希望が絶望に、生涯の全てが水の泡になっていくようであるから叫ばれたのではありません。自分の死によって、父のみ旨を全て成して逝くことができないことを気にかけて叫ばれたのです。イエス様は自分としては、なすべき責任を果たしたので、父が自分を天国に送られても地獄に送られても意に介されなかったのです。死の友達になるべき立場にいたイエスは死ぬことに満足し、死ぬことで自分の使命を完遂しようとしたのです。

イエスは宇宙的な愛をもってこられましたが、これを知る者がいませんでした。このように驚くべき恩賜をもってこられましたが、ひとたび死の友達になるために立った以上は何の未練ももちませんでした。天の願いを成すために来られたとしても、天の希望の存在として対して下さらなくても反駁したり、恨んだりすることのなかったイエス様だったのです。

私たちが神様を尋ねていくときには最後の峠があります。皆さんがもっている精誠を尽くしていったとしても、終わりにいけば天が知らないというときがあります。天が知らないというのは、世界的な使命が私たちの前におかれているからです。それで、イエスも世界的な使命を担当しなければならなかったので、そのような事にぶつかったのです。同じように、皆さんにもそのようなことがあるというのです。忠誠を尽くして、生活をすべて捧げて父にしがみついても天が知らないこいうことが起こるのです。

しかし皆さんは死んでも父のみ旨であり、生きても父のみ旨だと言えなければなりません。また希望を持つとすれば、父のみ旨を成すというただひたすらこの一つの希望をもたなければなりません。“食べられなくても着ることができなくても嬉しいことです。”と言うことのできる心の所有者にならなければなりません。

(1956.12.23.万民のために来られた主に侍る者となろう)

父の前に出るべき真の信仰人の態度

地の上に住んでいる人間たちが、いくら立派でいくら優れているといってもそれ自体は堕落の血統をもって生まれた存在です。もう一度いえば、原罪を持っているのです。

それで人間たちは今まで犯罪の歴史を経て来たのであり、この世界であるいは宇宙で悪と対決して分かるような、分からないようなこのような闘いの路程を経てきています。そして、私たちが希望の一日を望んで立とうとするとき、そこには無数の荒野の条件がその行路を塞いでいるということを、皆さんは生活であるいは生涯路程で体験したと思います。

それではこのような環境で、どのようにすれば解くことができるのかということが、今まで歴史過程を経てきながら良心的で善なる人たちが渇望してきた標準だったことを、皆さんはよく知っていると思います。

ところで、私たちが“今日の私”よりも“明日の私”がよりもっと善であろうとすれば、絶対的に実存される神を私たちの生活圏内に引き入れなければならないのです。すなわち、その神をある論理的な神とか観念的な神としてだけ認識するのではなく、生活で実証的な神として認識しなければならないのです。これは、私たち信仰人においては重大な問題なのです。

人間は堕落したので、いずれにしても堕落の運命を脱して行くべき道が残っているのです。このような人間が行くべき道を置いて、今まで数多い先知者たちと道人たちが、もっている誠心と忍耐と至誠を尽くしましたが、その道は今もなお全部行くことができず、まだ宇宙的な運命の道として残っているのです。

また、人間が犯した罪によってできた塀も一つ二つではなく、行けども行けども絶え間なく遮っていますが、私たちはこれを壊して越えるべき立場に処しているのです。

このような立場に立っている人間たちが、信仰の対象すなわち絶対的な神、絶対的な実存体の神を敬い慕って立ちましたが、彼らは彼についていろいろ知らない事実があることを感じるようになったのです。

それ故に、皆さんは漠然と関心的にだけ神の実存を認識してはならないというのです。しかし、論理的な面だけで神の実存を認識しようとするならば無理だというのです。何故ならば、論理圏内にだけにとどまる神ではないからです。論理的に神を認識する信仰が、私たちの生涯を導いて永遠の生命の実体として完成させてくれるのかという時ここには問題点が多いというのです。

それでは、このような環境で生きている今日、私たちは、どのようにすれば真なる主と父の前に出ることができるのか?私たちが父の前に出ようとすることは、人間の歴史的な希望であると同時に神様の摂理の目標になっているという事実を知らなければなりません。

それでは、このような環境に処している私たちが神様を探していき、信仰の道を探していくようになる時、私たちが行く道を何が塞ぐようになるのか?まず、自分も知らずに生ずる疑いの心が前の道を塞ぐのです。また、罪悪の試験が塞ぐのであり、予期なく出し抜けに襲う死亡の力が行く道を塞ぐというのです。私たちはこのような疑いの峠を越えなければならないのであり、罪悪の峠を越えなければならないのであり、死亡の峠を越えなければなりません。

そして各自に永遠なる理想と関係を結んでくれ、その結んだ関係が自分の生活を支配して、自分の生涯の目的を支配してくれることを願う欲望を人間たちは抱いています。また、このような永遠なる関係を結ぶことのできるその一つの基準を、人間たちは我知らず待ち焦がれてきているのです。人間はこのような過程をかならず経ていかなければならないのです。

また皆さんは生活圏内で神の実存を体験することを願い、神の実体と会うことを敬い慕っています。しかし、その神の実体を信仰の対象として立てておいて行こうとする時いろいろ疑いとなることが多いのです。だからといってその疑いの条件に引っ掛かって行けなくなってはなりません。それを通過しなければなりません。そして皆さんは、死亡の大きな陰の下にいるということを感じなければなりません。

