「成約時代」とは何か

一般的に「成約」という言葉は、誰かとの間で交わした契約や約束が「実る」「成就する」ことを意味しています。

そして「成約時代」と名付けると、その契約が成就する時代という意味になり、これは歴史の教科書には登場しない、いわゆる宗教用語となります。

すなわち、「成約時代」とは、神が人類にむけて約束した「救援」「救い」の約束が成就する時代のことなのです。。

旧約時代、新約時代

過去、神が人類に交わした古い約束を「旧約」、そして、イエス・キリスト誕生以降、新しい約束を「新約」として位置づけ、それぞれ旧約時代、新約時代と区分しました。

神が人類に宣言した救いの約束を成就するために送られた方がイエス・キリストでした。しかし、この救世主を迎えるために神が準備したユダヤ民族がイエスを十字架で殺害してしまったため、神は新しい救援の約束をすることになったのです。イエスが「私は再び来る」として昇天されたため、イエスの再臨を待ち望むクリスチャンたちがその後全世界に版図を広げていきました。

そして、今から100年前、一人の霊的指導者が新しい真理をもって現れました。文鮮明先生です。しかし、準備されたクリスチャンたちの反対にあい、本来神の願うコースに沿って摂理を進めることができず、逆に、過去の失敗した内容を元に返す蕩減路程を通過せざるを得なくなりました。

最終的に、神の真理の核心部分は比喩や象徴などで表現するにとどまり、人間の実体救済を完全なものとして成せなかったため、次世代に課題を残した形となりました。神の摂理は、救いの約束を成就する「成約時代」に移行されたのです。成約時代は2001年から出発しました。

救い=本来の状態に帰ること=完成

ところで「救い」という言葉を耳にしたときにあなたはどのように感じますか?

この「救い」には宗教的意味合いが色濃くあって、宗教に対する偏見を持つ人にとっては少々耳障りに感じるかもしれません。

そもそも、人が「救われなければならない」とみるのは、現在の人間が本来の状態にないことを意味していて、たとえば、キリスト教ではそのような状態を「人間は堕落した」と表現しています。これは、ある理由から人間の心が神から離れ、神がわからなくなり、無知に陥ってしまった・・・というのです。

あなたの周りを見渡して、「神はいる!」と堂々と公言している人がいますでしょうか。もしも、そんな人が近くにいたら、頭が少しおかしくなったのではと、きっと無意識にその人を遠ざけてしまうかもしれません。このように違和感を覚えるほど神の存在自体がわからなくなっているのです。

ですから、「救い」とは、堕落し苦悩の中にある人類に神が手を差し伸べ、本来の状態へと引き上げることだというわけです。無知に陥った人間を真の知に至らしめるといってもよいでしょう。このように、実は「救う」というのは、神の立場からの見方であるのです。

わたしたち人間側からすれば、今の状態そのものが「人間の姿」「人間とはこういうものだ」と考えている場合が多いでしょうね。特に社会的に実力があり、自信満々に生きている人などは、自分が救われる必要があるなどとは考えも及ばず、逆に社会を良くしたい、自分が救ってあげるのだという強い意志をもって生きている人さえいるのです。「救い」を口にする者は、宗教によりどころを求める心の弱い人の話だと一笑されるかもしれません。

しかし、そういう自信ある人でも、ひとたび事故や病気などが原因で健康を害したりして、自分の力ではどうすることもできない境遇に陥った時に、初めて自分の命、人生、果ては生きる意味、死について考えるようになるでしょう。そして、私をこの世に存在せしめた大いなる存在、根源者=神について考えるようになります。また、同じような境遇に置かれた人が、実は意外にも多くいることに気づかされていきます。

何不自由なく幸福な生活を営んでいるときには見向きもしなかった、不幸な人々が、実に世界にはまだ多く存在し、平凡な幸福さえ享受できていないことをはっきりと認識できるようになると、その時から心は一瞬にして平安な状態を失うことになるでしょう。まさに人類を見つめる神の心中に近づくのです。

人類は有史以来、幸福な社会の永続が実現できず、むしろ闘争と殺戮の歴史が繰り返されています。これはひとえに人類が未熟な状態にあるからであり、今後成熟、完成しなければならない課題を抱えているということがわかります。

ですから、「成約時代」というのは、人間の立場から見るならば、未熟な人間が完成し成熟する時代であると言ってもよいのです。

未成熟な状態にあるものは何か

ここでもう少し深く掘り下げてみるべきは、わたしたち人間の何が未熟、未成熟なのかということです。

一言、「成熟した」といっても、人間は心の部分と体の部分があって、その両方の完成をもって「成熟した」と表現すべきでしょう。心と体のどちらか一方が未成熟であれば、それは人として成熟したとは言いませんね。

一般的に身体的部分は一定の条件、すなわち必要な栄養素を摂取し、自然環境、住居環境が整っていれば自然に自律的に成長し完成していくいようになっています。一般的に男女共に18歳~20歳くらいになれば体の機能はすべてが整うようになっています。

一方、精神面、心はどうでしょうか。

これは人それぞれ違います。18歳を過ぎて、いわゆる法的に「成人」になった人でも、精神的に「まだ子供みたい」に自分のことしか考えない幼い人と評価されてしまう人もいるわけです。反対に、体は未成熟な中学生や高校生であっても、思いやりにあふれ、自分の意志、意見をしっかりともつ、大人顔負けな青少年少女もいます。人間社会の中で、この心(精神)こそ問題視され、幸せも不幸も、争いも調和もすべて、この心の思い、考えによってもたらされていることがわかります。

心の命ずるままに体は動いていきますから、この人間の「心のありかた」こそが大変重要になってくるということです。

従って、宗教的意味合いの強い「成約時代」は、実は人間の心が成熟に向かい、やがて完成する時代になるということなのです。