それでは、このようなことを感じた後にはどのようにするべきか?それらを自分の心に抱いているだけでは、真なる信仰の道を行くことができません。このような問題を解く道がないのです。皆さんが神様はいらっしゃるということを認定するならば、神様に自分が持っているすべての疑いを率直に表す信仰の対象者となることができなければなりません。

また、自分のすべての罪悪による苦難、すなわち自分が自ら背負う自犯罪から血統的に受け継いだ遺伝的な罪まで、全部を率直に神様に告白することができなければなりません。

また、それだけではなく前に進む道を塞いでいるすべてのものと闘うべき運命に処しているにもかかわらず、永遠なる希望の世界に向かって一歩一歩前進しなければならないにもかかわらず、永遠なる命の理想を感じることのできる約束の天国に入らなければならないにもかかわらず、今もなお無力な死亡圏内にとどまっていることを私たちは克服しなければならないのです。

(1957.9.8.いつ父の前に私は立つのか)

疑いの解明方法〜勇気ある信仰

今から皆さんに神様を探そうと願う心があるならば、皆さんは今までもってきた疑いと罪悪と死亡の内容を出してしまわなければなりません。皆さんが今までとどまってたその場所、罪悪の歴史と因縁を結んでいるその堕落の環境では、神様とか、善とは関係を結ぶことはできないのです。皆さんたちが善良になることのできる環境はそのような環境ではなく新しい環境でなければなりません。

それでは、皆さんがこのような環境を脱するためにはどのようにするべきか?皆さんは“私はこのような不足な姿なので、父よ、受けてください。”という懇切な心情を持たなければなりません。そのような心情が心の中に落ち着けば、皆さんは永遠なる生命の世界に入ることができるようになります。

そして、皆さんが処している周囲の環境から持つようになった疑いをさらけ出して“父私の体と心からこれを除いてください。”と言うことができ、罪悪に捕われているこのような自分を父の前や、ある信仰の主体者の前に、ただそのまま委ねることのできる勇気を持たなければなりません。そうでなければ、そのような心情だけでも心の中心に立てて考えなければなりません。そのようにできなければ、皆さんは信仰の道を歩くことができないというのです。

神様が人間に対して尋ねて来られる時、何の条件を提示されるかというと、信仰を提示されるのです。それで人間は信仰によって自分のすべてのことを皆忘れて、疑いを持つようになる環境を打破して信じることのできる環境を造成しなければならないのであり、罪悪の環境を整理して善の環境を造らなければならないのであり、死亡の環境を打破して命の環境を造成しなければならないのです。

このようなことをすべて成した後に、永遠なる神様の愛を中心にした神様の無限大の栄光を神様の代身として歌うことができ、神様の権限を自ら現すことができるようになるのです。そのような一時を願い人間たちの心が動いてきたのです。この事実をだれも否定することはできないのです。

今日、私たちは私たちがとどまっているこの罪悪の環境を、無慈悲に精算してしまわなければなりません。また、自分のすべてのことを父の前にさらけ出すことができ、今まで結んできた父との関係においてあった疑いをすべて解明することができ、今まで持っているすべての罪悪の要素を打破してしまうことができ、今まで属していた死亡の勢力がら解脱することのできる信仰の基準をもたなければなりません。

そのようにしようとすればどのようにするべきか?皆さんが持っている疑いを解明することができる道を探さなければなりません。生命を得ることのできる道を探さなければなりません。万一、このような道が人間の世の中になければ神様は尋ねて来られることができないのです。自分の足りなさを悟って悔い改めることができるように良心を刺激してくれる実存体が神様ならば、その神様が希望する最大の希望と生命と人倫の基準を皆さんは必ず立てなければならないのです。そのようにできる一日、歴史的な終末時代がいつかはいずれにしても来なければならないのです。

それでは、このような宇宙的な運命の道を前において皆さんはどの位考えてみましたか?事実今日皆さんは宇宙とこの社会と世界、甚だしくは皆さん自身についても疑いを抱くことのできる環境に処しています。

このようなすべての問題を解明することのできる中心存在が誰かというと、神様です。また、人間たちが気になっているすべてのことをご存じの方もただ神様お一人でありそれを解決して下さる方もただお一人絶対的な存在である神様です。

ゆえに、皆さんは皆さんと関係するこのようなすべての宇宙的な疑いを背負って“神よ、私は宇宙についてのすべての疑いをもって出てきましたので、あなたと私の間に天倫的な因縁があるとすれば、私をお捨てにならないあなただと知っていますので、このすべての疑いを受けて解明してください。”と言いながら、神様に委ねてしまうことのできる肝っ玉を持たなければならないというのです。

このように疑いとなる問題を解決しようとしても解決できないこのような立場に立つ時、これを解決することを信仰の道理だと知り、それを解決するために難しい闘いをしつつ生きる人がいるならば、彼は一人歩きますが、終わりには、普通に歩いている信仰者たち以上の場所に出ていくようになるのです。

私たちは善の道を塞ぎながら悪の道を開いておくこのようなサタンの役事を退けて、個人的に勝利の目標に向かって開拓していこうとする時は、自分の疑いを全部信仰の主体者の前に率直に告白しなければなりません。告白するそれ自体も神聖なことだといえますが、真実に自分がぶつかった宇宙的な意識の限界に対して挑戦できる誠実性をもって天の前に“父よ!神よ!”と呼ぶ時は、父も彼に対してあげなければならないというのです。神様には、そのような人と対してあげるべき責任があるのです。

真実は天倫が蹂躙する法はなく、本当は神様が捨てておくはずがないのです。それ故に皆さんは皆さんの心に疑いとなるすべての事実を解決するために真実な心で、忠実と忠節と精誠の心をもって神様をつかんで訴えることができるこのような覚悟をもたなければなりません。

この疑問が解明されなければ私たちは罪の道を打開する道理がありません。いくら大きな恩恵を受けたとしても、疑問が完全に解明しなければまた倒れることもあるというのです。

(1957.98.いつ父の前に私は立つのか)

真の信仰人は悪なる環境に影響を受けない

これから皆さんは自分が歩いている信仰路程において、生命の条件を通過することができなければならないのであり、天倫の秘密に通じることができなければならないのであり、そのような道を探し立てなければならないことを知らねばなりません。それらを通った後には疑いの峠を越え、罪悪の峠を越え、死亡の峠を越え、悪を中心にした全ての欲望の峠を越えなければなりません。

それでは、その全ての峠を越えた後に、何をしなければならないのか?その次には神様を私達が奉らなければなりません。信仰の主体であられ、善の主体であられ、生命の主体であられるその方を私達の心に奉ることができなければならないのです。これは、イエス様が“私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることがわかるであろう。(ヨハネ14:20)”と言われたみ言のように一体の境地です。無限大の希望を持つ創造主の神様を信じ、その神様を自分の心の中に奉って落ち着き払うその姿がどれほど素晴らしいか?神様は、私達がそのような姿になることを願っていらっしゃるという事実を皆さんは知らねばなりません。

界の事実は本に記録するとすれば、何万冊の本にしても全ては記録できないほど多くの内容があるのです。今まで人間達に見せて教えた霊界は一部分なので、今までの霊界を紹介した本では全体の霊界の解明はできないのです。

聖書に記録されたみ言が、人間が行くべき信仰路程の全体が入っているみ言なのか、全体の価値を回復することのできる内容を備えているのかという時、私はそうでないと言いたいのです。このようなことを言えば悪口を言う人がいるかもしれませんが・・・。それゆえに、信仰の条件として信じなさいといったのであり、神様は、人間達がイエス様を最大の価値を持っておられる方だと信じるようにするためにいろいろな役事をされたのです。

それゆえに、私達がイエス様を信じてイエス様と関係を結んでいけばいくほど、より直接的に神様が私達の生活を主管することができ、神様の主管を受けることによって私達は神様に対象の位置から神様の価値と連結することができ、神様と心情的な関係を結ぶことができるというのです。このように神様の真理も私たちの生活の中に現れることができるのであり、神様の真理の対象となる要素を私たちは持っているというのです。

結局、全ての主の思想を統合させて、全ての全ての民族を統合させることのできる生活環境を建設しなければなりません。そのような生活環境圏内に入っていけば、善の希望を持つ事ができ、善なる生命を所有することができ、善の絶対的価値を現すことができるのです。人類がそのような立場に立つようになれば、神様はある特定な民族の神様ではなく、万有の神様として現れることができるのです。皆さんが生前にそのようになることができれば、皆さんは神様の直系の息子・娘になることができるのです。

今日、皆さんは他人事ではない道に既に立ちました。他人事ではない道を既に歩いています。そして皆さんは、信仰の標準を宇宙的な創造主の人格において信仰しています。皆さんの信仰の標準を達成する日には、悪の要素が皆さんから去っていくのです。そのようになれば、皆さんはこの世の中の全てのことを消化することができるのです。

真なるものは悪と共にいたとしても、その悪に影響を受けて変わることはありません。そして環境がどんなに悪なるものでも、真の息子・娘になれば、その環境の支配を受けないのです。このような真の信仰者にならなければ、天倫に対することができないだけでなく、神様の前に立つことができないのです。

それではイエス様はどうして自らを神様の一人子だと言われたのか?イエス様がこのように人間たちが到底信じることのできない、難しい条件を提示されるのは、彼らにこれを信じれば瞬間的に飛躍することができる恵沢を与えるためでした。それで、人間たちが無限なる信仰でイエス様を信じて、心から天に向かって叫ぶようになれば、飛躍的に信仰が成長するのです。

天国の中心に向かう皆さんの信仰の程度が高ければ高いほど、その分だけ霊界も皆さんを通してもっと大きく役事できるのであり、皆さんが無限なる信仰心を所有するならば、皆さんのその人格を通して、皆さんが想像することのできないほどの、超感覚的世界の事実と宇宙の事実を一時に感じることができるのです。ところが、人間はこのような驚くべきものを失ってしまったのです。行っても行っても、もっと行かなければならないのが無限なる世界を指向している信仰者の姿勢ですが、ある限界圏内に留まろうとする信仰を叫んでいる群たちを退けるため、終わりの日には宇宙的な大きな闘いをしなければならないのです。

(1957.9.8.いつ父の前に私は立つのか)

神様の前に立つことができる真の息子・娘になろうとすれば

今までの歴史路程を見てみると、新しい時代を紹介するために来た数多い先知先烈たちはほとんど全部追われました。彼らを追いこんだ人は私たちの先祖でした。イエス様が来られた時にも、ユダヤ教徒たちはイエス様を嫌って反対したのです。彼らは知りませんでした。自分たちが信じていることが第一だと思い、宇宙を代身し、天宙を代身した救援摂理を自分なりに判断したのです。このように私たちの先祖たちは天倫の道に逆らって天倫の歴史を壊すことを数多くしてきました。

それでは今日この終わりの日において誰が100%の信仰を所有することができるのか、罪悪を退けるために戦いに立った皆さんがそのような立場に立たなければなりません。そして、その信仰の土台の上に徹した責任感を持って絶え間ない努力で実践していかなければなりません。皆さんがこのような立場に立たなければ、無限なる愛の理念を持って新郎の名で来られる方の前に対象の資格を持って立つことができないのであり、また無限に成育して繁殖せよと言われた神様と関係を結ぶことができません。

このように見る時、罪が何かというと信じることができないことです。神様が送られた人物を信じることができないことが罪であり、その方のみ言を信じられないことが罪となるのです。それゆえに、皆さんは宇宙的な神様の理念を受けなければなりません。そして確固たる信仰を持って行かなければなりません。ところが皆さんがこのような信仰を持っていこうとする時、皆さんの心の中にはそれと相反する疑いが生まれるのです。

それは、皆さんの心に悪なる勢力が作用するからです。その悪なる勢力は、皆さんの心に恐怖と恐れを感じさせるようになります。皆さんがその悪なる勢力に飲み込まれるような信仰をしてはいけないのです。このようなことを消化して越えることのできる度量を持って出て行かなければなりません。このような立場に立ったイエス様だったので、彼は十字架に打たれる場所でも避けることはしなかったのです。このようなイエス様を到底非難することができないというのです。

イエス様と同じ立場で、私達は新しい信仰路程を探して歩いてかねばなりません。私達が真実に新しい信仰路程を歩いていけば、そこから私達は実証的な事実、神様と因縁のある事実、神様と関係のある事実を探すことができるのです。そのようになれば、ここから統一を念願される創造主の理想を実現させる道を探すことができるのです。

今日、死を覚悟して新しい信仰の道に従って立った皆さん達が絶対的な信仰で神様に向かっていけば、そのような信仰路程を通して皆さんは神的な価値を探すことができるのであり、それで皆さんはこのような信仰を持って責任感を感じなければならないのであり、このような信仰を持って実践する真の使徒たちにならねばならないのです。そのような皆さんにならなければ、到底、父の前に立つことができないのです。絶対的な父の前に真の息子・娘として立つことができないのであり、忠臣の姿で立つことができないのです。

今から私たちは絶対的な父の前に真の息子・娘として立つために新しい信仰で、この全ての疑いの世界、この全ての死亡の世界、この全ての罪悪の世界、この全ての恐怖の世界を越えなければなりません。私達が天の要求する信仰の内容を知るならば、それを立証させる基準を立てて天の前に立たなければなりません。そのようにできなければ、到底、神様の真の息子・娘になることができないというのです。

このような信仰を持って立つ時、皆さんは神様と永遠なる関係を結ぶことができ、永遠なる善と永遠なる生命を受けることができ、苦痛から永遠なる解放を受けることができ、永遠なる天国圏内に生きることができるという事を肝に銘じなければなりません。

(1957.9.8.いつ父の前に私は立つのか)

イエスの願いと私達

イエス様はこの地に肉体を持って生きる人として、父母に対して孝道の情を表すこともできましたがそのようにせず、夫婦の因縁も持たず、神様の怨恨が解怨されていないことを知っていたので安楽な環境を全て捨てました。世の中の私的な関係を全て切ったのです。これが今日、道の世界を探していく人々が持つ避けることができない事情だというのです。

それゆえに、あれこれより分けていくことのできない天倫的な条件があったので、イエス様は排斥を受けても黙々と、社会で排斥を受けても黙っていたのであり、サタンの讒訴を受けても語ることができませんでした。6000年間この地上の人間に対して願ってきた一人の新婦を探すことができず、息子・娘を探すことができなかったイエス様が誰に対して怨みを言うことができますか?

それでは、イエス様の願いは何でしたか?それは皆さん達がイエス様と一つになることのできる中心存在として、イエス様の全体の理念、即ち、生活的な理念、夫婦の理念、父母の理念を受け継ぐことのできる真なる姿として現れることです。そしてイエス様は、神様が願われる愛の理念を成すことのできる人を願われているのです。そのような姿の人たちが現れれば、神様の事情を表して議論することのできる時が来るというのです。

このような人たちが現れなかったので、今まで神様の摂理はすべて隠しておいて、言うに言えない立場で成されてきたのです。また、イエス様も教えようとしても教えられない立場に立っていたのです。なぜそうなのかというと、本然の理想を代身して地上に善の理念を成して行く真の愛が現れなかったからです。それで神様の摂理は象徴的な摂理だったのです。それで私達はこのような神様の象徴的な摂理を形象的に解くべき運命に置かれているのです。

創世以後、今まで地上には、神様が心を打ち明けて議論することのできる一人が現れませんでした。また、イエス様が来られて、そして逝かれた後、今まで自分の全ての理念を打ち明けて話すことのできる実体的な環境を成すことができなかったということも皆さんはよく知っていると思います。

それでは誰が歴史を代身して神様とイエス様の相対者になるべきか?万民がイエス・キリストの相対者にならなければならないのであり、神様の愛の相対者にならなければならないのです。この線まで通じる前には、皆さんは永遠なる因縁を歌うことのできる愛を通した父母の因縁を結ぼうとしても結ぶことができないのであり、夫婦の因縁、また国家的な因縁も結ぼうとしても結ぶことができないのです。

今日の皆さんが国家的な道を探していこうとする時、この地の全ての条件が皆さんを引っ掛けようとする時が来ます。終わりの日になればなるほど、皆さんが良いと思うことだけではいけないのです。それはどちらにしても変えなければならないのです。そうすれば、審判の峠を越えることができるのです。また、永遠なる父母の因縁、夫婦の因縁、実践的な国家の因縁を結ぶことができるのです。

終わりの日に天の理念を探して立った人がいるならば、その人の父母が彼を反対することが起こるというのです。皆さんがその理念を探して立つようになれば、皆さんの父母が切ろうとすることが起こるのです。夫婦が切ろうとすることが起こり、国家と世界が切ろうとすることが起こるのです。

それゆえに、皆さんはイエス様が歩いた路程を歩かなければなりません。イエス様は父母から、兄弟から、あるいは教会と国家世界からも捨てられました。しかし、イエス様は牧者の心情で天倫の変わらない法度と理念をつかんで亡くなられたので、その理念は生き残っているのです。そして、イエス様を中心にした勝利の環境が造成されてきたのです。

このようにイエス様を追い出した人類だったので、蕩減復帰原則によってイエス様を探していく人間たちは父母が反対する環境を経なければならないのであり、夫婦が反対する環境を経なければならないのであり、国家が反対する環境を経なければならないのです。そのような覚悟を持った皆さんにならねばなりません。そして、変わらない天倫の父母との因縁と本然の夫婦の因縁を通って、イエス様が語られた新婦の因縁によって一体的な生活理念を立てて、神様を奉って地を愛し、国に忠誠を立てることのできる忠僕にならなければなりません。そのような後には、イエス様の願いを成し、神様の愛が初めて人間たちと関係を結ぶというのです。

(1957.9.22.本郷の因縁を探していこう)

良いというものによって審判を受ける終わりの日

過程復帰の家庭にある峠を越えるために、過去には天使たちを通して摂理をしてきたのであり、その後には一人子を通して摂理されました。これから将来においては、父を通して主管を受ける時が来ます。それでパウロは、キリストの前にある神様の愛に対して言ったことがあります。イエス様の愛だけではいけません。また、聖霊の愛だけでもいけません。イエス様と聖霊の愛を通して、神様の愛に因縁を結ぶことのできる基準まで行かなければなりません。

そのためには、地上にある愛の条件に縛られてはいけません。また、地上にある栄光の場所に留まってもいけません。希望の一日が近付くこの時、私たちは父が審判される恐怖の一日が訪れてくるという事を感じなければなりません。

どちらにしても、人間が行くべき本然のその道を行くために立った私達は、全てのことを捨てていかなければなりません。先ず、物質を捨てなければならないし、次には父母と子女、即ち、家庭を失ってしまわなければならないのであり、そして、国家と世界まで失ってしまう道を行かなければなりません。

なぜならば、十字架の峠を越える時、父母も失い、親族も失い、教会も失い、神様が約束された宇宙主管の理念も失った、ただひたすら一つの中心は変わらなかったイエス様を手本にしなければならないからです。イエス様の中心は何かというと、永遠に変わらない父母と夫婦と家庭と国と世界を成すことでした。

このように皆さんも変わらない永遠なる因縁の為に、一時的な地上の価値を捨てることのできる心を持たなければなりません。終わりの日には自分が良いというそのことによって審判を受ける時が来ます。皆さんは何を願いますか?学者になることを願いますか?下手をすると学位が皆さんの首を締める時が来るというのです。あるいは、権力を願いますか?その権力が皆さんの首を締めるのです。そして恩恵を受ける人たちは、その恩恵によって倒れる時が来るというのです。これが、曰く大審判だというのです。自分が良いとした条件、自分が生命視したその一つの条件が、皆さんを審判台に引き渡すかもしれないのです。

皆さんは難しい場所、険しい場所でも背反せずに終わりまで残ることによって、復活を受けて第2の自分を誕生させることができなければなりません。そのような者達のみ、天国に行くことができるという事をはっきり知って下さる事をお願いいたします。そして、イエス様は“誰でも私について行きたいと思うなら、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい(マルコ8:34)”と言われたのです。“平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのである(マタイ10:34)”とも言われました。今日この時は終わりの日です。イエス様のみ言のように自分の家の中の食口が怨讐です。そして、自分の肉身・国家・社会など復帰されていない全てのものは怨讐だというのです。

このような痛々しい事実をおいて“父よ、このような事情を誰がわかりますか?”と訴えることができる心、天倫の心情を持った人は真の生命を得ることができるのであり、勝利の復活をするのです。

イエス様はゲッセマネの園での最後の談判祈祷で“我が父よ、もしできることでしたら、どうかこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままにではなく、御心のままになさってください。(マタイ26:39)”と祈祷されました。このような信仰が復活の条件になったことを皆さんは悟って、天倫を代身して戦ってこられたイエス様の心情を代身することができなければならないのであり、神様とイスラエル民族に結ばれたその因縁が皆さんを通して帰結することができ、その悲しみを解く事のできる人にならなければなりません。

このように天が誇ることのできる個人になった後に、天が誇ることのできる夫婦になり、父母になり、孝子になって国家・世界を成すようになる時、そのときは宗教が必要なくなるのです。二つではなく一つの因縁圏内で神様は初めて、人間に対して自分の栄光を顕わされ、新しい出発をするようになるのです。

そのような環境に入るために皆さんは、イエス様の後をただそのまま従っていかなければなりません。即ち、イエス様の生活理念をそのまま引き継がなければならないのであり、不変の復活の基準を立てなければならないのです。その基準は人間中心ではありません。天倫を中心とするのです。それで、天倫的な父母の場所、天倫的な夫婦の場所、天倫的な孝子の場所を経て、天倫的な孝子の法度を皆さんが立てて烈女の法度を立てて、忠臣の法度を立てなければならないのです。

(1957.9.22.本郷の因縁を探していこう)

み旨の道を塞ぐサタンとの必死の戦い

それでは、今日の信仰路程において難しい問題はどこにあるのか?イエス様が表そうとしても表すことができなかったその内的な悲しみと、当時の人間たちのために苦労されたその基盤を引き継ぐことのできる、ある一つの条件を立てることができるのか、できないのか、ということが問題だというのです。

このようなことを考えて見る時、終わりの日に処した皆さん達が失ってしまったイエス様のみ言をもう一度探そうとすれば、この地上のどんな試練と迫害にも倒れることなく、イエス様の代身として神様のみ旨を必ず成すという固い決意がなければならないのです。

そして、昔、イエス様を殺そうとしてイエス様の生活に背くようにしたサタンがいたように、今日、皆さんがイエス様のみ旨を代身して生きようとする時にも、そのような環境が起こってくるようになることを知らなければなりません。即ち、当時イエス様のことを家庭が背き、教団が背き、国家が背いたような環境が皆さんを訪ねて来るというのです。

そのような立場にあったイエス様を怨讐に売り、十字架に引き渡して、自分たちは平安な場所にいようとした者が誰だったのかというと、まさにイエス様の弟子であり、そのイエス様は神様が選んで立てられたメシヤだという事を知らず、不信し迫害した者達が誰だったのかというと、まさにイスラエル民族だったという事を知らねばなりません。それだけではなく、そのような不信によって神様に怨恨を抱かせるようにした後、今までサタンの歴史が終結しなかったので、今日、皆さんの信仰路程においても同じ事が現れるようになることを知らねばなりません。

それでサタンは皆さんを通して個人的な限界圏を超えられないようにします。イエス様のみ旨は、皆さん個人に通じ、家庭に通じ、社会・国家・世界にまで通じるみ旨ですが、サタンは社会的な環境から皆さんが個人的な限界を超えられないように塞いでいるというのです。それゆえに、皆さんは、イエス様当時のような生活環境に処するようになる時、自分の生命をかけて、その環境を脱するために闘わなければならないのです。

このようにイエス様のみ言を代身してサタンに対して闘おうとする時には、どこの誰もが知らない難しい事情を抱えるしかない立場に出くわすようになるという事を皆さんは知らねばならないのであり、もっと行けば皆さんはそのような立場に処するようになったとしても、イエス様の生涯を代身したある直接的な条件を立てて越えていかねばなりません。

それでは、今まで新婦の理念を眺めながら信仰生活をしてきた皆さんはどのようにしなければならないのか?イエス様が一生を通して語られた全生涯の理念、すなわち、全宇宙的な希望の理念をイエス様の代身として成すことができなければなりません。その時には、イエス様の新婦の場所に立つことができるということははっきり知らねばなりません。

今日、皆さんはどこに留まっていますか?皆さんは、皆さん個人に執着し嘆息する環境に留まってはいけません。皆さんは、そのような環境を越える人にならなければならないのです。愛する父母、愛する兄弟姉妹はもちろん、愛する人たちが皆反対しましたが、その反対を押し切って歩かれたイエス様の後に従っていくことのできる皆さんにならなければならないのです。そのようにできない時には、皆さんは本然の人間に復帰されることはできず、今日、統一教会はその存在価値がなくなるのです。皆さんが、このような原理原則によって摂理歴史が展開されているという事実を知るならば、皆さんはそのような道に入らなければならないのであり、そのような道に入っても、個人の欲望を満たすために努力するのではなく、全体のために努力しなければなりません。

そして皆さんは、失ってしまったイエス様のみ言を代身するみ言を探さなければならないのであり、イエス様の一代の生活を代身することのできる生活をしなければなりません。イエス様は神様が自分に約束された天と地の全ての勢力を、自分の一身に許諾したその旨を成すことができなかったとしても失望しませんでした。皆さんはそのようなイエス様の人格を学ばなければなりません。それゆえに、今日、皆さんは先駆けて歩まれたイエス様の足跡に従って、いつも新郎であるイエス様を奉ることのできる新婦になっているのか、今日の私はどんな環境に住んでいて、どの峠を越えているのかという事を良く反省しなければなりません。そして、皆さんはいずれにしても聖徒達が行くべき血を流す路程を越えた後に、栄光の中にもう一度訪ねてこられる主を迎えなければなりません。

(1957.10.4.失ったイエス様のものを探し立てる新婦になろう)

貴重なものを得るために受けるべき大きな苦痛

堕落した人間には闘争の歴史が起こらざるを得ないのです。今日、神様とイエス様は、私に対して、愛だけを施して下さるのでありません。愛の神様、愛のイエス様が、ある時は、私に対して試練と苦痛を与えてくださる審判の神様、審判のイエスさまとなるのです。

そのようなわけで、皆さんが愛の神様、愛のイエス様として見るだけではなく、神様とイエス様は試練と苦痛も与えてくださる方だという事を知って、侍ることのできる心の姿勢を持たなければなりません。そうすれば、その神様の愛、イエス様の愛は私に帰ってきて、この地上の全ての天倫の法度が勝利した私を中心に回ることができるというのです。

ここに集まってくる皆さんたちは、天の前に自信を持って表すことのできる何を持っていますか?ないという時には、私自体が天倫の前に立てることのできる条件を探すべきなのです。

終末時代である今日では、自体の理念を持って自信を持って立つことのできる人がいないのです。そのようにできる人は、ただひたすら天倫の理念を持った人だけです。人間には恐怖と不安と嘆息と心配があるのです。このような時に、人倫をつかみ、天倫をつかんで、自信を持って立てる天的理念を持った人がいるならば、その人は誰よりも第一の場所に立つのです。このような人の前には全てのことが順理的に自動的な役事として現れるようになるのです。

人間が堕落したので、人間に大きなものを与えようとすれば、天は先に大きな苦痛と試練を与えてくださるという矛盾した役事をされるしかなかったのです。皆さんの中に、自分の前に近寄る全ての試練を見て失望する人がいますか?このような人は天の苦しみを知らない人なので、地上から悲しみが去っていくようになる時、共に去って行くのです。

このような闘いの路程で、神様を代身してサタンとの闘いを引き受けて、天倫の前に自信を持って現れた方が天の忠臣イエス様だったのです。

それゆえに、終末時代に処している今日、再臨の歴史もまた同じ模様で現れるので、皆さんは時代的な全ての戦いに勝って越えて立ったという場所で、天倫と関係を結ぶことのできる善と一つにならねばならないのです。

将来、暗闇の死亡圏が世界的な落とし穴として現れるのであり、私達はこれを壊して踏み越えていくことができなければなりません。このようなことは、ある良心とか、ある倫理を持って成すことはできず、ただひたすら天倫の理念を探し立ててはじめて、新しい園の新しい栄光と関係を持つことができるというのです。

それゆえに、終末には宗教でも科学でも哲学でもどんなものでもこのような天倫の理念と関係を結ぶことができないならば、天はこれを打ってしまうのです。イエス様の前に現れた洗礼ヨハネはイエス様より知的に高い場所にいましたが、イエス様は彼を見て自分に従いなさいと言われました。それは、ヨハネは自分を中心にいましたが、イエス様は永遠において自身を持って天倫の理念を持っていたからです。

このような天倫の理念のみが、終末時代に新しい栄光と関係を結ぶことができることを肝に銘じてくださるようお願いします。

(1957.10.6.我々は栄光の新しい国を持とう)

真なる食口のすること

それでは、今日皆さんは自分の信仰路程で何を持つ人にならなければならないのか?皆さんは真の食口を持つ人にならなければなりません。皆さんが家庭に帰れば、その家庭で真なる食口を持たなければならないのであり、教会に行けばその教会でも真なる食口を持たなければならないのであり、社会に出ればその社会でも真なる食口を持たなければならないのです。

また皆さんは、イエス様が神様を代身して証し神様を代身してサタンと闘い、神様を代身して亡くなられたイエス様のために証さなければならないのであり、イエス様のために闘わなければならないのであり、イエス様のために死ぬことができなければならないのです。

もう少し進んで、皆さんはそのような立場に立った後に自分を証してくれる食口を持つ人にならなければなりません。そのようになれば、イエス様を証した使徒達がいたと同じように皆さんも自分を証す人が出てくるようになるのです。即ち、皆さんが神様の息子・娘と言える立場に立つためには、皆さんを変わることのない神様の息子・娘たちだと証すことのできる食口を持たねばならないのであり、皆さんのために闘うことのできる食口を持たねばならないのであり、皆さん自身のために死ぬことができる食口を持たねばならないのです。

そのような人になるためには皆さんはどのようにすべきなのか?誰よりも多くの人のために犠牲の道を行く指導者にならなければならないのです。即ち、多くの人のために犠牲の戦いをしなければならないのです。もう一度言うならば、皆さんが多くの人の為に犠牲の十字架を背負う真なる食口になる前には、皆さんを代身して証し、皆さんを代身して死ぬことができる人を持つことはできないというのです。

イエス様は神様のために自分というものを少しも考えず、自分の全てのことを捨てて犠牲の道を行ったのであり、彼が証すことは自分を証すことではなく、神様を証すことだったのであり、彼が戦うこともまさに自分のためではなく、神様に全体摂理のみ旨を果たすためだったのです。

それで、今日まで数多い聖徒達はそのようなイエス様のために証し、イエス様のために闘ったのであり、イエス様のために死んでいったのです。それゆえに、皆さんも復帰のみ旨を完成して行く過程で皆さんを証すことができ、皆さんのために闘うことができる食口を持たねばなりません。もし、皆さんがそのような食口を持つことができなければ、天地の前に、あるいはイエス様の前に、怨讐の立場になることを知らねばなりません。

イエス様がこの地に来られてなくなられるようになった原因はどこにあったのか?自分の為に死ぬことができる人がいなかったからです。イエス様がこの地上で闘うようになった原因はどこにあったのか?自分の為に闘う人がいなかったからです。また、イエス様が自らを証した原因はどこにあったのか?自分の為に証してくれる人がいなかったからです。

それゆえに、皆さんはイエス様の心情を代身したイエス様の食口にならなければならないのであり、自分の為に証してくれ、死ぬことのできる食口を持たなければならないのです。万一、そのような皆さんになることができなければ、キリストの30年間の生涯路程を、皆さんが蕩減して、生きた祭物として父の前に捧げることができなかった怨恨が皆さんに残るようになるのです。これを皆さんは肝に銘じなければならないのです。

それでは皆さんたちは今日、どのようにすべきなのか?真なる食口を探していく一歩において、皆さんたちはイエス様が気づかわれたその心配の心情を持って神様が気遣われたその心配の心情を持たなければならないのであり、食口のために祈祷する心を持たなければなりません。また、イエス様が、愛する弟子と愛する民族のために祈祷してくださいましたが、イエス様の愛を受ける弟子達とイスラエル民族がむしろイエス様を不信し抱かせた全ての怨恨を解き、慰労して差し上げる皆さんにならなければなりません。

それゆえに、今日、皆さんがイエス様を中心にした教会と民族を探したてるためには、他の人たちが遊んでいる時に、神様をサタンの前に証す仕事をしなければならないのであり、他の人たちが知らない間にサタンと闘って行くために死を覚悟することのできる真なる食口を探し立てなければなりません。

(1957.10.18.イエスの真の食口となろう)

サタンの讒訴を脱することのできる信仰

イエス様が死ぬ当時に“わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですマタイ27:46)”と言われるようになったのは、全宇宙の主人公を代身して現れたイエス様だったので、宇宙を代表してアダムが天に背いたことを蕩減しなければならなかったからです。このようなイエス様は、“あなたを知らない”と言う時にも、“知らない”という神様を“知っている”と言ったので、“知っている”という条件が霊的復活を起こせしめることができたのです。皆さん自体にもこのような歴史的峠が残っていることを知らねばなりません。

世界的な終末の運勢が、今日、皆さんの生活圏内に染みわたっているということを皆さんが感じるというのは、皆さんはそれが、皆さんにモーセと民族が結束しなければならなかったその時を予告することであり、モーセがパロと戦った時代を予告することだということを知らねばなりません。

それでは、神様の悲しみはどこに招来したのか?その指導者たちが失敗して神様が悲しまれたのではなく、後に従う人たちが失敗して神様を悲しませたということを知らねばなりません。

今日、皆さんたちが他の人が知らない道、他の人が行かないこの道を歩いて行く目的は何でしょうか?皆さんたちは力を合わせて団結して神様が運行できる一つの団体となって、食べても飢えても個体を忘れてしまっても天倫のみ旨に対して喘いでいたモーセの足跡を死守する後継者にならなければならないのであり、ヤコブの足跡の後継者にならなければならないのであり、イエスが行った足跡をついていく後継者として使命を完遂しなければなりません。これが終わりの日の聖徒達が、選ばれたイスラエル圏内に入ることのできる条件です。

天を代身するイエス様はこのような原則を知っていたので、“生きんとする者が死に、死なんとする者が生きる”と言いました。即ち、サタンを屈服させようとすれば神様を中心として、死の場所も越えなければなりません。天が人間を排斥してもまったく揺れることなく、継続して天を信じて立つことができてこそ、サタンが離れてサタンの全ての讒訴条件を脱することができるのです。

それでは、これから天は失ってしまった第1イスラエル型を霊的に立てておいて世の中に散らばっている世界の宗教人たちを第2イスラエルとして立てておいて、彼らを合わせて一つになるようにしたその場所で、第3イスラエルの建設を経営するということを知らねばなりません。

それゆえ、今日皆さんたちはアブラハムのような第3イスラエルの祖先にならなければならないのであり、ヤコブの代身として第3イスラエルの祖先にならなければならないのであり、民族の代表だったモーセのような第3イスラエルの代表者にならなければならないのであり、世界の代表者であるイエス様のような第3イスラエルの代表者にならなければならないのです。また、皆さん自身は神様の復帰摂理歴史過程を振り返ってみながら、今まで父なる神様に対して讒訴したサタンを踏み越えて、神様を慰労することのできる個人・民族・国家・世界にならねばならないことを知らねばなりません。

それでは、サタンは何か?神様を反対する逆賊です。ところが、サタンも、神様は悪くないと言うのです。それで、神様がサタンに対して与えざるを得ないのです。サタンも神様が好きなのです。このような条件があるので、6000年間の長い歳月を経ざるを得なかったのです。サタンも神様が好きだと言う立場で、“アダムを通して全宇宙を主管すべきこのようなみ旨を、私を立てて宇宙を主管するようにしてください。そうすれば神様の前に絶対服従します。”と、このように言うのです。

サタンは神様に対抗して、神様の前に、肯定させるための役事をしているのです。摂理のみ旨を最後まで反対して、肯定させるための立場に立とうというのです。

(1958.29.神様の選民である選ばれたイスラエルになろう)